天才刀鍛冶と三本の妖刀の話   作:龍改二

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第15話 奇跡のグラオザーム

 

千切れた主索が断崖の岩肌を激しく打ち据え、乾いた摩擦音だけが深い谷底へ吸い込まれていく。

白濁した濃霧は底知れぬ深淵から絶え間なく湧き上がり、吹き抜ける冷酷な突風が、足元に残された僅かな踏み板を無残に散らしていた。もはやこの吊り橋を渡ることは誰にもできない。

 

「……落ちちゃった……お兄ちゃんたち、大丈夫かな……」

 

コガネが青ざめた顔で岩肌にへばりつき、霧の奥底を見つめて震えていた。その小さな背中を引き寄せ、フリーレンは乱れた前髪を冷たい風に遊ばせながら、静かに息を整えた。

 

「大丈夫だよ。フェルンもシュタルクも、崖から落ちたくらいで死んだりはしない。問題は……私たちがどうやって合流するかだね」

 

コガネは先ほど、この谷を迂回するには山を二つ越えなければならず、丸三日はかかると言っていた。

千年を生きるエルフの感覚からすれば、三日という時間は、本を開いて一息つく間に過ぎ去るほんの瞬きにすぎない。「たったの三日」――そう思考しかけた瞬間、フリーレンは小さく首を横に振った。

 

人間にとっては違う。

フェルンもシュタルクも人間だ。あの谷底のさらに先には未知の工房があり、タマハガネの鉱毒や地熱のガスが淀み、何より妖刀を手にした魔族が潜んでいる可能性がある。怪我を負っているかもしれない二人を、あの危険地帯で三日間も放置することは許されない。人間にとっての三日は、生死を分かつにはあまりに長すぎる時間だ。たったの三日、されど三日であった。

 

「迂回路を目指そう。でも、まともに歩いて山を越えるつもりはないよ。……私の飛行魔法を使えば、谷の幅が狭くて、下からの風が落ち着いている場所さえ見つかれば、コガネを抱えて対岸へ飛び移れるかもしれない」

 

「うん……! 風が少し弱くなってる場所なら、向こうの崖沿いにあった気がする!」

 

コガネの先導を受け、二人は崩落した吊り橋の袂を離れ、切り立った岩壁に沿って崖上の細道を北へと急いだ。

 

歩を進めるにつれ、周囲を支配していた過酷な環境が、奇妙な変容を見せ始めた。

肌を刺すような寒風の鋭さが和らぎ、鼻腔を突いていた硫黄の焦げた臭気が、いつの間にか微かな芳香へと移ろっていく。冷たい岩肌を踏みしめていたはずの足元は、ふわりとした柔らかな感触へと変わり、周囲を覆っていた灰色の霧は、柔らかな白銀の光へと透き通っていった。

 

気がつくと、フリーレンは静謐で神聖な大気の漂う、見知らぬ場所に佇んでいた。

 

頭上にはどこまでも澄み渡る蒼穹が広がり、足元には名も知れぬ純白の花々が、絨毯のように果てしなく咲き誇っている。風は春の陽だまりのように穏やかで、大気には一片の魔力の乱れすら存在しない。魂のすべてが洗い清められるかのような、完全なる平穏。

 

「……ああ、そうか」

 

フリーレンの唇から、自然と安堵の吐息が零れ落ちた。

 

「私、辿り着いたんだ。……オレオールに」

 

大陸の最果て、エンデのさらに奥深く、死者の魂が集うとされる静謐の極地。

かつて大魔法使いフランメの手記に記されていたあの場所は、おとぎ話ではなく本当に実在していたのだ。過酷な北部高原を越え、無数の魔族を退け、幾年の歳月を費やした旅路が、今まさにその終着点へと至ったのだと、疑いようのない確信が胸を満たしていた。

 

視線を前に向けると、花畑のただ中に、見慣れた後ろ姿が立っていた。

 

青い髪がそよ風に微かに揺れ、白いマントが光を浴びて翻っている。腰には、大陸の誰もが知る勇者の剣。

足音を忍ばせて歩み寄ると、その青年はゆっくりとこちらを振り返った。

切れ長の青い瞳。悪戯っぽさと優しさを同居させた、あの懐かしい微笑み。

 

「久しぶり、ヒンメル」

 

フリーレンは何気ない調子で声をかけた。八十年以上の空白など、まるで昨日別れたばかりであるかのように消え去り、ただ翡翠の瞳を穏やかに細める。

 

青年の唇が、柔らかく弧を描いた。

 

「ああ、久しぶりだね、フリーレン。……本当に、よくここまで来てくれた」

 

ヒンメルは慈しむような眼差しでフリーレンの全身を見つめ、それから少しだけ眉尻を下げて、申し訳なさそうに言った。

 

「僕なんかのために、大変な旅路を歩ませてしまったね」

 

――ピキリ、と。

硝子に亀裂が走るような、冷たい不協和音がフリーレンの思考を貫いた。

 

足元に咲き乱れる美しい花々も、穏やかな春の風も、そのすべてが急速に色褪せていく。

翡翠の瞳から体温が完全に消失し、そこに宿ったのは、刃物のように研ぎ澄まされた冷ややかな光だった。

 

「……ヒンメルは、そんなこと言わない」

 

フリーレンの平坦な声が、神聖な空間を切り裂いた。

 

「あいつはね、自惚れ屋で、見栄っ張りで、自分が歴史に名を残す勇者であることを一度だって疑わなかった。自分を卑下して『僕なんか』なんて言葉、使わない」

 

目の前の青年は、困ったように眉を寄せて微笑んでいる。その表情も、纏う雰囲気も、記憶の中のヒンメルそのものだ。だが、その魂の在り方が、決定的に異なっていた。

 

「それに……ヒンメルは、仲間と共に歩んだ旅の価値を損なうようなことを、絶対に言ったりしない奴だよ。どんなに過酷で、泥臭くて、遠回りな旅路だったとしても、あいつは笑って『楽しかったね』って胸を張るんだ。……私の旅を、そんな安っぽい同情で汚すな」

 

これは幻影だ。

視覚と聴覚を奪うだけの稚拙な幻術ではない。精神の最深部に潜り込み、対象が最も強く望む情景を記憶から正確に掬い上げ、認識そのものを書き換えて幸福の中へと永遠に沈める精神魔法の極致。

 

フリーレンはこの術式を、かつて体験したことがあった。

 

北部高原の山中で女神の石碑に触れ、奇跡の力によって八十年前の過去へと意識を飛ばした、あの時。

元の時代へと帰還しようとする一行の前に立ち塞がった、魔王軍の幹部。

七崩賢――『奇跡のグラオザーム』。

 

魂を暴き、望む楽園の夢を見せて抗う意志を奪い去る、大魔族の秘術。

楽園へと導く魔法、アンシレーシエラ。

 

「……なぜ、グラオザームの魔法がここにある」

 

フリーレンが呟いた瞬間、目の前のヒンメルの輪郭が陽炎のように歪み、白銀の花畑が黒い霧となって霧散していった。

 

「ほう……七崩賢の魔法に、自力で気がつくとはな」

 

低く、静まり返った男の声が、虚空から染み出すように響いてきた。

 

偽りの楽園が剥ぎ取られ、視界に冷涼な現実が蘇る。

切り立った灰色の岩壁。冷たく乾いた秋の風。視界の端には、真新しい白木の木剣を抱きしめたまま虚ろな瞳で膝をつき、幸せそうに兄たちの名を呼びながら微睡んでいるコガネの姿があった。

そしてフリーレン自身もまた、赤い杖を地面に突き立て、危うくその場に崩れ落ちかける寸前で踏みとどまっていた。

 

二人の前方、岩陰の冷たい影の中から、一人の魔族が音もなく歩み出てきていた。

 

身の丈の高い、無駄のない引き締まった体躯。額の左右からは、洗練された形状の二本の角が天を突いている。その男は感情の揺らぎを一切見せない冷徹な双眸を細め、右手に佩いた一振りの抜き身を静かに掲げていた。

 

妖刀『夾竹桃』――。

 

細身の片刃の刀身から、淡く禍々しい紫紅色の魔力光が、霧のように立ち上っている。

その光条が空気を震わせるたびに、視界の境界が微かに歪み、現実と幻影の狭間が奇怪に揺らいでいた。

 

魔族の男は切っ先をフリーレンの喉元へと向け、怜悧な声音で淡々と告げた。

 

「私は魔族ティグアン。……そしてこの刀、キョウチクトウは、七崩賢グラオザーム様の幻術を宿す。何者であれ、この刀身が放つ魔力の光を瞳に映した時点で、その精神は永遠の楽園へと囚われる定めだ。……エルフの魔法使いよ。幸せな夢のなかで、安らかに眠れ」

 

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