薬草の放つ青く爽やかな香りと、窓から差し込む柔らかな陽光。
パチパチと薪がはぜる小さな音で目が覚めた時、俺——火野リンタロウの視界に飛び込んできたのは、見たこともない天井と、リンゴのように鮮やかな赤髪の少女の姿だった。
「……あ、気がついた? 良かった……相当うなされていたから、心配したんだよ」
それが、俺と白雪の出会いだった。
『赤』——幼い頃、全てを奪った色。
自分自身の髪にすら混ざるその色を、俺はずっと嫌悪して生きてきた。
そして出会った少女の笑顔を奪い、消し去ったのもまた、その色だった。
全てを失い、生かされ、世界に絶望して倒れていた俺を拾い上げ、介抱してくれたのが、このタンバルン王国で小さな薬剤屋を営む彼女だった。
「……君、髪の毛……」
掠れた声で呟く俺に、少女はパチパチと瞬きをして、それから自分の鮮やかな髪を少し手で弄んだ。
「これ? うん、生まれつきなんだ。……変かな?」
「ううん、違う。……すごく、綺麗だ」
嘘偽りのない本音だった。
トラウマだったはずの「赤」が、こんなに綺麗に見えたのは……久しぶりだった。
言葉も通じない、地理も分からない。文字通りの「異世界」で行き場を失っていた俺に、少女は優しく微笑み、温かいスープを差し出してくれた。
「私は白雪。君の名前は?」
「……リン。リンタロウだ。リンって呼んでくれ」
あの日、差し出せなかった手を、俺は今度こそ伸ばす。
生き残ってしまったこの命に、もし意味があるのだとしたら。
俺を地獄から引き上げてくれたこの赤髪の少女を、俺の全てをかけて守るために——俺はこの世界にやってきたのだと、そう思いたかった。
♢♢♢
それから、三年の月日が流れる。
彼女が摘み取った薬草の匂いと、土の匂いが混ざり合う小さな薬剤屋の窓辺で、俺は空を見上げる。
「兄さん、またそんなところでボーッとして。お昼ご飯食べないの?」
薬草を分類する手を休めず、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに微笑む少女——白雪。太陽の光を浴びて光る彼女の髪は、このタンバルン王国でも他に類を見ない、リンゴのように鮮やかな赤色をしていた。
「今から食べるよ。ありがとう」
机の上に置かれた布包みのバスケットには、この近くの山々で収穫した山菜のサンドイッチが入っていた。
「食べる時は薬草の棚から離れてね。万が一混ざったら大変だから」
「わかってるよ。いただきます」
窓際の椅子に腰を下ろし、白雪お手製のサンドイッチを口に運ぶ。
"元いた世界"の食事に比べればかなり質素ではあるが、ここでしか味わえない……誰かの温もりを感じながら食べられる喜びが、確かにそこにはあった。
「美味しい……」
静かに言葉が漏れる。
俺は……リン。
この世界の人間じゃない。
三年前のある日——日本から異世界という見知らぬ地に放り出された。
行く当てのなかった俺にとって、この小さな薬剤屋と、目の前で忙しなく立ち働く少女の存在は、いつの間にか「俺の居場所」そのものになっていたのだ。
——思い返せば、三年前のあの出会いからして大事故のようなものだった。
見知らぬ土地の路上で倒れ、無気力で……生きているのか死んでいるのかすら定かではなかった俺を助けてくれたのが白雪だった。彼女の薬草と介抱で野垂れ死には避けられたものの、当時の俺には身分も、帰る場所も、この世界で生きるために必要な知識すら提示できなかった。
そんな俺に白雪は言ってくれたのだ。
『落ち着くまで、ここに居ていいよ』
その一言で、俺は居場所を得た。
同時に、視界がじんわりと滲み、止めていた息と一緒にボロボロと涙が溢れ出していた。
——居場所。
幼い頃に家族を失った俺の人生にはどこにもそんなものはなかった。
親戚の家を転々としても、施設で過ごしても、どこに行っても俺は「余計な一人」でしかなく、息を潜めて生きるしかなかった。
誰にも必要とされず、誰の心にも残れず、ただ生かされているだけの空っぽな存在。
そんな俺の目を見て、この世界で最初に「ここに居ていい」と言ってくれたのが、白雪だった。
温かいスープの湯気越しに微笑む彼女が、俺にとっての全世界になった。
この髪も、この瞳も、この命も——全部、あの日…白雪が拾ってくれたから今ここにある。
白雪が笑ってくれるなら何だってする。白雪の居場所を守れるなら、俺の命なんていくらでも投げ出せる。
この時の俺はまだ、己の内に芽生えたそのあまりに深く、歪で、重すぎる執着の正体に気づいていなかった。
そして俺は、この時のスープの味を…何があっても忘れないだろうなと…そう心から思った。
そうして、俺がこの店に居座り始めて数日たったある日、最初の事件は起きた。
『あら白雪ちゃん、その方は誰? 髪とか目とか……白雪ちゃんとそっくりだけど……』
薬を買いに来たご近所のお婆さんが、店の手伝い……という名の居座りをしていた俺を見て首を傾げた。
やばい、と俺の脳内に警報が鳴り響く。
(別の世界から来ました……なんて言っても信じてもらえるわけがない。さて、なんて言ったらいいんだ!?)
必死に頭を悩ませる。
かと言って「道端で倒れてた不審者です」なんて言ったら、速攻で兵隊に不法入国でしょっぴかれてしまう。
どうする、どう言い訳する俺の頭脳——!
極限の焦りの中、必死に絞り出した俺の口からスッと出た言葉は、最悪の爆弾だった。
『……兄です』
その言葉に、薬を調合していた白雪の手がぴたりと止まった。
『生き別れの……兄です……』
——嘘下手くそか、俺は!!
恐る恐る隣を見ると、白雪が目を丸くして完全に「ぽかーん」としていた。そりゃそうだ! 初対面の男に突然「お前の生き別れの兄だ」なんて言われたら正気を疑う。
冷や汗を流す俺の横で、白雪はしばらくフリーズしていたが——何を思ったか、カッと目を見開いた。
『そ、そうなんですよ! 偶然……本当に偶然、再会できたんです!』
(白雪さん??? まさかの乗ったぁぁぁぁぁ!?)
この超デタラメなご都合主義展開に乗っかるの!? 白雪……この子、嘘をつくのが下手すぎて逆に突っ走ったな!? 出たとこ勝負すぎるだろ!!
『グスン……白雪ちゃんも大変だったのねぇ。再会できて本当によかったわねぇ』
『あ、ハハ……ありがとうございます……』
白雪は引きつった半笑いで言葉を返す。
お婆さん泣いてる……信じちゃったよ……。
お婆さんが感動しながら店を出て行った後、静まり返る店内。
俺と白雪は、お互いに気まずそうに顔を見合わせ——同時に深いため息をついた。
『……ねえ、リン。生き別れの兄ってなに?』
『ご、ごめん…つい咄嗟に出ちゃって…!』
あの時、手を合わせて平身低頭で謝る俺を、白雪は呆れながらも笑って許してくれた。
『髪色も目もなんだか似てるし、まあいっか』
なんて、白雪は楽しそうに笑った。
『これからよろしくね。兄さん』
白雪は悪戯っぽく微笑んだ。
それ以来、俺たちは周囲に対して「生き別れの兄妹」という設定を通すことになり、だから白雪は俺を"兄さん"と呼ぶようになった。
それから本当の兄妹のように寄り添って、共に三年の月日を重ねてきたのだ。
穏やかで、温かくて、愛おしい日常。
この幸せがずっと続くのだと、俺はどこかで高を括っていたのかもしれない。
——そう、あのタンバルン王国の『バカ王子』の使者が、この店に舞い込んでくるまでは。