第11話 銘『吉野州白』
霊峰の冷気が吹き抜ける山道を下り、一行が再びカグツチの街へと戻った頃には、すり鉢状の谷を夕闇が包み込もうとしていた。無数に立ち並ぶ鍛冶工房から吹き上がる煤煙は夜の帳に溶け、炉火の鈍い赤さだけが、街のあちこちで生き物の呼吸のように明滅している。
領主の館の大広間には、昼間とは異なる重苦しい静寂が横たわっていた。
白砂利が敷き詰められた中庭からは秋の虫の声すら届かず、ただ冷え切った夜風が障子の薄紙を微かに震わせている。
一段高く設えられた上段の間に、アカガネは再び腰を下ろしていた。
深紅の着流しを緩やかに寛がせ、黒漆の肘掛けに身を預けながら、真鍮の煙管から細く白い紫煙を燻らせている。その双眸には、妹を狂気の呪縛から解き放ち、敬愛する兄たちを土へと還した安堵の色と、統治者として国を背負い直した冷徹な厳しさが同居していた。
そこに、末妹コガネの姿はない。
長年の憑き物が落ちた少女は、泣き疲れたまま館の奥の一室で深い眠りに就いていた。
下段の板張りの間、擦り切れた敷物の上に置かれていたのは、砕け散った妖刀『ヒガンバナ』の残骸であった。
赤黒い刀身の破片が鈍い光を放ち、その中央には、柄を失って鉄肌が剥き出しになった平たい
フリーレンは床にしゃがみ込み、翡翠の瞳を細めてその黒ずんだ鉄の表面を凝視していた。シュタルクとフェルンもまた、その背後から覗き込むように視線を落とす。
茎の表面には、タガネによって深く鋭く刻み込まれた、複雑怪奇な幾何学的文様が並んでいた。
「……さっぱり読めないな」
シュタルクが後頭部を掻きながら、心底困惑したように息を吐く。
「ドワーフの文字ってのは知ってるけどさ、俺がアイゼンから教わった文字とは形が全然違うぜ。ただの模様にしか見えねえ」
「私も読めません」
フェルンが静かに首を横に振った。
「古エルフ語とは様式がまるで違いますね。……フリーレン様、解読できそうですか?」
問われたフリーレンは、細い指先で鉄の凹凸をなぞりながら、途切れ途切れに唇を動かした。
「ん……ヨシ、ノ……? それと……ヒ、ガン……かな。古ドワーフ語だからね。私でも少し時間がかかる」
千年の時を生きる大魔法使いをして難渋せしめる古代の文字。
その様子を紫煙の向こうから見つめていたアカガネが、煙管を煙草盆の縁で軽く叩き、乾いた音を響かせた。
「無理もなかろう。その文字を解せる者は、今やカグツチの熟練の刀鍛冶と、片手で足りるほどの長老衆しかおらん」
女領主は煙管の吸い口を向け、鉄の板に刻まれた二つの文字列を指し示した。
「右に刻まれた三文字は『彼岸花』――ヒガンバナ。その忌まわしきカタナの真名じゃ。そして左に刻まれた四文字……『吉野州白』とは、ヨシノ=シュウハク。千年前、この地に妖刀の技術をもたらしたと伝わる、伝説の刀匠の名よ。己が打ったカタナに、名を刻んだのじゃな」
「ヨシノ=シュウハク……?」
シュタルクが眉をひそめ、唇の中でその響きを転がした。
「なんか、変わった名前だな。アイゼンとかクロガネとか、名前って普通は一つだけだろ? 二つに分かれてるなんて珍しいっていうか……」
「シュタルク様、他国の文化に対して失礼です」
フェルンがすかさずジト目を向け、鋭い声で窘める。シュタルクが慌てて口を噤むと、アカガネは薄く笑って首を横に振った。
「よい、知らぬのも道理よ。……はるか太古、東側諸国の最果てに栄えた古いドワーフの文化圏では、個人の名を『家系を示す姓』と『個を分かつ名』の二つに分ける風習があったと記録されておる。吉野が姓で、州白が名じゃな」
アカガネの解説を耳に留めながら、フリーレンは残骸から顔を上げ、冷ややかな視線を女領主へと据えた。その瞳には、学術的な興味の奥底に隠された、魔法使いとしての冷徹な警戒が宿っている。
「アカガネ。この刀には、七崩賢・断頭台のアウラの術式が組み込まれていた」
静かな宣告に、大広間の空気がわずかに張り詰めた。
「人知を超える七崩賢の魔法を解析し、あろうことか金属の結晶構造に定着させて魔導具に落とし込むなんて……いくら鍛冶技術に秀でたドワーフの国でも、明らかに常軌を逸しているよ。人の領域の技術じゃない」
フリーレンは破片の一つを指先で拾い上げ、光に照らした。
「でも、完璧に同じ術式というわけじゃなかった。本来のアウラの『
魔力を持たぬオーガであっても、相手の命を奪うことさえできれば発動する、変質させられた呪い。だからこそ、魔力など一片も持たない幼いコガネが、瀕死の兄たちを容易く傀儡に変えることができてしまったのだ。
「誰かがアウラの魔法を、道具の都合に合わせて意図的に改変した、ということでしょうか」
フェルンが紫色の瞳を揺らして思考を巡らせる。
「あるいは、そうせざるを得なかったのかもしれない。元々のアゼリューゼなら自分より強い戦士が相手でも、戦わずして服従させられる。でもこの妖刀の場合は、基本的には戦って勝利しなければ服従させられない。乱暴にいえば、劣化コピーとも言えるね」
フリーレンはそこで言葉を区切ると、翡翠の瞳をアカガネへと向けた。
「……約束の報酬をもらおうか、アカガネ。この刀について、知っている情報をすべて教えて」
フリーレンの要求に対し、アカガネは抗うことなく、静かに立ち上がった。
上段の間の奥に備え付けられた重厚な漆塗りの戸棚から、埃を被った一冊の分厚い革綴じの書物を抱えて戻ってくる。その表紙は経年で黒ずみ、頁の端は茶色く風化していた。
畳の上に開かれた書物には、細密な墨絵とともに、古ドワーフ語による記録が綴られていた。
「我が国にある、最古の鍛冶録じゃ。……それによれば、天才刀匠ヨシノ=シュウハクは生涯で数多の妖刀を鍛造したが、晩年、自らの魂のすべてを注ぎ込んで打ったとされる『三振りの特異な妖刀』が存在する。それが、『ヒガンバナ』、『トリカブト』、そして『キョウチクトウ』じゃ」
書物の頁には、確かに三振りの刀身の図面が引かれていた。そこには古ドワーフ語の難解な文字で『彼岸花』『鳥兜』『夾竹桃』と記されている。
しかし、添えられた記述は極めて簡潔であり、銘と刀の寸法、刃文の形状が記されているのみであった。
「名前と外見だけで、どのような魔法が宿されているのかまでは記されておらん。危険すぎるがゆえに詳細が破棄されたのか、それとも書き残す間もなく刀匠が姿を消したのか……今となっては定かではないがな」
「残り二本は、どこにあるのでしょうか」
フェルンが身を乗り出し、紫色の瞳で書面を見つめる。
「もしかして、この街のどこかにあったりするのか?」
シュタルクの問いに、アカガネは苦々しげに首を横に振った。
「ありはせん。所在は完全に不明じゃ。……そもそも、数年前に我が国を襲った魔族の軍勢が、そのヒガンバナを振るって兄上たちを死に追いやるまで、三本の伝説などおとぎ話の類だと長老衆すら疑っておったのだからな」
その言葉に、フリーレンの思考が鋭く繋ぎ合わされた。
「ヒガンバナは、コガネが拾う前は魔族が持っていた……。なら、残り二本の妖刀も、魔族の手に渡っていると考えるのが自然だね」
歪められた七崩賢の術式を宿す、伝説の妖刀。
もしもアウラの魔法と同様に、他の七崩賢が編み出した人智の及ばぬ大魔法が、残る二振りの刃に封じ込められているのだとしたら――その脅威は計り知れない。
アカガネは深く息を吐き、静かに視線を落とした。その横顔には、かつて国を導いたはずの刀匠に対する、割り切れぬ憤りと哀惜が滲み出ている。
「シュウハクが、なぜ晩年にそのような禍々しいカタナを打ったのか……その真意は妾にはわからぬ」
女領主の拳が、深紅の着流しの上から膝を強く締め付けた。
「魔力を持たぬオーガに魔法を与え、このカグツチの礎を築いた偉人であったことは間違いあるまい。じゃが……晩年の奴は、さらなる究極の妖刀を求めるあまり、魔族の力、底知れぬ深淵の術理に魅入られ、狂気に取り憑かれたとされておる。そして……ある日突然、三本の妖刀とともに忽然と姿を消したのじゃ」
アカガネの瞳の奥に、暗い炎が揺らめいた。
「兄上たちが命を落とし、妹があのような無残な呪縛に囚われたのも、元を正せばすべてその狂った刀匠の遺産が原因じゃ。……そしてな、フリーレン」
アカガネは琥珀色の瞳を上げ、フリーレンの翡翠の双眸を真っ向から見据えた。
「これは眉唾の怪談にすぎぬが……カグツチの古い伝承には、こうも遺されておる。『シュウハクは死んではおらん。究極の妖刀を完成させるため、今なお生き続けておる』と」
「千年前のドワーフが……?」
シュタルクが息を呑んだ。
「ありえないだろ……。ドワーフの寿命は三百年くらいだろ。アイゼンだって、人間よりはずっと長生きだけど、千年も生きられるわけがねえ」
「うん。私の知り合いのドワーフでも、フォル爺の四百歳ちょっとが最高齢だ。肉体を持つ生物である以上、寿命を大幅に超えて生きるなんてことは、絶対にありえないよ」
フリーレンは肯定した。しかし、その声の底には、死者を操るヒガンバナを目の当たりにした時と同じ、冷たい疑念が澱のように沈んでいた。死者蘇生は存在しない。不老不死も存在しない。だが、あのアゼリューゼのような、魂を縛り付ける外道の術式が存在するのだとすれば――。
アカガネは静かに両手を畳につき、領主としての威厳をかなぐり捨てて、深々と頭を下げた。
「正式に依頼したい。……カグツチの領主として、そして肉親を奪われた一人のオーガとして、そなたらに頼む。魔族の手に落ちた残り二振りの妖刀を探し出し、必ず回収するか、完全に破壊して欲しい。そしてもしも、刀匠ヨシノ=シュウハクが今も本当に生きておるのなら、その槌を止めてくれ。……このような悲劇を生み出す魔族の妖刀を、これ以上世に放たぬために」
頭を垂れる女領主の前に、静まり返った夜の帳が下りていた。
遠くの工房から届く、金属を叩く鈍い槌の音だけが、まるで千年前から続く呪いの鼓動のように、床板をかすかに震わせていた。