左肩に走ったわずかな裂傷から、冷酷な侵食は休むことなく這い進んでいた。
切り裂かれた皮膚から血が滴ることはなく、代わりに鈍い輝きを放つ黄金の結晶が、毛細血管の網目を塗りつぶすように広がっていく。鎖骨を越え、胸板を覆い、左腕の筋肉を芯から硬化させていくその感触は、ただ氷を押し当てられたような冷たさではない。生きた肉体が内側から質量を持つ純金へと置き換わり、己の体重そのものが鉛の枷となって骨を軋ませる、抗いようのない絶対の停止であった。
「くそっ……腕が……上がらねえ……ッ!」
シュタルクは大斧の柄を右手だけで握り直し、歯が砕けんばかりに噛み締めた。左腕はすでに指先まで重々しい黄金に覆われ、意思による駆動を完全に拒絶している。重心が著しく左へと偏り、足元の湿った黒土にめり込む靴底が、一歩踏み出すたびに鈍い地響きを立てた。
その痛ましい姿を視界の端に捉えながら、フェルンは木製の杖を掲げ、立て続けに白い魔力弾を放ち続けていた。
放たれるゾルトラークの弾幕は、空間を白紫の軌跡で埋め尽くし、谷底の湿った大気を焦熱で切り裂いていく。しかし、立ち枯れた巨木の間を跳梁する魔族の少女は、常軌を逸した敏捷さでその射線をすり抜けていた。
「あはははッ! どうだ人間! これが七崩賢の、ボクの力だ!」
黄金と化した岩の頂に飛び乗り、パサーテが狂気じみた笑声を響かせる。中性的な顔立ちに刻まれた優越感。腰に佩いた妖刀『鳥兜』の切っ先を弄び、金色の光彩を放つ刃文をこれ見よがしに誇示していた。
フェルンは息を乱すことなく、冷徹な視線を魔族の足元へと据えた。その紫色の瞳の奥には、前衛を侵食されていく焦燥が黒い澱のように沈んでいたが、紡ぎ出された声は氷の刃のように平坦であった。
「……それは違いますね」
静かな否定。パサーテの笑声がぴたりと止まる。
「それはあなたではなく、武器の力です。……それに、本物の『ディーアゴルゼ』とも根本的に異なります」
「あ?」
「本物のマハトが振るう術式であれば、私たちは刃を交える猶予すら与えられず、出会った瞬間に森ごと黄金へ変えられていたはずです。……それに、周囲の木や岩は刃が触れた端から即座に黄金化したにもかかわらず、シュタルク様の身体の侵食には明らかな遅延が生じています」
フェルンは杖の先端を寸分狂わずパサーテの胸元へと定め直し、論理の刃を容赦なく突き立てた。
「おそらく、その妖刀は『直接斬り裂いた物体』しか黄金化できない。そして……対象の体内に巡る魔力の抵抗によって、侵食の進行速度に著しい影響が出るのでしょう。フリーレン様がヒガンバナを見て仰っていたのと同じです。……所詮は、七崩賢の秘術を形だけ真似た、粗末な劣化コピーにすぎません」
「……っ」
パサーテの双眸から嘲りの光が消え去り、剥き出しの殺意がその相貌を醜く歪めた。額の角が怒りに震え、歯を剥き出しにして唸り声を上げる。
「だったらなんなんだよ、人間……! うざい女だな、お前は絶対に膝をつかせて、四つん這いにしてから黄金に変えてやる。……ボク専用の椅子にして、永遠に見下ろしてやるよ!」
大気が爆ぜた。
パサーテの姿が掻き消え、黒い風となって一直線にフェルンの懐へと殺到する。
その時、シュタルクの肉体はすでに限界を越えつつあった。
黄金化は左半身を完全に呑み込み、腹部から太腿、そして左足の膝下にまで達していた。もはや走ることすら叶わない。立っていること自体が、数倍に跳ね上がった己の質量との戦いであった。
だが、青年はその濁り始めた赤い瞳で、魔族がフェルンへと放つ不可避の刺突を捉えていた。
(フェルンが……殺される……!)
恐怖はなかった。師であるアイゼンから叩き込まれた、身体を動かすための唯一の理由――仲間を守るという原始の衝動が、硬化しつつある筋肉を無理やり駆動させた。
「うおおおおおおッ!!」
地鳴りのような咆哮とともに、シュタルクは右足一本で泥土を爆砕した。
飛び退くのではなく、前へ。
フェルンへと刃を突き出そうとしていたパサーテの死角、その背後から、黄金の重みを利用した弾丸のような突進で飛びかかった。
「なっ……動けるはずが……!?」
背後からの衝撃。シュタルクは残された生身の右腕と、完全に金属と化した重厚な左腕を交差させ、パサーテの華奢な胴体を背後から力任せに抱え込んだ。万力のごとき締め付け。魔族の肋骨がきしむ音が静寂に響く。
「しまっ……離せ、なりかけの分際でッ!」
パサーテが狂乱してトリカブトの柄を逆手に握り直し、背後のシュタルクの脇腹へ突き立てようともがく。
しかし、密着したシュタルクの顔は、苦痛に歪みながらも、真っ直ぐに前方の少女を見据えていた。
「フェルン!!」
血を吐くような叫びが谷底を貫く。
「俺ごと撃てッ!!」
射線上には、パサーテの細い身体と、それを拘束するシュタルクの身体が重なり合っていた。
常人であれば引き金を引くことを躊躇う光景。貫けば仲間を自らの手で屠ることになる絶対の禁忌。
だが、フェルンの瞳に迷いは一片も存在しなかった。
信じていた。過酷な旅路を共に乗り越えてきた戦士の頑強さを、そして何より、シュタルクが勝算もなく無謀に己の命を投げ出すような男ではないことを。
「……ゾルトラーク」
澄み切った一言とともに、杖先が最大出力を解き放った。
ドォッ! と。放たれた至近距離のゾルトラークは、大気を白熱させながら一筋の光条となって一直線に突き抜けた。
パサーテの胸の中央を正確無比に貫通した白紫の魔力の槍は、そのまま背後のシュタルクの腹部を直撃した。
衝撃波が谷の木々を薙ぎ倒す。
しかし、光が弾け飛んだ後、シュタルクの身体が吹き飛ぶことはなかった。
すでに内臓の深くまで達していた黄金化の層が、人類最強の貫通魔法を物理的な金属塊となって受け止めていたのだ。
「ぐ……あ……」
胸に巨大な風穴を開けられたパサーテの喉から、掠れた空気の抜ける音が漏れた。
握り締められていた妖刀『トリカブト』が指先から滑り落ち、湿った黒土の上に無力な金属音を立てて転がる。
「馬鹿……な……ボクが……こんな……人間の……」
中性的な顔がボロボロと黒い塵となって崩れ始め、やがてその肉体は冷たい風に巻き上げられる煤のように、跡形もなく大気の中へと霧散していった。
敵は滅びた。
しかし、奇跡は起きなかった。
「がはっ……」
拘束を失ったシュタルクの身体が、前へと傾いた。
その皮膚の表面を走る黄金の光脈は、術者を失ったにもかかわらず、その速度を緩めるどころか、残された生身の領域を飢えた獣のように貪り食っていた。
「シュタルク様!」
フェルンが駆け寄り、倒れ込む青年の肩を支えようと手を伸ばす。
しかし、触れた感触は人間の柔らかな皮膚ではなく、氷のように冷たく、途方もなく重い金属の塊であった。
侵食は止まらない。
右腕へ、首筋へ、そして顎から頬へと、金色の結晶が滑らかな皮膚を覆い尽くしていく。
「フェル……ン……」
途切れがちな声。赤い瞳の半分が黄金の輝きに呑まれ、最後に残された右手が、虚空を求めるように微かに震えた。
「わりぃ……なんか……すげえ、冷たくて……体が……動かねえ……」
「喋らないでください! 今、解呪します……!」
フェルンは膝をつき、即座に地面に転がっていた妖刀『トリカブト』へと杖を向けた。
ヒガンバナと同じ構造であるならば、術式を宿す核である刀身を破壊すれば、呪縛は解けるはずだ。
容赦のない光弾が、黒土の上の抜き身を正確に撃ち抜いた。
甲高い破砕音とともに、赤紫の刃文を刻んだ刀身は無数の破片となって四散し、宿されていた魔力の脈動は完全に消滅した。
だが――。
「……え?」
フェルンの瞳が揺れた。
足元に横たわるシュタルクの姿は、微動だにしていなかった。
解呪の光が走ることもなく、黄金の結晶が剥がれ落ちる気配すらない。
それどころか、最後の生身であった右目までもが金色の金属へと置き換わり、青年は完全に、静寂の中で佇む冷たい彫像へと変わり果てていた。
息をしていない。
心臓の鼓動も、大気中の魔力との循環も、すべてが途絶えていた。
「嘘……なんで……?」
フェルンの声から、普段の落ち着きが完全に剥落した。
震える両手でシュタルクの黄金の頬に触れる。冷たい。どれほど体温を伝えようとしても、熱は金属の冷気によって無慈悲に奪われていく。
「解呪の術式を……基礎解呪……女神様の魔法を……!」
フェルンはなりふり構わず杖を突きつけ、知る限りの解呪魔法、魔力分解の術式を注ぎ込んだ。
青白い光がシュタルクの全身を包み込む。しかし、その術式は黄金の表面を滑るように弾かれ、一切の浸透を許さない。ディーアゴルゼの本質は、呪いであると同時に完全なる物質変化。魔力すら通さぬ絶対の金属化を前に、現代の魔法は何の作用も及ぼすことができなかった。
「お願い……戻って……シュタルク様……!」
治癒魔法の光を重ね、己の体内の魔力を限界まで絞り出して注ぎ込み続ける。
だが、返ってくるのは冷たく硬質な金属の感触だけだった。彫像となった青年の顔には、最後に仲間を信じて飛び込んだ時の、険しくも誇り高い表情が永遠に固定されていた。
杖を握る手が、激しく震えていた。
膝をついた黒土の上に、ぽたぽたと大粒の雫が落ちて染みを作っていく。
「嫌です……こんなの……嫌です……」
フェルンは黄金の胸元に額を押し当て、子供のように身を縮めて泣きじゃくった。
感情を殺し、常に冷静な魔法使いとしてあろうとしてきた少女の輪郭が、音を立てて崩壊していく。冷たい谷底の風が吹き抜ける中、物言わぬ黄金の像を抱きしめながら、フェルンの悲痛な嗚咽だけが、立ち枯れた木々の間に虚しく木霊していた。
* * *
重いまどろみの底から意識が浮上した瞬間、鼻腔をくすぐったのは、高山特有の冷え切った硫黄の気配と、どこか懐かしい石鹸のような微かな香りだった。
鉛のように沈んでいた視界が、緩やかに色を取り戻していく。
灰色の曇天。切り立った岩壁。そしてすぐ目の前で、紫色の瞳に涙をいっぱいに溜め、瞼を赤く腫らした少女の顔があった。その少し後ろには、布に包まれた鉄の破片を背負い袋に収めたばかりのフリーレンが佇み、傍らでは真新しい白木の木剣を抱えたコガネが、安堵したように眉を下げてこちらを見つめている。
シュタルクは寝転がったまま、おそるおそる己の左手を視界に掲げた。
指を握り、開く。掌を返し、擦り合わせる。あの骨の髄まで凍りつくような冷たい金属の感触はなく、赤みを帯びた確かな生身の皮膚が、微かに泥で汚れて息づいていた。
「……身体が、元に戻ってる……?」
掠れた声で呟いた途端、影が落ちた。
「ちょ、うわ……っ!?」
勢いよく飛び込んできた黒いローブの感触。胸板に柔らかな重みが激突し、細い腕が首筋にぎゅっと回される。普段の慎み深さなど欠片も残さず、フェルンが全身で抱きついてきていた。
「ちょ、どうしたんだよフェルン……っ!?」
困惑し、両手を宙に彷徨わせるシュタルクの胸元で、少女の肩が小刻みに震えていた。
◇ ◇ ◇
ほんの十数分前。この谷底は、底知れぬ絶望の静寂に沈んでいた。
粉々に砕かれた妖刀トリカブトの破片を前に、フェルンは黒土の上に両膝をつき、必死に杖を突きつけていた。どれほど魔力を絞り出し、解呪の波長を重ね、聖典の浄化の光を注ぎ込もうとも、黄金へと変わり果てた青年は何の反応も示さない。術式は冷たい金属の表面を虚しく滑り落ち、ただ無慈悲な静寂だけを跳ね返す。
己の無力さに打ちひしがれ、大粒の雫をこぼしながら青年の胸元に額を押し当てていたフェルンの背中に、不意に柔らかな温もりが添えられた。
「落ち着いて、フェルン。……もう大丈夫だよ」
振り返ると、そこには息ひとつ乱さず佇むフリーレンの姿があった。
その細い肩には、討伐した魔族ティグアンから回収した妖刀キョウチクトウの破片が括り付けられており、背後には無傷のコガネが寄り添っていた。
フリーレンは膝をつき、フェルンの濡れた頬をそっと指先で拭うと、静かに視線を黄金の像へと落とした。
砕け散ったトリカブトの残骸、黄金と化して横たわる巨木や岩塊、そして前衛として戦って硬化した赤髪の戦士。状況を検分する翡翠の瞳に、動揺の色は微塵もなかった。
「……やっぱり、七崩賢の魔法か。黄金郷のマハトの術式、万物を黄金に変える魔法――ディーアゴルゼ」
「妖刀は……破壊しました……! ですが、呪いは解けず、私の魔法ではどうすることも……」
途切れ途切れに訴える弟子に対し、フリーレンは穏やかに首を横に振った。
「フェルンが解けないのは当たり前だよ。これは人類の魔法体系の外にある、大魔族の魔法だ。シュウハクによって条件付けが歪められているとはいえ、物体の組成を書き換える基本構造は本物と寸分違わない。……でもね」
フリーレンは赤い杖の先端を、静かにシュタルクの黄金の額へとあてがった。
「私なら解けるよ」
かつて北部高原の城塞都市ヴァイゼにおいて、マハトとソリテールを討伐した際、フリーレンは百年に及ぶ大魔族の記憶を読み解き、この絶対不可逆の呪いを完全に解析し終えていた。人類史上、ただ一人だけが到達した解呪の深淵。
「……ディーアゴルゼの解呪術式」
フリーレンが静かに紡ぐと、杖先から朝露の光のような、淡く柔らかな光の波紋が広がった。
光がシュタルクの全身を包み込むと、鈍く重々しかった黄金の結晶が、まるで春の陽気に溶ける氷のように音もなくほどけていく。金属の膜が剥落するように薄れ、その下から赤黒い布の繊維、衣服の質感、そして血の気の通った青年の柔らかな皮膚が、次々と息を吹き返していった。
◇ ◇ ◇
深い霧を払うように、平然としたフリーレンのフラットな声が頭上から降ってきた。
「……ディーアゴルゼを二回も食らったのは、私の他にはシュタルクだけだ。よかったね、シュタルク」
「よくねえよ! 」
抱きつかれたまま硬直していたシュタルクは、引きつった笑みを浮かべて即座に言い返す。
すると、胸元に顔を埋めていたフェルンが、ゆっくりと身体を引き離した。
その双眸には、いまだ乾ききらない涙の膜が張っていたが、眉はきゅっと険しく吊り上がっていた。
「……シュタルク様」
「え? うわっ、フェルン、なんで泣い――痛い痛い! 叩くなって!」
ぽかぽかと、感情のままの拳がシュタルクの肩口を連打する。戦士の肉体には痛くも痒くもないはずの打撃だったが、そこに込められた感情の重さに、シュタルクは思わず縮こまった。
「自分を犠牲にするなんて、戦士ではありません! クロガネ様との戦いで、あなたがそう言ったのに……! ……生きていてよかったです、本当に」
語尾を震わせ、再び俯く少女の姿に、シュタルクの喉から言い訳の言葉が消え失せた。
冷たい風が谷底を吹き抜け、枯れ木の枝を微かに鳴らす。青年は後頭部に手をやり、気まずそうに視線を落とした。
「……そうだよな。ごめん」
素直な謝罪の言葉を口にしながら、シュタルクは自らの左手をじっと見つめ直していた。
誰かのために命を捨てる戦い。
理屈では分かっていたはずだった。恐怖は悪いことではない。恐怖こそが、戦士をここまで生かして連れてきたのだと、師匠であるアイゼンは繰り返し語っていた。逃げ出したいほどの恐れを抱え、紙一重の踏み込みで命を繋ぐことこそが、生き残る戦士の誇りであると。
だが――パサーテの切っ先が、フェルンの無防備な胸元へ向けられたあの刹那。
自分の中から、あれほど身を焼き尽くしていたはずの「死への恐怖」が、嘘のように消え去っていた。
考えるよりも先に身体が地を蹴り、黄金に侵食されゆく己の質量すらも武器にして、ただ少女を守るためだけに飛び込んでいた。後先など何もなかった。己の命がここで終わることに対する恐れすら、一瞬たりとも脳裏をよぎらなかったのだ。
あの兄弟との激闘が、胸の奥底で重く蘇る。
肉親である妹に操られ、脇腹を抉られてもなお笑いながら大斧を受け止めていた長男、クロガネ。
あの時の自分は、痛みを無視して突進してくるその姿を「恐怖を知らぬ蛮勇」と蔑み、戦士への冒涜だと憤慨した。
だが、もしも――。
もしもあの男が、妖刀の呪縛に操られてなどいなかったとしても。
瀕死の妹の前に敵が立ち塞がったその時、あの大男は、やはり同じように平然と己の命を投げ打って盾になったのではないだろうか。
それを自分は、冒涜だと本当に切り捨てられるのだろうか。
守るべき者のために恐怖を捨て去り、ただ立ち塞がるその姿を、誰が間違いだと断じられるのか。
答えは出ない。
冷気を含んだ風が吹き抜ける中、青年が握り締めた両の腕には、かつて黄金に沈みかけた時の、あの芯まで冷え切った重い余韻だけが、静かに、深く刻み込まれていた。