ねじまきゆらりは始まりの夢を見るか?
昔から、ギターが好きだった。
それこそ物心がついた時から、ずっと音楽に触れてきた。
一番最初に好きになった曲が何だったのかは、もう覚えていない。
ただ、家ではいつも音楽が流れていた。
父が音楽を――特にロックバンドが大好きだったからだ。
サザン。
RC。
他にも、父がどこからか見つけてきた、いろんなバンドの曲。
車に乗れば流れていたし、家にいても流れていた。
だから私にとって音楽は、わざわざ自分から探しにいくようなものじゃなかった。
気づいた時には、そこにあった。
「これ、いい曲だろ」
「んー」
「ちゃんと聴いてる?」
「聴いてるよ」
「じゃあ誰の曲?」
「知らない」
「聴いてないじゃん」
「曲は聴いてるって」
そんな会話をした記憶がある。
何の曲だったのかは忘れてしまった。
でも、父が楽しそうだったことだけは覚えている。
その中でも、デイ・ドリーム・ビリーバーは好きだった。
これは今でも変わらない。
何がそんなに好きだったのかと聞かれると、少し困る。
父がよく聴いていたからなのか。
あのメロディが好きだったのか。
単純に、幼い頃から何度も聴いていたからなのか。
たぶん、全部だ。
そんな家で育ったから。
ギターに興味を持ったのも、特別なことではなかった。
弦を押さえる。
鳴らす。
変な音がする。
もう一度。
今度は少しだけ綺麗に鳴る。
それだけで楽しかった。
昨日できなかったことが、今日はできる。
一度見たコードは、なんとなく覚えられた。
好きな曲を何度も聴いていると、だんだんどう弾いているのか分かってくる。
分からなければ調べる。
動画を見る。
真似する。
失敗する。
また弾く。
気づけば、学校から帰ったらギターを触るのが当たり前になっていた。
別に、プロになりたかったわけじゃない。
有名になりたかったわけでもない。
バンドを組みたいと考えていたわけでもなかった。
ただ。
ギターが好きだった。
自分の指で、自分の好きな音が鳴る。
昨日まで鳴らせなかった音が、今日は鳴る。
それだけでよかった。
そんなある日。
ふと思った。
自分の演奏を、ネットに上げてみたい。
当時の私にとって、ネットは今よりずっと広くて、ずっと得体の知れない場所だった。
それでも、まったく縁がなかったわけじゃない。
父が、そういうものに比較的詳しかったからだ。
だから相談してみた。
「弾いたやつ、ネットに上げてみたいんだけど」
「いいんじゃない?」
「いいの?」
「別に。面白そうじゃん」
思ったより、あっさりしていた。
「ただし」
父がこちらを見る。
「絶対に自分のことは出すなよ」
「分かってるよ」
「本名もダメ」
「うん」
「顔も出すな。っていうか、姿も映すな」
「分かってるって」
「住んでるところも学校も言うな」
「言わないよ」
「声も入れない方がいいな」
「じゃあ何を上げるの?」
「ギター」
「……ギターだけ?」
「それを上げたいんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「だったら、それだけでいいじゃん」
何度も何度も言われた。
自分のことは、ネットには出さない。
本名も。
顔も。
姿も。
声も。
学校も。
住んでいる場所も。
何も。
今思えば、随分と心配していたのだと思う。
それでも、やるなとは言われなかった。
ネットから遠ざけるのではなく。
どうすれば危険を避けながら使えるのかを教えてくれた。
それが、父なりのやり方だったのだろう。
そうして。
私はネットに演奏を投稿することになった。
――のだけれど。
「…………名前」
パソコンの前で固まる。
何も思いつかない。
本名は使えない。
当然、普段使っているような呼び名もダメだろう。
かといって、格好いいハンドルネームを急に考えろと言われても困る。
「…………んー」
机を見る。
何もない。
画面を見る。
当然、答えなんて書いていない。
椅子にもたれながら、何となく足元を見る。
「……ん?」
何か落ちていた。
拾い上げる。
小さな螺子だった。
「なんでこんなの落ちてんの……」
たぶん父だろう。
音楽だけじゃなく、日曜大工も好きな人だった。
何かを作った時の余りか。
どこかから転がってきたのか。
まあ、そんなところだと思う。
手のひらの上で、小さな螺子を転がす。
「ねじ……」
画面を見る。
「ねじ……まき」
口にしてみる。
もう一度。
「ねじまき」
悪くない。
特別な意味なんてなかった。
何か願いを込めたわけでもない。
自分を表す言葉だと思ったわけでもない。
ただ、その時。
そこに螺子が落ちていたから。
それだけ。
キーボードを叩く。
――ねじまき。
「……よし」
こうして、私は「ねじまき」になった。
そこからは、ただ楽しかった。
好きな曲を弾く。
録る。
聴き直す。
気に入らなければ、もう一度。
納得したら投稿する。
映像はない。
写真もない。
文章だって、必要最低限。
そこにあるのは、音だけだった。
誰が弾いているのかなんて分からない。
男なのか。
女なのか。
何歳なのか。
どこに住んでいるのか。
どんな顔をしているのか。
どんな服を着ているのか。
そもそも、どんな姿でギターを弾いているのか。
何ひとつ分からない。
分かるのは。
どんな音を鳴らすのか。
それだけ。
父との約束を守って。
私は、自分のことを何ひとつネットに置かなかった。
代わりに。
ギターの音だけを置いていった。
少しずつ聴いてくれる人が増えた。
コメントもついた。
上手い。
この音が好き。
次も待ってます。
そんな短い言葉が、嬉しかった。
その人たちは、私のことを何も知らない。
私も、その人たちのことを知らない。
でも、それでよかった。
むしろ。
それがよかった。
ネットの向こう側で「ねじまき」を知っている人たちは、私の顔を知らない。
姿を知らない。
声さえ知らない。
だけど。
私のギターだけは知っている。
私が何を好きで。
どんな音に惹かれて。
どう弦を鳴らして。
どんな音を気持ちいいと思っているのか。
そんなものだけが、音になって向こう側へ届いていく。
それで十分だった。
顔なんてなくていい。
姿なんてなくていい。
名前だって、本当のものじゃなくていい。
そこに残った音だけは。
間違いなく、自分が鳴らしたものだから。
音だけが、真実だった。
だから、また弾いた。
別に誰かに見つけてほしかったわけじゃない。
これで何かになれるとも思っていなかった。
ただ好きだったから。
ギターを弾いて。
録音して。
ネットに置いて。
また次の曲を弾く。
そんな毎日だった。
ずっと。
そんな日々が続いていくのだと思っていた。
ある日。
いつものようにパソコンを開いた。
投稿した演奏の反応を見る。
コメントをいくつか読んで。
少し笑って。
そのまま画面を閉じようとして。
一件のメールに気づいた。
「……ん?」
知らないアドレスだった。
広告か何かだと思った。
普段なら、そのまま消していたかもしれない。
でも。
なぜか、その日は手が止まった。
件名を見る。
――演奏について。
「……なにこれ」
クリックする。
画面が切り替わる。
文章が表示される。
けれど。
本文を読むより先に、目に入ったものがあった。
差出人。
知らない名前だった。
聞いたこともない。
誰なのかも分からない。
この人がどんな人なのか。
何を作っているのか。
どうして私にメールを送ってきたのか。
何も知らない。
当然だ。
この時の私はまだ、その人の声すら知らなかった。
どんな音楽を作るのかも。
このメールに何が書かれているのかも。
この一通から。
自分の人生がどこへ向かっていくのかも。
何ひとつ、知らなかった。
ただ。
画面に表示された、その名前を見ていた。
――ネムリ。
*
「……ん」
目を覚ます。
見慣れない天井があった。
「…………」
しばらく、ぼんやりとそれを眺める。
知らない天井。
知らない部屋。
まだ身体に馴染んでいないベッド。
窓の向こうから、朝の街の音が聞こえてくる。
故郷とは違う朝。
「……変な夢」
身体を起こす。
何だったんだろう。
音楽。
ギター。
パソコン。
螺子。
そして――ネムリという、知らない名前。
妙に鮮明だった。
弦を押さえた指の感覚まで。
アンプから鳴った音まで。
まるで、本当に自分が経験したことみたいに。
でも。
これは、私の夢じゃない。
だって私は、ギタリストなんかじゃない。
音楽をやっていた覚えもない。
私は警察官。
応援のために故郷を離れ、この街に来ている――
ここからストグラ編スタート
捻葉マキの話が始まります