第1話 死者が蘇る魔法
北部高原の夜は、初秋であっても肌を刺すような冷気を帯びている。石造りの頑丈な建物が連なる一角、くぐもった笑い声と安酒の匂いが漏れ出る酒場の片隅に、白いケープを纏ったエルフの姿があった。
フリーレンは木の丸椅子に腰掛け、琥珀色の蒸留酒が注がれた小さなグラスを指先で弄んでいた。口をつける気配はあまりない。周囲の荒くれ者や商人たちが卓を叩いて騒ぐ喧騒のただ中で、彼女の周囲だけがまるで切り取られたかのように静まり返っている。長い耳を微かに揺らし、旅人の雑多な噂話に聞き耳を立てていたその時、ドスンと重い足音が真横で止まった。
「おいおい、こんな夜更けにエルフのお嬢ちゃんが一人で酒場か? 迷子じゃねえなら、帰って母ちゃんの乳でも吸ってな」
赤ら顔のドワーフだった。無骨な三つ編みに結われた髭を酒で湿らせ、手にした大ジョッキを傾けながら、千鳥足でフリーレンの隣の席を占領する。酒臭い息とともに投げかけられた軽口にも、フリーレンは眉一つ動かさず、ただ翡翠の瞳をゆっくりと向けただけだった。
「お酒を飲みに来たんじゃないよ。おもしろい魔法の話がないか、聞きに来たんだ」
「魔法だあ?」
ドワーフは鼻を鳴らし、豪快にジョッキを煽った。髭についた泡を手の甲で無造作に拭うと、面白がるように濁った目を細める。
「魔導書集めの物好きか。なら、とびきり物騒な話を教えてやるよ。……ここから街道を東に大きく逸れた、険しい山の向こう側の話だ。あそこには昔から、鍛冶と戦士の気風が残る偏屈な街がある。名をカグツチと言ってな。……そこじゃ今、『死者が蘇る魔法』が実在するって噂で持ちきりよ」
フリーレンの指が、グラスの縁をなぞるのを止めた。
「死者が……?」
「ああ。もっとも、綺麗なおとぎ話なんてもんじゃねえぞ。その魔法で黄泉帰った連中はな、山林を徘徊する殺しても死なない怪物になってるって話だ。首を刎ねられようが、内臓を抉られようが、平然と立ち上がって獲物を八つ裂きにする……死してなお彷徨い続ける呪われた化け物だ。現地の山賊どもがその術を握ってるとか何とか。まあ、酒の肴の怪談話にしちゃ上出来だろ? どうだ、エルフのお嬢ちゃん。震え上がってションベンちびる前に、宿へ帰んな」
ドワーフは下卑た大笑いを響かせ、背中をバンと叩いて去っていった。
男自身は何も知らない。ただ尾ひれのついた噂を面白おかしく語り、恐怖を煽って満足しただけだ。だが、残されたフリーレンの瞳の奥には、氷のような冷徹な光が宿っていた。
死者が蘇る魔法。
ありえない話だ。世界を構築する理として、魂の失われた肉体が、動かなくなった頭脳と心臓が、再び真の生命を取り戻すことなど、魔法の歴史においてただの一度も成立したことはない。それは神話の時代から続く絶対の原則だ。
「……ありえないはずなんだけどね」
フリーレンはぽつりと呟き、琥珀色の液体が揺れるグラスをカウンターに残して、静かに立ち上がった。
翌朝。
宿の窓から差し込む陽光は白く、高原特有の澄み切った冷気を孕んでいた。
身支度を整えたフェルンが、几帳面に畳まれた予備のローブを荷物に詰め込み、シュタルクは眠たげに欠伸を噛み殺しながら、壁に立てかけた大斧の革帯を締め直している。
部屋の扉が開き、朝食の席に着いたフリーレンは、卓上に置かれた焼き立ての硬いパンをちぎりながら、何でもないことのように口火を切った。
「昨日、ドワーフからおもしろい魔法の噂を聞いたんだよ」
荷造りの手を止めることなく、フェルンが紫色の瞳を向け、わずかにジト目を作ってため息を落とす。
「また、くだらない魔法ですか? ……かき氷のシロップをイチゴ味に変える魔法とか、そういう類のものなら、今は路銀の無駄遣いをしている余裕はありませんよ」
「ううん、『死者が蘇る魔法』なんだって」
淡々としたその言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
革帯を締めていたシュタルクの手が止まり、怪訝そうに顔を上げる。
「死者が蘇る……? そんなもん、ありえるのかよ? 人間もドワーフも、死んだら土に還るだけだろ。アイゼンだって、そんな魔法は存在しねえって言ってたぜ」
「うん。ありえないよ」
フリーレンはパンを口に運び、咀嚼してから静かに言った。その声には何の抑揚もなく、ただ絶対的な事実を淡々と述べる響きがあった。
「どんな魔法でもありえないことだ。だから、調べに行こう」
「……フリーレン様」
フェルンが小さな眉を寄せる。
いつものように寄り道を咎めようとしたが、師の顔を見るなり言葉を詰まらせた。
フリーレンが軽蔑する魔族や、死者への冒涜、あるいは常理を外れた歪な魔力に対して見せる、あの静かで冷ややかな眼差しを察したからだった。
「街道を東に逸れた先にあるっていう国、カグツチへ向かう。死者が本当に動いているなら……それは魔法による別の何かだ」
朝の光の中、フリーレンは杖を手に取った。風がカーテンを揺らし、山林の彼方から漂う冷涼な土の匂いを運んでくる。一行の足は、不可解な黄泉帰りの噂が蠢く東の険山へと向けられた。
* * *
本街道を東に外れて数日、一行が進む山林は、踏み荒らされた獣道すら途切れる険しい原生林へと様変わりしていた。針葉樹の深い緑が頭上を覆い、湿り気を帯びた黒土と腐葉土の冷たい匂いが足元から立ち上る。
不意に、森の静寂が内側から弾け飛んだ。
空気を切り裂くような重低音の咆哮とともに、鬱蒼とした木立を薙ぎ倒して現れたのは、硬質な岩肌のような外骨格に覆われた巨大な四足の魔物だった。頭部から突き出た歪な大顎が、巨木を噛み砕きながらフリーレンたちへと迫る。
「うおっ! でけえな……下がってろフェルン!」
シュタルクが即座に前へ踏み込み、背の大斧の柄に手をかけた。フェルンもまた澱みのない挙動で木製の杖を構え、迎撃の魔力を練り上げる。
だが、魔物が前脚を振り下ろすよりも早く、頭上の木立を突き破って二つの大きな人影が降下した。
「ぬんッ!」
地響きを伴う着地とともに、風を切り裂いて振るわれたのは、常識外れに分厚く幅広な鋼の刀身だった。見慣れぬ形状の片刃の剣をそのまま巨大化させたような異形の巨剣。それが魔物の前脚を叩き伏せる。
続いて、白銀の閃光が滑るように宙を舞った。流麗な軌跡を描いて抜かれた、細身の優美な片刃の剣。二つの影が流れるような連携で魔物の側面に回り込む。
そしてその二人の頭部、額の左右からは、獣めいた無骨な二本の角が突き出ていた。
「魔族……!?」
シュタルクが息を呑み、斧の切っ先をその影へと向けた。フェルンの杖の先にも鋭い牽制の魔力光が灯る。
「待って」
フリーレンが静かに手を挙げ、二人を制した。その翡翠の瞳は、敵意ではなく観察の色を湛えて彼らを見つめている。
「あれは魔族じゃない、『オーガ』だ。詳しくはあとで話すけど、ドワーフの一種だよ」
「ドワーフ……? あんなにデカいのにか!?」
シュタルクが驚きの声を上げる間にも、戦況は目まぐるしく動いていた。
ふと視線を横へやると、木陰の安全な岩場の上で、額に小さな角を生やした小柄な少女が、自身の上背ほどもある豪奢な鞘の刀を抱えて無邪気そうに手を振っている。
「クロ兄様、シロ兄様、やっちゃってー!」
妹の声に応えるように、大柄な男が野太い笑声を轟かせた。
「がはは! 任せておけコガネ! このような醜悪な獣、吾輩と弟の敵ではないわ!」
長男――クロ兄様と呼ばれた男が、身の丈を超える巨剣を大地へと突き立てる。
その瞬間、フリーレンの眉がわずかに動いた。男の体内から魔力は一切感じられない。にもかかわらず、その刀身に宿る魔力が爆発的に膨れ上がったのだ。
ごう、と大気が唸りを上げる。
魔物の足元の地面が突如として意志を持ったかのように隆起し、鋭利な岩の牙となって巨体を打ち上げた。
(……バルグラント。大地を操る魔法だ)
かつて一級魔法使い選抜試験で、リヒターという名の男が好んで使っていた術式と酷似している。それを、魔力を持たないオーガの男が、刀の一振りで引き起こしていた。
宙へ浮いた魔物に対し、細身の偉丈夫――シロ兄様と呼ばれた男が音もなく間合いを詰める。理知的な光を宿した瞳を細め、腰の細剣を滑らかに水平へと薙いだ。
「お任せを、兄者。……露払いと参りましょう」
大気中の湿気が、瞬時に剣の周囲へと凝結する。
刀身から解き放たれたのは、濁流のごとき激しい水流の刃だった。大気を切り裂く水圧が、空中の魔物の硬質な甲殻を容易く両断し、鮮血とともに絶命させる。
(……リームシュトローア。水を操る魔法)
カンネが得意としていた術式。
切り落とされた魔物の巨体がドスンと地面に崩れ落ち、周囲に立ち込めていた濃密な殺気が急速に霧散していった。
静寂を取り戻した森の中で、二人の男は手慣れた所作でそれぞれの得物を鞘へと収めた。兄の巨剣が革鞘に収まる鈍い音と、弟の細身の刀がカチリと鍔鳴りを響かせる澄んだ音が重なる。
「ふう、手応えのない奴め。怪我はないか、コガネ!」
「うん! クロ兄様、かっこよかった!」
岩場から駆け下りてきた妹のコガネが、満面の笑みで長男の腰にしがみつく。次男は穏やかな微笑を浮かべながら、衣服についた土を払っていた。
「旅のお方、怪我はござらぬか。いきなり割り込んでしまい失礼仕った」
丁寧な礼を執る次男の横で、長男は豪快に胸板を叩いて笑っている。一見すると、強い絆で結ばれた腕利きの兄妹による、鮮やかな救援劇だった。
だが、フリーレンの視線は、彼らが腰に帯びた見慣れぬ片刃の剣――その刀身の奥底に淀む、奇妙で不快な魔力の残滓にじっと注がれていた。