カグツチの街を背にして登る山道は、歩みを進めるごとに傾斜を増し、踏み固められた土の道から鋭利な岩肌が剥き出しになった獣道へと姿を変えていった。
冷涼な山の空気が肌を刺す。見上げる霊峰の頂は灰色の厚い雲に覆われ、山肌に張り付く針葉樹の針葉は、吹き下ろす寒風に揺れてざわざわと寂しげなさざめきを立てていた。その先頭を、小柄なオーガの少女が歩いている。
腰には、先ほどまで握り締めていた折れ刃ではなく、出発前にアカガネから手渡された真新しい白木の木剣が差されていた。まだ手垢のついていない滑らかな木肌が、歩幅に合わせて少女の太腿を軽やかに叩く。その背中は小さく、しかし一歩一歩の足取りには、自らの足で大地を踏みしめる確かな重みが宿っていた。
険しい登り坂を小一時間ほど歩いたところで、行く手を塞いでいた鬱蒼とした木立がふいに途切れ、視界が大きく開けた。
すり鉢状の山肌にぽっかりと穿たれたような、緩やかな傾斜を持つ広大な平原であった。
しかし、眼前一面に広がっていたのは、鮮やかな彩りではなく、冷たい秋風に撫でられて立ち枯れた無数の茶褐色な茎と、冷たく乾いた黒土ばかりであった。ところどころに霜の降りた枯草が広がり、吹き抜ける風が低く寂寥とした音を響かせている。
足を止め、周囲の荒涼とした景色を見渡したフェルンが、黒いローブの裾を押さえながら小首を傾げた。
「……コガネ様」
静かな呼びかけに、前を行く少女が振り返る。額の二本の角が、薄曇りの光を鈍く跳ね返した。
「いくら数年間、山林で暮らしていたとはいえ……こんな奥地にまで、普段から足を運んでいたのですか? ここは街道からも遠く離れ、獲物となる獣や旅人が通るような場所ではありません」
山賊として食い扶持を稼ぐのであれば、本街道に近い尾根や麓の森に潜むのが定石だ。こんな標高が高く、草木の枯れ果てた寒冷な高地にまでわざわざ分け入る理由は、生活の利便性からも略奪の都合からも見出せなかった。
フェルンの至極もっともな疑問に、コガネは立ち止まり、枯れ野の彼方へと視線を彷徨わせた。その双眸に宿ったのは、かつて見せた底知れぬ狂気ではなく、淡く透き通るような遠い日の温もりだった。
「……あのね。この辺りはね、春になると一面綺麗な花畑になるんだよ」
少女は寂しげに、けれど愛おしそうに目を細めた。
「薄い青や白い小さな花が、見渡す限り一面に咲くの。今は秋だから何もないけど……すごく綺麗なんだよ」
乾いた風が吹き抜け、コガネの足元で枯れ草がカサリと音を立てる。
「私がもっと小さかった頃……兄様たちが、お仕事の合間に私を肩車して、ここまで遊びに連れてきてくれたの。あのお花畑で鬼ごっこをして、シロ兄様が花冠を編んでくれて、クロ兄様が大きなお弁当を広げて……カグツチで一番大好きな場所だった」
コガネは胸元に両手を当て、ぎゅっと自分の着物の布地を握り締めた。
「だから……毎年ここへ来たの。春になるたびに、ここへ連れてきたんだ。……死んだ二人を連れて」
静まり返った枯れ野に、少女の震える声だけが落ちる。
魔族との戦争で身を裂かれ、妹の編み上げた虚妄の言葉を呟くだけの二体の遺体。その冷え切った手を引き、少女は毎年、満開の花畑へと足を運んでいたのだ。生きていた頃の温もりを取り戻そうと、届くはずのない春の光を、動くはずのない人形に見せようとして。
「……そっか」
フリーレンが小さく呟いた。
その翡翠の瞳には、かつてヒンメルたちと旅をした日々の記憶――世界を救う旅の途中で立ち寄った名もなき花畑や、二度と戻らない者たちと交わした他愛のない思い出が、静かに波紋を描いて去来していた。
「大切な思い出の場所だったんだ」
「うん」
コガネは袖で小さく目元を拭い、ぎこちなく、けれど力強く笑ってみせた。
「行こう。工房がある谷は、この先だよ」
開けた枯れ野を横断し、さらに険しさを増す岩場を登り詰めていくと、次第に周囲の空気が重く湿り気を帯び、微かな硫黄の焦げた匂いが混ざり始めた。
岩肌の裂け目のような狭小な尾根を回り込んだ瞬間、視界を遮ったのは、底知れぬ深さを持つ断崖絶壁であった。
左右の岩壁が切り立ち、谷底からは絶え間なく乳白色の濃霧が煙のように湧き上がっている。吹き上げてくる冷烈な谷風は突風となって唸りを上げ、足元をすくわんばかりの猛威を振るっていた。
その数百メートルの虚空を渡すように、一本の吊り橋が架けられていた。
「うわ……なんだありゃ……」
シュタルクが引きつった声を漏らし、思わず二、三歩後ずさった。
吊り橋と呼ぶのも憚られる代物だった。両岸の岩に打ち込まれた鉄杭は赤錆に覆われ、主索である太綱は風雨に晒されて擦り切れ、無数の繊維が毛羽立っている。踏み板となる木板は半分近くが抜け落ちており、残された板も黒ずんで苔むし、今にも自重で崩壊しそうに軋んでいた。
「おいおいおい……これ、本当に渡れるのかよ? 触っただけでボロボロ崩れそうだぞ」
シュタルクが顔を青ざめさせて尋ねると、崖の縁を覗き込んだコガネが、あっけらかんとした調子で振り返った。
「大丈夫だよ! 二年くらい前は、兄様たちでも渡れたもん」
「二年『も』前かよ! しかもあいつら、その時すでに死んでて体重軽くなってたんじゃねえのか!?」
「オーガの肉体である以上、筋骨の質量は生前と変わらないと思いますが。ただ、二年の歳月による経年劣化は著しいと見るべきです」
フェルンが冷静極まりない口調で補足を挟み、冷たいジト目で吊り橋の継ぎ目を凝視する。
「フリーレン様。飛行魔法で一人ずつ運ぶか、あるいは谷を大きく迂回すべきでは?」
「うーん……」
フリーレンは谷底から吹き上げる風に杖をかざし、大気中の魔力の流れを検分した。
「この谷、下から吹き上がってくる風の乱気流が酷すぎるね。それに、硫黄のガスと地熱が混ざってて、魔力の流れが乱れてる。長時間の飛行魔法はかなり消耗するし、姿勢制御が難しいね。迂回する道があればいいんだけど……」
「ないよ」
コガネがきっぱりと首を横に振った。
「谷底に降りる道は、向こう側の岩肌にへばりついてる細い道だけだから、この裂け目を越えるしかないの。ぐるっと回ろうとしたら、山を二つ越えなきゃいけないから、三日はかかるよ」
「……となると、慎重に一人ずつ渡るのが一番手っ取り早いか」
ため息をついたシュタルクが、覚悟を決めたように背中の大斧の固定紐を締め直した。喉を鳴らし、恐る恐る錆びた支柱へと手を伸ばす。
「分かったよ……俺が一番手を歩いてやるよ。戦士だからな、足場くらい自分で確かめてやらぁ。……おい、揺らすなよ? 絶対に揺らすなよ!」
「シュタルク様、足元の木板の中央を踏んでください。端は腐食が進んでいます」
フェルンの実直な指示を受けながら、シュタルクはおっかなびっくり、極限まで腰を落として吊り橋へと足を踏み出した。
ギギ……メキ……と、不吉な摩擦音が絶壁の間に反響する。
一歩、二歩。吹き荒れる突風が橋全体を左右に大きく揺さぶり、シュタルクの短い赤髪を激しく乱す。青年は脂汗を流しながら、慎重に慎重を重ねて歩みを進めた。
ちょうど橋の中央、谷底の濃霧が真下に見下ろせる位置に達した、その時であった。
突如、谷の深淵から吹き上がった突風の塊が、大砲のような衝撃となって吊り橋の側面を直撃した。
バァンッ、と乾いた炸裂音が鳴り響いた。
耐えきれなくなった一本の主索が、中央から弾け飛ぶように千切れた。
「ひっ――!?」
均衡を失った吊り橋が、一瞬にして垂直近くまで傾ぐ。
シュタルクが踏みしめていた足元の木板が、経年劣化の限界を迎えて真っ二つに砕け散った。
「うわあああああッ!?」
手すりの縄を掴もうとしたシュタルクの指先は空を切り、巨躯が重力に引かれて真っ逆さまに虚空へと投げ出された。
「シュタルク様ッ!」
叫んだのはフェルンだった。
迷いは一切なかった。思考よりも先に身体が動き、黒いローブの裾を翻して、少女は自ら断崖の虚空へと躊躇なく身を躍らせていた。
落下の最中、フェルンは即座に飛行魔法を発動させた。全身に淡い魔力光を纏い、急降下しながら落下速度を加速させ、空中でもがく赤髪の青年へと間合いを詰める。
シュタルクの背には、鋭利に研ぎ澄まされた鋼の大斧が括り付けられている。刃に不用意に触れれば、落下の慣性だけで身体が両断されかねない。
フェルンは空中で巧みに身を捻り、大斧の切っ先を紙一重でかわすと、シュタルクの胴体と両腕を自らの腕で背後から抱え込むようにして、力任せに抱き止めた。
「ぐっ……確保しました!」
「フェ、フェルン!? 助かっ……」
安堵の声を上げかけたシュタルクの言葉は、直後に吹き荒れた暴力的な突風によって掻き消された。
ゴォッ!と谷底から噴き上がったのは、地熱と硫黄を孕んだ巨大な上昇気流の渦であった。
大人二人分の重量を支えながら空中に浮遊するフェルンの術式に、不規則で狂乱じみた乱気流が容赦なく叩きつけられる。姿勢制御のための魔力が軋みを上げ、二人の身体は木の葉のように空中で激しく翻弄された。
「くっ……風で……魔力が乱れて……!」
フェルンが歯を食い縛り、木製の杖を必死に掲げるが、抗いきれない暴風の奔流が二人を絡め取り、そのまま白い濃霧が渦巻く谷の奥深くへと猛烈な速度で押し流していく。
「フェルン! シュタルク!」
崖の上、残された吊り橋の端で、フリーレンが赤い杖を構えて前へ踏み出そうとした。
即座に飛行魔法を編み上げ、二人を追跡しようと虚空へ飛び出しかけた――その刹那。
「お姉ちゃん……っ!」
背後から、風音にかき消されそうな細い悲鳴が届いた。
振り返れば、崩落の余波で揺れる足場の端で、コガネが強風に煽られて吹き飛ばされそうになりながら、岩肌にしがみついていた。額の小さな角を伏せ、恐怖に顔を強張らせている。
(……くっ)
フリーレンの足が止まった。
いくらオーガの血を引く頑強な戦士の末裔とはいえ、コガネはまだ年端もいかぬ子供だ。この硫黄の毒気が漂い、強風吹き荒れる人跡未踏の険山に少女をたった一人置き去りにすれば、周囲の魔物や足場の崩落によって命を落とすのは明白であった。
谷底を見下ろせば、白い霧の深淵へと流されていく二人の魔力反応が、微弱ながらも懸命に抗い、滑空の軌道を維持しようとしているのが感じ取れた。
フリーレンは即座に思考を切り替え、胸の底から魔力を込めた声を、風に乗せて谷底へと響かせた。
「フェルン! シュタルクを頼んだよ! 向こう岸で合流しよう!」
濃霧の底、遥か遠ざかる白い気流の中から、凛とした、しかし必死に姿勢を保とうとする少女の声が返ってきた。
「はい! フリーレン様も、どうかご無事で……ッ!」
霧が二人を完全に飲み込み、その姿も声も、白濁した深淵の底へと掻き消えていった。
崖の上に、吹き荒れる突風の唸り声だけが取り残される。
フリーレンは静かに息を吐き、杖を下ろすと、岩肌にしがみつくコガネの元へと歩み寄った。小柄な少女の小さな手をしっかりと引き上げ、冷たい風の吹き抜ける谷の向こう岸――あの霧の底に眠るという、千年の工房の方向を翡翠の瞳でじっと見据えた。