冷たい風が谷を吹き抜け、妖刀『キョウチクトウ』の刀身から放たれた紫紅色の魔力光がフリーレンの視界を灼いた瞬間、大気は再び音もなくその色を失った。
吹き荒れていた霊峰の寒風も、鼻腔を突く硫黄の焦げた臭気も、引き裂かれた絹のように滑らかに掻き消えていく。足元には再び純白の花々が咲き乱れ、どこまでも広がる柔らかな光が視界を埋め尽くした。
眼前に立つのは、青い髪の勇者であった。
白いマントを優しげな風に遊ばせ、切れ長の瞳を細めてフリーレンを見つめている。その唇から紡がれるのは、傷ついた旅人の心をどこまでも甘美に撫で擦る、耳障りのいい慰めの言葉だった。
「もういいんだよ、フリーレン。……君はもう、十分に戦ってきた。これ以上、重い杖を握り続ける必要はない。僕と一緒に、静かに語りあおう」
慈愛に満ちた声、聞き慣れた穏やかな響き。五感のすべてが、それが本物であると告げていた。網膜に映る服の皺ひとつ、肌を撫でる日差しの温もり、鼓膜を震わせる呼吸の微細な揺らぎに至るまで、寸分の狂いもなく現実にしか感じられない。
だが、フリーレンの意識の奥底は、氷のように冷たく澄み渡っていた。
(……やっぱり、偽物だ。ヒンメルは誰かを諦めさせたりしない)
フリーレンは幻影のヒンメルに視線を合わせたまま、意識の焦点を現実の空間――己の周囲を取り巻く大気中の魔力の流れへと沈めていった。
精神を揺さぶる美しい光景の裏側で、極限まで研ぎ澄ました魔力探知の網が、歪な違和感を捉えていた。正面数歩の距離、花畑の虚像が重なるその座標に、禍々しく蠢く確固たる魔族の魔力反応が存在している。冷酷な悪意を放ちながら、確実に間合いを詰めてくる生々しい気配。
かつて、北部高原の山中で女神の石碑に触れ、奇跡の力によって八十年前の過去へと意識を飛ばした時の記憶が脳裏をよぎる。
あの時、本物の七崩賢・奇跡のグラオザームが放った『アンシレーシエラ』は、これほど生易しい代物ではなかった。五感のみならず、魔力探知の計数や術者の第六感すらも完璧に騙し、敵の魔力反応そのものを楽園の調和へと組み込んで錯覚させる、完全無欠の精神魔法の極致であった。
それに比べ、目の前で展開されているこの術式はあまりにも粗雑だった。
視覚と聴覚、脳の直接認識こそ精緻に支配しているものの、空間に漂う魔力の揺らぎまでは偽装しきれていない。術者が魔力を練り、得物を構える挙動が、探知の網に明瞭な波紋となって引っかかっていた。
(七崩賢の完全再現じゃない。……所詮は、金属の結晶に術式を無理やり落とし込んだだけの模造品だ。穴がある)
あの過去の戦いにおいて、勇者ヒンメルは完璧な幻影に囚われながらも、決して膝を屈することはなかった。
惑わす光景を遮断するために自ら両の瞼を閉じ、皮膚を撫でる大気の僅かな抵抗、指先に触れる草木の擦れる感触、そして己の研ぎ澄まされた剣士の直感だけを頼りに、目に見えぬ大魔族と互角以上に切り結んでみせたのだ。
ヒンメルは、幻影ごときに負けはしなかった。
「……大丈夫だよ、ヒンメル」
フリーレンは小さく呟いた。
美しい幻影の青年に向けてではなく、己の胸の奥底に生き続ける本物の勇者の記憶に向けて。
「私も、もう戦える」
フリーレンは、静かに両目を閉じた。
視界からオレオールの花畑が消え去り、耳をくすぐる偽りの囁きがただの雑音へと成り果てる。暗闇のただ中で、全身の魔力探知が針のように研ぎ澄まされた。
現実世界において、ティグアンの振り下ろした妖刀が空気を切り裂いた。
紫紅色の魔力光を帯びた必殺の刃。幻影に溺れて立ち尽くしているはずの獲物を両断すべく放たれた一閃であった。
しかし、刃が衣服をかすめるよりも早く、フリーレンの身体が滑るように半歩後方へと退いた。
白銀の切っ先が、白いケープの胸元をわずか数ミリの空隙を残して空を薙ぐ。
「……何が起きた?」
ティグアンの怜悧な声音に、初めて明瞭な動揺が混ざった。
男は踏み込みを止め、後退したフリーレンの顔を凝視する。その両の瞼は固く閉じられたままであり、翡翠の瞳は一切の光を拒絶していた。
「目を閉じている……? その状態で、私と戦うというのか」
「ヒンメルなら、肌を撫でる風や気配だけで斬り伏せたんだろうね」
瞼を閉じたまま、フリーレンは淡々とした調子で杖を水平に構えた。その切っ先は、盲目であるはずにもかかわらず、寸分の狂いもなくティグアンの胸元を指し示している。
「私にはそんな芸当はできないよ。剣士じゃないからね。……でも、魔力探知が使えるのなら、目で見るよりずっとはっきりお前が見えるよ、ティグアン」
「何を馬鹿な……ッ!」
ティグアンが再び地を蹴った。
妖刀『キョウチクトウ』が幾重もの光条を描き、大気を切り裂きながら連続して繰り出される。目を開いていれば軌道が幾重にも屈折して見えるはずの変幻自在の剣撃。
しかしこの魔族は剣士ではない。刃の魔力にあぐらをかいただけの魔法使いだ。視覚を完全に捨て去ったフリーレンにとって、それはただ空間の魔力を押し退けながら迫る、単一の直線の軌道にすぎなかった。
最小限の身のこなし。首をわずかに傾けて初撃を躱し、杖で二撃目の刀身の腹を叩いて軌道を逸らす。
そして、三撃目の踏み込みに生じた決定的な魔力の淀み。
「そこだね」
フリーレンの杖先から、凝縮された白紫の閃光が放たれた。
魔族を殺す魔法、ゾルトラーク。
極限まで収束された魔力弾は、光速に近い速度で空間を貫き、妖刀を握りしめていたティグアンの右肩を、関節ごと消滅させた。
肉と骨が消し飛ぶ破壊音とともに、切断された黒い腕が虚空を舞った。
掌から零れ落ちた妖刀『キョウチクトウ』が、回転しながら地面へと落下し、切っ先を大地に深々と突き刺して静止する。
その瞬間、刀身から立ち上っていた紫紅色の魔力光が、音を立てて弾け散った。
大気を覆っていた目に見えぬ膜が破れ去り、偽りの幻惑が完全に霧散する。
「が……あッ!? 馬鹿な……七崩賢の魔法を……私の力を、凌駕したというのか……!?」
右肩からどす黒い魔力の塵を撒き散らしながら、ティグアンはよろめき、信じがたいものを見る目でフリーレンを見据えた。
フリーレンは静かに目を開いた。現実に蘇った翡翠の瞳には、一切の情け容赦のない、絶対的な冷気だけが宿っていた。
「お前の力? 勘違いするな」
フリーレンは冷淡な足取りで、地に膝をつく魔族へと歩み寄った。
「その刀に込められているのは、お前自身の技術でも研鑽でもない。他人が一生をかけて編み上げた術式を、都合よく借りて振り回していただけだ。……魔族のくせに他人の魔法に依存するなんて、お前には自分の好きな魔法すらないの?」
魔族とは、個々の魔法を己の存在理由として磨き上げ、誇りとする種族であるはずだった。どれほど残酷で相容れない存在であろうとも、彼らは自らの魔法に対してだけは真摯であった。
目の前の男は、その誇りすら捨て去り、ただの便利な武器として七崩賢の威光を消費していたにすぎない。
「さよなら、ティグアン。……お前は、魔法使いの風上にも置けない奴だ」
杖先が、無慈悲にティグアンの額へと向けられた。
放たれた至近距離のゾルトラークが、魔族の頭部を撃ち抜いた。
ティグアンの肉体は悲鳴を上げる間もなく光の奔流に呑まれ、乾いた風に吹かれる黒いボロ屑となって、虚空へと崩れ去っていった。残されたのは、冷たい岩肌に散らばる微かな煤と、吹き抜ける寒風の音だけであった。
フリーレンは視線を足元に落とした。
地面に突き刺さったままの妖刀『キョウチクトウ』。細身の刀身には、今なお不吉な術式の残滓が微かに脈動している。フリーレンは躊躇うことなく赤い杖を向け、ゾルトラークを放ち、その刀身を半ばから叩き折った。
甲高い金属音が響き、白銀の鋼は幾つもの破片となって砕け散り、宿されていた幻術の魔力は完全に雲散霧消した。
「……う、ん……兄様……」
背後から、途切れ途切れの声が聞こえた。
振り返ると、地面に膝をついていたコガネが、真新しい木剣を取り落とし、両手で頭を押さえながら身じろぎしていた。その双眸からは、先ほどまで宿っていた陶酔の光が消え去り、現実の光を眩しそうに瞬かせている。
フリーレンは歩み寄り、少女の前にそっと手を差し伸べた。
「大丈夫? コガネ。……それは、魔族に見せられた夢だよ」
コガネは差し伸べられた白い手を見つめ、それから自らの両手をぎゅっと握り締めた。兄たちを失った現実、そして先ほどまで見ていた都合のいい幻影の甘さを振り払うように、小さく首を横に振る。
「……うん。一人で、立てるよ」
少女はフリーレンの手を取らず、自らの足で地面を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がった。その額の角には冷たい汗が光っていたが、その眼差しには確かな芯の強さが宿っていた。
フリーレンは薄く口元を緩め、砕け散ったキョウチクトウの破片を布に包んで背負い袋へと収めた。
谷底を見下ろせば、白い濃霧の向こう側から、微かな地響きのような魔力の衝突音が風に乗って届いていた。
フェルンとシュタルクが流された、あの千年の古工房がある方角。
「急ごう。……向こうにも、同じように妖刀を持った魔族が迫っているかもしれない」
フリーレンは杖を握り直し、険しい岩壁を迂回する獣道へと歩を進めた。