「どこに行くんだ?」
「お花摘みに」
ゼンの問いかけに、リンは事もなげにそう返す。
「白雪を頼んだよ、紳士様」
「任せとけ。幼気な娘を守るのも紳士の務めだ」
さっきゼンが白雪へ「紳士として警護してやる」と口にしていたのを思い出し、ちょっとした悪戯心で揶揄ってみたのだが、ゼンは気取った風もなく純粋な笑みで返してきた。良い意味で冗談が通じないタイプのようだ。
……だからこそ、信用できる。だが、一言釘を刺すことだけは忘れなかった。
「あんまり子供扱いしてると、痛い目を見るぞ」
前を歩く白雪の小さな後ろ姿を見つめながら告げると、ゼンはふっと口元を緩めた。
「芯の強いやつだってことは、もう十分わかったよ。お兄様」
……は? 誰がお前の兄だ。
お前に「お兄様」なんて呼ばれる筋合いはない。それに、俺を兄と呼んでいい人間はこの世で白雪ただ一人だ。
こいつ、さっき「紳士様」と揶揄ったのをきっちり打ち返してきやがったな。純真だなんて思った俺が馬鹿だった。やっぱり少し撤回、信用ならない……と言うより油断ならないかもしれない。
だったら、こっちだって——。
「白雪」
「ん? 兄さん、なに?」
呼び止めて、ゼンの横顔を盗み見ながら告げてやる。
「変なコトされたら、遠慮なく俺に言うんだぞ」
「えっ!?」
白雪は露骨に警戒心を露わにし、素早くゼンから数歩距離を取った。
「するか!!!!」
森の静寂を破るように、ゼンの絶叫が響き渡った。
白雪はゼンたちに連れられ、あの空き家へと戻っていく。俺はその背中を見送り、彼女たちとは真逆の方向——タンバルン王国の国境側へと足を向けた。
まあ、軽口は叩いたが、ゼンのことは信用している。俺が少しばかり離れたところで問題はないだろう。ゼンもミツヒデも木々も、常に剣を身につけている。側近二人の立ち振る舞いからしても、それなりに腕が立つはずだ。
……人を自分の都合で利用するような考え方は好きではないが、白雪の安全には代えられない。
それに、俺の「お花摘み」は少し長くなりそうだ。どうやら事態は、思っていたよりも厄介で大変らしい。
「さて、と……」
溜息混じりに小さく呟き、瞳の奥に冷たい光を宿す。
(……厄介者を、追っ払うか)
まさか他国の領域へ足を踏み入れてまで追手を差し向けてくるとは思わなかった。そこまで頭が回らないバカなのか、それとも手段を選ばないほど白雪を手に入れたいのか。
どちらにせよ——俺たちの平穏をこれ以上脅かすというのなら、容赦する気は毛頭ない。
森の奥、気配の漂う木立の前で立ち止まると、俺は静かに口を開いた。
「……まるで、一度狙った獲物をしつこく追い回す狂暴な獣だな」
一度自分の所有物と定めたらどこまでも執着し、決して離そうとしない愚鈍な熊。
野の獣なら、力の差を肌でわからせてやれば嫌でも理解して引き下がるものだが、こいつらはどうだろうな。
「まさか国境を侵犯してまで追ってくるとは……バカ王子の使いっ走りのみなさん、遠路遥々ご苦労様」
皮肉を込めて朗々と呟くと、樹々の影から物言わぬタンバルンの兵士たちが姿を現した。
狙い通り、数はそう多くない。たったの四人だ。
そりゃそうだろう。他国の領域へまとまった数の兵を送り込んだとなれば、それはもはや軍事侵攻とみなされる。そうなればタンバルンとクラリネスの二国間外交は破綻し、たとえ王子の一首あろうと収拾がつかない大惨事になる。
(……上も上なら、下も下だな)
主の無謀な命令を愚直に受け入れ、他国の森を跨いで踏み込んできた四人の兵士を見据えながら、俺は静かに自らの間合いを測った。
「……はぁ。やっぱりバレてたか」
「だから言ったろ、こんな森の中でコソコソ探したって無理があるって……」
兵士たちに気迫は一切なく、やる気など微塵も感じられない。
聞き耳を立てて探ってみれば、どうやら彼らはクラリネス国境近くの村を守るただの警備隊らしい。
白雪を探すためにその村へやってきたラジ王子に、理不尽かつ強引に「国境を越えて連れ戻してこい」と命じられ、納得いかないまま駆り出されただけ……というのが事の真相のようだ。
(……なるほどな。この人たちも災難だな)
あまりの馬鹿さ加減に呆れ果てている彼らの態度を見て、俺の内にあった殺気はふっと失せた。
代わりに浮かんできたのは、深い同情だった。
「……だったら、素直に引いてくれませんか? 俺はただ、妹と静かに平和に暮らしたいだけなんです。これ以上追ってこないなら、こちらから危害を加えるつもりは一切ありません」
穏やかな声で交渉を持ちかけると、兵士たちは顔を見合わせながらぽろぽろと本音を漏らし始めた。
「……なぁ、王子から言われた話とずいぶん違わないか?」
「ああ。『悪魔のような兄に妹が虐げられ、囚われているから連れ戻せ』って聞いてたんだが……」
「とてもそんな風には見えんな……」
「むしろ良いお兄さんじゃないか。妹のためにわざわざ国境まで越えて逃げてきたんだろ?」
「わかるよ、俺にも妹がいるからその気持ち。悪魔どころか苦労人だな……」
(……悪魔ってなんだ、悪魔って)
ラジ王子のデタラメな言い分に心の中で盛大に突っ込む。
だが、どうやら話の通じる相手で助かった。兵士たちの目には、すでに俺たちを捕らえようという意志など欠片も残っていない。
「俺はただ妹を大切にしたいだけなんです。だから見逃してくれませんか?」
リンの紳士的な対応の前に、兵士たちは頷いた。
「わかった。あのお方のワガママに付き合って、妹想いの良い兄ちゃんを痛めつけるなんて寝覚めが悪い」
「『捜索したが、クラリネス領内で完全に足取りを見失った』とでも誤魔化して報告しておくさ」
「助かるよ。タンバルンの警備隊は話せる人でよかった」
俺がほっと息を吐いて笑ってみせると、一人の兵士が険しい顔で口を開いた。
「君、だったら一刻も早く妹さんのところへ戻った方がいい」
「え……?」
「実は、我々の他に『王子の直属』が一人、一緒に来ているんだ。我々とは別行動で、すでに森の奥へ向かっている。あいつには俺たちの言葉も通じない……早く戻らないと妹さんが危ないぞ」
「——っ!?」
心臓が跳ね上がった。
王子直属の使い。別行動。
そいつが何を持って、白雪のもとへ向かっているのか——嫌な予感が脳裏を激しく駆け巡る。
「ありがとう!」
そう言って俺は兵士たちに背を向け、大急ぎで白雪たちのいる森の家へ走る。
(白雪……!)
呼吸を乱しながら、来た道を全力で逆噴射する。
風を切り、木々を押し分ける視界の中で、胸の奥の胸騒ぎは増していくばかりだった。
白雪にはゼンたちがついている。ミツヒデに木々…ゼンの護衛の二人もいる。
……だが、もし、万が一があれば!
「白雪……!」
血相を変え、俺はあの空き家へとひたすら走った。風を切る音が耳元で鳴り響く。
「白雪!!!!」
絶叫に近い叫び声を上げながら、勢い任せに扉を叩き開ける。
跳ね上がったドアの向こう、視線を素早く走らせ、家の中を見回した。
だが——空き家の中に、白雪の姿はなかった。
「白雪……?」
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
白雪だけじゃない。ゼンの姿も、ミツヒデや木々の姿すら消えている。
静まり返った部屋の中で、俺の目に飛び込んできたのは——机の上にぽつんと置かれた、かじりかけの「リンゴ」。
そして、床に落ちていた「白雪のリボン」だった。
「…………」
視界に入ったその二つだけで、全てを察した。
白雪のリボンを手に取ると、それをぎゅっと握りしめた。
理性を繋ぎ止めていたナニカが、音を立てて断ち切られる。
——ブチン、と。
俺はタンバルン兵たちの言葉を思い出す。
「白雪を探すために、王子は今近くの村に来ている」と。
ならきっと、白雪もそこにいる。ゼンたちは……いや、今はそれより白雪だ。
助けに、今すぐ行かなければ…全神経がそう告げている。
近くの村…兵たちが戻った方向にある。
その方角を…タンバルンを見つめていた時、ふと白雪と交わした約束が脳裏を過った。
『兄さん、夜は何が食べたい?』
『白雪が作るものならなんでも。俺が作ってもいいけど?』
『ふふ、今日は私に作らせて』
『そっか。なら焼きリンゴのパイかな』
結局食べられなかったな……と、机の上に残されたかじりかけのリンゴを見つめる。
気づいた時には、吸い寄せられるようにそのリンゴを口に含んでいた。
「……白雪」
一口噛み締めたリンゴは、白雪の髪のように色鮮やかな赤——けれど、その断面は不気味に、所々が黒く変色していた。
それはまるで、血と嫌な思い出に塗り潰されている俺の過去そのものだ。
白雪と過ごしたあの日々、温かな日常、二人で交わした何気ない日常の約束——その全てが、今この瞬間、身勝手な欲望によって踏みにじられ、薄汚されていくような激痛が胸を裂く。
「……汚すな」
込み上げる不快感も、口内に広がる微かな痺れも力づくで飲み込む。
握りしめた白雪のリボンから伝わる微かな温もりだけを頼りに、俺は不快な甘みを喉の奥へ押し込み、静まり返った空き家を飛び出した。