と、とりあえず5話目です。
どうぞ。
「ここか……!」
険しい森を獣のように疾走し、俺が辿り着いたのは国境に最も近いタンバルンの街だった。
枝葉を薙ぎ払い、木々に身体を打ち付けた擦り傷から血が滲んでいたが、そんな痛みを気にする余裕など微塵もなかった。
「白雪……!」
街の外からでも一目で分かる、一際巨大で絢爛な邸宅。
空き家に残されていた手紙——白雪を連れ去った王子の使者が残した予告文にあった『別宅』とは、あれで間違いない。
山の急斜面を滑り降りるように駆け下り、俺は一直線にその屋敷を目指した。
邸宅の周囲には、仮にも王子の滞在先とあって厳重な警戒態勢が敷かれている。兵士たちが慌ただしく行き交っていたが、俺にとっては好都合だった。混乱と焦りは、必ず隙を生む。
「……ふぅーっ」
壁の死角に背を預け、荒い呼吸を殺す。
口内に残る不快な痺れと違和感を力づくで押し込め、警備の配置を見極めた。
兵の視線が途切れた一瞬の隙を見逃さず、俺は地を蹴った。頭上を飛び越えるような跳躍で影から影へと滑り込み、難なく敷地内へ侵入する。
監視カメラも無ければ、赤外線センサーすらないこの世界の警護など、ザルも同然だ。
手頃な石拾って敷地内の菜園へと投げ込めば、大きな音に釣られて兵士たちがぞろぞろと群がっていく。
兵たちが意識を向けた逆のルートをすり抜け、俺は白雪だけを求めて邸宅の奥へと疾風のごとく駆け出した。
(白雪……待っててくれ。すぐ行くから……!)
敷地内への侵入には成功した。ここからは一刻を争う時間との戦いだ。
できれば兵たちに見つかる前に白雪を見つけ出し、速やかに連れ出したい。その後は……白雪の無事を確認してから考える!
ぐっと握りこぶしに力を込めた、まさにその時だった。
「おい! そこの貴様、何者だ! 手を挙げろ!」
通路の曲がり角から現れた兵士に、捉えられた。突きつけられる槍の刃先。
不法侵入している以上、「怪しい者じゃありません」と言ったところで通用するはずもない。普段の俺なら大人しく降参して見せる場面だが、今の俺にはそんな悠長に交渉している余裕など微塵もなかった。
「……ここに、俺と同じような綺麗な赤髪の女の子が連れて来られていますよね? どこにいるか、教えてもらえませんか?」
努めて穏やかに、丁寧な口調で尋ねる。
すると兵士はピクリと眉を動かし、警戒を強めた。
「貴様……まさかクラリネス王国の王子と、その側近の関係者か!?」
「……クラリネスの、王子?」
一瞬、思考が止まる。
クラリネスの王子……? なぜここで急にそんな言葉が……いや、まさか、ゼンか?
姿を消していたゼンが、白雪を救うために既にこの邸宅へ乗り込んでいるのか。
脳内でバラバラだったピースが一気に噛み合っていく。この邸宅の警備に目立った荒らされた形跡がない理由も——ゼンが「クラリネス王国の王子」として堂々と正面から踏み込んだからだ。
(まさか本当に王子様だったとは……)
心の中で舌を巻きつつ、俺は即座にその場しのぎの策に乗っかることにした。
「……察しが良くて助かります。実はそうなんですよ。俺、ゼン王子の下で働いている者でして……そこを通していただけませんか?」
「ならば、クラリネス王家の者であるという証拠を見せろ!」
「……ですよね。急拵えのハッタリじゃ無理がありましたか。仕方ないな……」
騙して穏便に通してもらう目論見はあっさり潰れた。なら——もう引き返す選択肢はない。
争いも暴力も好きじゃないが、白雪の安全と引き換えにできるものなんて、この世に一つもないんだから。
「——っ!?」
兵士が瞬きをした一瞬。その隙に視界から姿を消し、背後へと滑り込む。
そのまま無駄のない動作で首元へ腕を回し、鮮やかにヘッドロックで絞め落とした。
「すいませんね。あなたに恨みはないんですが……文句なら、バカな王子に言ってください」
意識を失った兵士が膝から崩れ落ち、手から離れた槍が床に甲高い音を立てて転がる。
その音に反応するように、邸宅の奥からドタバタと大勢の足音が近づいてくるのが聞こえた。
……こうなれば、もう完全な強硬手段だ。
暴力は嫌いだ。争いなんて悲しみしか生み出さない。だけど、言葉で理解し合えないからこそ、この世界には争いが絶えないのだから。
些細ないざこざが、やがて取り返しのつかない大きな戦火へと発展していくように。
「争いたくない」という綺麗な理想だけじゃ、大切なものは何一つ守れない。守り抜くためには、時には力でねじ伏せる覚悟が必要なんだ。
「……押し通らせてもらいますね。大怪我をしても恨まないでくださいよ?」
通路を埋め尽くすように槍を構えて押し寄せる兵士たちに向け、俺は極めて丁寧に、そして冷徹にそう告げると、両手のアザと傷だらけの拳を強く握りしめた。
かかって来る兵士の首元を掴み、問答無用で投げ飛ばす。正面の重々しい扉を蹴破り、邸宅の内部へと足を踏み入れた。
白雪がいるのはきっと——。
(あそこだ。外から見えていた、三階の大きな窓のある部屋……!)
そしてそこには、きっとあのバカ王子もいるはずだ。
見栄えばかりを気にする王子の性格なら、一際豪華な部屋を選ぶに決まっている。
(白雪……無事でいてくれよ!)
白雪が何もされていないことを祈りながら階梯を駆け上がり、立ちふさがる兵士を片端からなぎ倒して前へと進む。
それにしても、狭い室内で長物の槍を使わせるなんて、何を考えているんだ。振り回すことすらできない長剣や槍など、屋内では邪魔な鈍器でしかないのに。
タンバルン王国……というより、あのバカ王子の防衛意識は思った以上に穴だらけだ。
ここまで三十人以上の兵士を蹴散らし、俺はついに目的の部屋の前へと辿り着いた。
扉を守っていた最後の二人を軽く絞め落とすと、なりふり構わずその扉を蹴り破る。
「白雪っ!」
「兄さん!?」
部屋の奥に、白雪の姿があった。
無傷で立っている彼女の姿が視界に入った瞬間、胸の奥で言葉にならない安堵が爆発する。
その傍らにはゼン、ミツヒデ、木々の姿もあった。どうやら全員無事のようだ。やはりゼンたちも助けに来ていたらしい。道理で邸宅内の警備が慌ただしく動いていたわけだ。
そして、ゼンの前で情けなく腰を抜かしている細身の男——事の元凶であるタンバルン王国のラジ王子。
そのすぐ近くには、あの時……白雪と俺の前に現れた「王子の使い」の男が立っていた。
「貴様ぁ……っ!」
使いの男は、俺の足元に転がる兵士と俺の姿を見るなり、鞘から抜き放っていた剣を構えて襲いかかってきた。
「よ、よせ! 殺すのは——!」
ラジ王子が狼狽した声を上げたが、使いの男はすでに勢い任せに剣を振りかぶり、俺の頭上へと振り下ろしていた。
ゼン、ミツヒデ、木々の三人が咄嗟に柄へ手を伸ばすが、間合い的に間に合わない。
眼前へ迫る鋭利な刃。
だが、避ける、交わす、逃げる——そんな選択肢はハナから脳内に存在しなかった。俺はただ単純に、真っ直ぐ振り下ろされる刃の刀身に向け、左手を伸ばした。
——ザシュッ、と不快な肉肉しい音が響き、鮮血が舞った。
その瞬間、明確に室内の空気が氷結した。
リンは……刃を、その素手で直に受け止めたのだ。
「なっ……!?」
剣を振り下ろした男の顔が、驚愕に引きつった。
ポタポタと手のひらから血が滴り、剣を伝って高価な絨毯を赤く染めていく。
奇妙な沈黙が辺りを支配していた。
手のひらを深く切り裂かれているというのに、リンの眉一つ動かない。涙を流すことも、苦痛に顔を歪めることもない。
握りしめられた剣は、微動だにしなかった。あとほんの少しでも力を込めれば、手のひらが真っ二つに切断されるのは誰の目にも明らかだった。だが、その「ほんの少し」が、永遠のように遠かった。
男がどれだけ顔を真っ赤にして力を込めようと、刀身を直に掴むリンの腕は微動だにしなかった。ただ、鮮血だけが静かに腕を伝って垂れ落ちていく。
その凄惨で狂気的な光景に、白雪は目を見開き、両手で口を押さえて絶句している。ゼンは顔色を変え、ミツヒデと木々も息を飲んでいた。背後から注がれる感情の渦を感じながらも、俺は眼前の使いの男だけを見つめ返していた。
光の一切宿っていない、深く、冷たい闇のような瞳で。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……まだ、続けますか?」
それは問いかけではなく、圧倒的な「脅し」だった。これ以上踏み込むなら容赦はしない。白雪の前でこれ以上の惨事は見せたくない。だから、これ以上させるな——と。
リンの纏う異質な雰囲気に屈した男は、ガタガタと震えながら大人しく剣を引いた。
ポタポタと落ちる自分の血など意にも介さず、俺の視線は怯えて足のすくんでいるバカ王子——ラジへと向けられた。
一歩、また一歩と距離を詰める。ラジ王子は悲鳴を上げながら後退り、やがて背中が壁にぶつかった。
次の瞬間、俺は拳を深く引き絞っていた。
「兄さん、ダメ! やめて!!」
絶叫に近い白雪の声が響いた直後——ラジ王子の頬を掠めた拳が、壁を破壊する大音響を叩き出した。
だが俺の耳には、その音すら遠く聞こえた。ただパラパラと落ちる漆喰の粉と破片の音だけが響く。
拳がめり込んだ壁には、蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走り、ラジ王子はその場にドサリと腰を抜かした。
俺は腰を抜かした王子を見下ろし、溢れ出る怒りをなんとか押し殺しながら、静かに告げた。
「……ご無礼をお許しください、けど、ラジ王子。あなたの身勝手で白雪の人生を無茶苦茶にしようとしたこと、それがどうしても許せなかった。ですが……白雪は優しい子なので、あなたにも何もしてないと思います。だから俺も今日はこれで飲み込みます。けれど……これっきりにしてください」
平静を装いたかったが、無理だった。白雪の身に危険が及んだと思ったら、頭に血が上って制御が効かなかった。
昔、旅の途中で出会った人物に言われたことがある。『感情のコントロールができないうちは、どれだけ強くても子供だ』と。俺もまだまだ、半人前の子供ということらしい。
ラジ王子は心底怯えきった様子で、何度も何度も必死に首を縦に振った。
俺が拳を壁から引き抜くと、白雪が一目散に駆け寄ってきた。
「兄さん!」
「白ゆ——」
「バカっ!!!」
「ひっ……!?」
白雪の一喝に、俺は思わず目を丸くして肩をギュッと縮こませた。
血に濡れた俺の左手を、白雪は愛おしそうに、けれど怒りに震える手で優しく包み込み、近くにあった布を引っ掴んで大慌てで傷口に巻き付けていく。
剣を素手で受け止めても眉一つ動かさなかった男が、妹のひと声で怯えるように肩を竦める光景に、ゼンは呆気に取られて開いた口が塞がらない様子だった。
それはミツヒデや木々たちも同じでポカンとしている。
「なんで剣を手で掴むの!? 斬り落とされていたらどうするの!?」
「だ、だって……そのまま振られたら危ないだろ……白雪や、後ろのみんなに当たったら……」
「危ないのは兄さんでしょ!! すぐ治療するから!」
「わ、分かったから……そんなに怒らないでくれ……」
「切り傷も、アザもこんなに……!」
「こ、これは森を走って来たから……いろんな場所で引っ掛けたんだよ」
あまりの温度差に、凍りついていた室内の空気が急速に和らいでいく。
白雪の怒った顔、自分を心配してくれる声——その全てに触れ、無事な彼女の姿を目にした瞬間、今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
「……白雪。よかった……無事で、本当によかった……」
気がつけば、俺は右腕だけで白雪を強く抱きしめていた。
血に濡れた左手で白雪の服や髪を汚してしまわないよう、頭の後ろをそっと包み込むようにして引き寄せる。
一瞬だけ驚いたように目を見開いた白雪だったが、いつもの温かな兄の温度を感じ取ったのか、すぐに安堵したような柔らかい笑みを浮かべ、その腕を素直に受け入れてくれた。
「私は大丈夫だから。今は、自分の怪我を治すことだけ考えて」
「……うん、わかった」
大人しく頷き、俺は白雪の手による手際の良い治療を受け入れる。
その様子を横目で見ていたゼンが、呆れたような、けれどどこか安心したような溜息を吐くのだった。
次回、タンバルン王国編のエピローグです。