砕け散った赤黒い刃の破片が、礼拝堂の石畳に甲高い金属音を立てて降り注ぐ。
居合の衝撃で弾き飛ばされたコガネは、受け身も取れぬまま床を滑り、無様に尻餅をついた。その小さな両手には、もはや刀身を失い、無惨に剥き出しとなった鉄の茎と柄だけが堅く握り締められていた。
「あ……っ……」
呆然と宙を見上げる少女の視界の端から、二つの大きな影が足早に駆け寄ってくる。
心臓を穿たれ、腹部に穴を開けたままの巨躯。しかし、その足取りには先ほどまでの狂気じみた重圧はなく、妹の危機に駆けつける肉親のそれであった。
「立てるか、コガネ」
低く、包容力に満ちた声とともに、太い逞しい手が少女の前へと差し伸べられる。クロガネだった。その隣にはシロガネが寄り添い、優しげに眉尻を下げて見守っている。
「ありがと……兄様……」
安堵に顔を綻ばせ、コガネは涙で潤んだ瞳のまま、兄の大きな掌を握り返そうと小さな手を伸ばした。
しかし――指先が触れ合う寸前、何かが溢れ落ちる微かな気配が走る。
触れることは叶わなかった。
差し伸べられたクロガネの指先が、まるで長年放置された羊皮紙が風化したかのように、黒ずんだ魔力のボロ屑となってハラハラと崩れ落ちたのだ。
「……え?」
コガネの小さな手が、虚空を泳ぐ。
腕から肩へ、そして胸へと、二人を形作っていた輪郭が急速に剥落していく。七崩賢アウラの術式が刀身の破砕とともに瓦解し、死した魂を無理やり現世に繋ぎ止めていた魔力の糸が、音もなく千切れていく。
「やだ……やだっ! 兄様!? なんで崩れちゃうの!? ダメだよ、いかないでよ!」
錯乱したコガネが、崩れゆく黒い塵を必死に抱きしめようと腕を振り回す。だが、触れようとするそばから、兄たちの輪郭は風に解ける煙のように指の隙間をすり抜けていく。
「……フリーレン様」
フェルンが痛ましげに眉を寄せ、杖を握る手を強張らせた。シュタルクもまた、大斧を地面に下ろし、奥歯を噛み締めてその光景を直視していた。彼女が愛した兄たちは、とっくの昔に死んでいた。その残酷な事実が、今まさに容赦のない現実となって幼い少女を打ちのめしている。
だが、崩壊が進むその最中――。
二人の巨漢の虚ろであった双眸に、ふっと、柔らかな体温を宿した光が灯った。
狂気に塗れた傀儡の面影は完全に抜け落ち、そこにはかつてカグツチの民から英雄と称えられ、妹たちを慈しんでいた本来の理性が確かに黄泉帰っていた。
二人は自らの砕けゆく身体を見下ろし、そして足元で泣き叫ぶ末妹の姿を静かに見つめた。
自分たちがとうの昔に命を落としていたことを、そして目の前で泣きじゃくる幼い妹が、兄たちを失いたくない一心でどれほど重い呪いを一身に背負い続けてきたのかを――すべて悟ったかのように。
クロガネの顔に、咎める色は微塵もなかった。
男は残された片腕をゆっくりと伸ばし、黒い粒子となって解けゆく指先で、コガネの小さな頭を優しく、愛おしそうに撫でた。
「……そうか。吾輩は、とっくの昔に死んでおったのだな」
深く、穏やかな声が静寂を満たす。
「すまなかったな、コガネ。……お前ひとりに、重い刀を持たせてしまった」
「クロ兄様……っ、う、うわぁぁぁん!」
コガネが縋り付くように声を上げて泣き崩れる。
その隣で、シロガネもまた穏やかな笑みを浮かべ、妹の前に膝をついた。静かに首を横に振る。
「泣くことはない。そなたの優しい心は、ずっと拙者たちに届いておったよ。……コガネ、もう大丈夫だ。お前はもう、一人で歩いていける」
「やだよぉ……! 兄様たちがいなきゃ、私、ひとりぼっちになっちゃうよ……!」
独り残される恐怖に怯え、子供のように首を振る妹に対し、クロガネは豪快に、かつて戦場で仲間を鼓舞した時のような誇り高い笑みを浮かべて見せた。
「ひとりぼっちなものか。お前の中には、吾輩たちが教えた武と、共に生きた日々が残っておる。カグツチの誇り高き娘よ、顔を上げるのだ。……最期にもう一度、よく見せてくれ」
温かな言葉が、コガネの心を縛り続けていた幼き狂気の殻を、一枚ずつ優しく剥がしていく。
少女はしゃくり上げながら、袖で何度も涙を拭い、霞む視界の中で光の粒子へと変わりゆく兄たちの姿を懸命に見つめ返した。
伸ばされた手は、もう触れ合えない。
それでも、魂に刻まれた温もりだけは確かにそこにあった。
コガネは震える膝に力を込め、自らの足で、ゆっくりと石畳を踏みしめて立ち上がった。
「……うん。一人で、立てるよ……兄様」
その言葉を聞いた瞬間、二人の兄の顔に、この上なく満足げな笑みが広がった。
崩壊は、すでに半身から首元にまで達していた。
最後に、クロガネとシロガネは視線を巡らせ、礼拝堂の中央で抜身のシマカゼを下げたまま立ち尽くす、もう一人の妹へと目を向けた。
アカガネは唇を真一文字に結び、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、直立の姿勢で兄たちを見据えていた。
「アカガネ」
シロガネの涼やかな声が、別れの風に乗る。
「留守を立派に務めてくれたな。……すまぬが、あとのカグツチを、そしてコガネを頼むぞ」
「……うむ」
クロガネが野太く、誇らしげに頷いた。
「見事な居合であったぞ、我が妹よ。……国を護ってくれて、ありがとうな」
「兄上……!」
アカガネの瞳から、堪えきれなくなった大粒の雫が零れ落ち、床の石畳を濡らした。
二人の姿は、眩い光の粒子となって礼拝堂の天井へと舞い上がった。窓から差し込む秋の陽光に溶け込むようにして、魔力の残滓すら残さず、静かに、安らかに霧散していく。
あとには、ステンドグラスを透過した穏やかな光と、冷たい山の風が吹き抜ける音だけが残されていた。
コガネはその場に立ち尽くし、兄たちが消え去った虚空を、ただじっと見つめていた。その頬を伝う涙は止まっていなかったが、その双眸からはあの底知れぬ狂気の影は消え失せ、年相応の、けれど前を向こうとする少女の光が戻っていた。
フリーレンは手元の赤い杖を静かに下ろし、光の消えた天井を仰ぎ見た。
「……黄泉帰りなんて、やっぱりなかったね」
淡々とした、けれどどこか悼むようなエルフの呟きが、静まり返った礼拝堂に静かに染み渡っていった。
あとがき
第一章はこれにて終幕です。
次回より、天才刀匠シュウハクと残り二本の妖刀をめぐる、第二章に続きます。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも面白かったと感じていただけましたら、ご評価・ご感想等をいただけますと、とてもとても嬉しいです。執筆の励みになります!