白濁した濃霧と硫黄の混じる乱気流の中を、二つの影が風に翻弄されながら急降下していた。吹き荒れる突風が黒いローブを激しく引き裂かんばかりに打ち据え、視界のすべてを白銀の煙が奪い去っていく。
フェルンは木製の杖を胸元に引きつけ、飛行魔法の推進力と浮力の均衡を懸命に保ちながら、背後から抱え込んだ青年の胴体を締め直した。
「……シュタルク様、重いです」
「ごめんって! 俺だって好きで重いわけじゃねえよ、背中の斧もあるし仕方ないだろ……!」
風切り音に掻き消されそうな抗弁を背中で聞きながら、フェルンは冷静に眼下の濃霧の濃度を測り、地面との距離を計算した。岩壁から吹き上げる地熱の歪みを避け、滑空角を浅く保ちながら減速の魔力を集中させる。
靴底が湿り気を帯びた黒土を捉え、滑るように数メートル擦れながら、二人は深い谷の底へと無事に着地を果たした。
周囲には、日差しの届かぬ高山特有の冷涼な空気が沈殿していた。頭上は切り立った灰色の断崖に塞がれ、足元には硫黄の鉱毒によって立ち枯れた針葉樹が、墓標のように幾本も突き刺さっている。風の音すら遠のいた静まり返る谷底で、フェルンは着地の衝撃で乱れた前髪を払い、杖を正しく握り直した。
「怪我はありませんか、シュタルク様」
「ああ。助かったよフェルン。……けど、あの吊り橋、完全に崩れちまったな」
シュタルクは大斧の固定を解き、周囲の険しい岩肌を見上げながら息を吐いた。
「フリーレンとコガネは崖の上に取り残されたままだ。あっちも無事だといいけど……」
「フリーレン様のことですから、取り乱すような真似はなさらないはずです。コガネ様の保護を優先し、崖沿いの迂回路を探してこちらを目指しているはず。……私たちも、合流を急がなければなりません」
二人が枯れ木の群生する獣道へと足を踏み出そうとした、その時であった。
冷気と硫黄の淀みの中から、針の先で皮膚を突くような、鋭利で禍々しい魔力の波紋が滑り込んできた。
歩みを止め、シュタルクが即座に戦斧を両手で構え直す。フェルンもまた澱みのない所作で半歩下がり、射線上に杖の切っ先を据えた。
霧の向こう、枯れた巨木の根元から、音もなく姿を現したのは一体の魔族であった。
身丈は低く、線が細い。男とも女とも判別のつかない中性的な顔立ちに、頭部の左右から伸びる滑らかな二本の角。その身に纏うのは装飾の削ぎ落とされた黒い外套であり、腰元には一振りの細身の刀が差されていた。鞘から漏れ出ているのは、通常の大気中では決して生じ得ない、重苦しく硬質な魔力の残滓であった。
魔族は退屈そうに目を細め、細い指先で腰のカタナの柄頭を軽く叩いた。
「……ふうん。上から魔法使いの気配が落ちてきたから、何事かと思って見に来てみれば。戦士も一緒かあ、面倒だね」
鈴を転がすような、どこか幼さを残した声。しかし、その双眸の奥底には、人間を虫けらと同等にしか捉えていない魔族特有の空虚な冷酷さが淀んでいた。
シュタルクが息を殺し、前衛としてフェルンの前へ完全に身を滑り込ませる。全身の筋肉を緊張させ、わずかな初動も見逃さぬよう間合いを測る。
「……誰だよ、あんた」
青年の鋭い問いかけに対し、その魔族は小さく首を傾げ、薄い唇を三日月のように歪めた。
「名乗りなんて人間みたいな真似、普段はしないんだけどね。……ボクはパサーテ。大魔族さ」
「パサーテ?」
背後で静かに魔力を練り上げていたフェルンが、感情を挟まない冷涼な声で復唱した。
「聞いたことがありません」
フェルンは杖を構えたまま、全身の魔力探知を極限まで拡大させた。
大陸の歴史において、魔王軍の幹部や名を馳せた魔族は数多く記録されている。しかし、中には一度も人類の討伐隊にその名を把握されることなく、遭遇した者をすべて皆殺しにしてきたがゆえに記録に残らない『無名の大魔族』が存在する。かつてフリーレンが、北部高原へ足を踏み入れる際に「無名の大魔族とは絶対に戦うな、出会ったら逃げろ」と厳しく言い聞かせていた存在。
フェルンの紫の瞳が、パサーテの輪郭、その体内から滲み出る魔力の総量と循環の速度を精密に走査した。
――そして、数秒の後。
張り詰めていたフェルンの眉間から、緊張の色がわずかに引いた。
「無名の大魔族……というわけでもなさそうですね」
フェルンは視線を微動だにさせず、事実だけを淡々と、しかし容赦なく切り捨てた。
「揺らぎが雑です。魔力の総量も、百年前後を生きた程度にしか見えません。……自称・大魔族、というところですか」
「な……んだと……?」
パサーテの整った顔立ちが、一瞬で屈辱と激怒に歪んだ。中性的な瞳の奥に、灼けつくような殺意が燃え盛る。
「人間の分際で……見下すなよッ!」
空気が爆ぜた。
予備動作の一切を省いた踏み込み。パサーテの身体が黒い軌跡となって掻き消え、次の瞬間にはシュタルクの懐へと肉薄していた。
「速い……ッ!」
シュタルクが奥歯を噛み締め、大斧の柄を滑らせて迎撃の軌道を打ち出す。しかし、パサーテは滑らかな身のこなしで斧の切っ先を紙一重でかわし、腰のカタナを一息に抜き放った。
金属の擦れ合う硬質な音が鳴り響き、抜かれた白銀の刃が冷たく煌めく。
フェルンが即座に反応し、続けざまに三連射のゾルトラークを放った。白紫の光条が一直線に魔族の急所を穿つはずであった。だが、パサーテは空中で不自然なほど急激に向きを変え、岩肌を爪先で蹴って光弾の弾道をことごとく回避してみせた。魔法使いの放つ速射に、純粋な反射速度と運動性能だけで追従してくる。
シュタルクが大斧を横薙ぎに強振し、間合いを強引に引き離そうとする。
しかし、その斬撃の終端、わずかに刃が空を切った刹那に、パサーテの細身の刀が滑るように下から跳ね上がった。
鋼と鋼が擦れ合う鈍い衝撃。
シュタルクは即座に上体を反らせたが、鋭利な切っ先が青年の左肩の衣服を裂き、その下の皮膚を浅く切り裂いた。
「ぐっ……!」
痛み自体はかすり傷程度のものであった。血が滲む程度の浅い損傷。
しかし、傷口を抑えようと腕に力を込めた瞬間、シュタルクの動きが不自然に止まった。
傷口の周囲の皮膚が、赤黒い血を流すのを止め、まるで冷えた金属のように硬化し始めていた。毛細血管を通じて、皮膚と筋肉の細胞が、鈍く重々しい黄金の輝きを放ちながら、少しずつ外側へと侵食を広げていく。
「な……んだ?これ。腕が……重い……?」
「シュタルク様!?」
フェルンが叫び、牽制の魔力弾を放ちながら後退を促す。
その視線の奥で、パサーテの刀身が近くの立ち枯れた巨木と、足元の巨大な岩石の角を軽やかに撫で斬りにしていた。
その瞬間、目を疑う光景が展開された。
切断された巨木は、樹皮の繊維から木質部に至るまで、触れた端から瞬時に鈍い黄金の塊へと変化し、金属質な地響きを立てて倒れ落ちた。削り取られた岩石もまた、断面から一瞬にして純金へと置換され、重々しい金属の塊となって地面にめり込む。
一切の猶予もない、完全なる黄金化。
「……あ……」
フェルンの喉から、掠れた息が漏れた。
その紫色の瞳が、恐怖と戦慄によって大きく見開かれる。
この光景を、彼女は知っていた。
かつて北部高原の旅路において、巨大な大結界に閉ざされていた城塞都市ヴァイゼ。街の城壁も、建ち並ぶ家屋も、そこに暮らしていた人々すらも、何一つ抗う術を与えられず、ただ永遠の静寂の中に固定されていたあの光景。
魔王軍最強の七崩賢。
黄金郷のマハトが振るう、人類の魔法体系では解析すら叶わぬ呪い――『万物を黄金に変える魔法』、ディーアゴルゼ。
「ふふ……あはは! 怖いか? 人間」
黄金へと変わり果てた丸太の上に軽やかに飛び乗ったパサーテが、妖刀の切っ先を掲げ、陶酔するように細い顎を上げた。
抜き放たれた白銀の刀身には、赤紫色の不気味な刃文が浮き上がり、触れる空気を次々と微細な黄金の塵へと変じていた。
「これは妖刀『トリカブト』。このカタナがあれば、ボクにも七崩賢の魔法が使えるんだ。ほら早くしないと、どんどん黄金の体が重くなるよ? 人間の戦士さん」
冷え切った谷の底に、魔族の嘲笑が不気味に反響していた。