一歩、朱色の鳥居をくぐり抜けた瞬間、肌を刺すようなあの不快な狂気と腐臭が、嘘のようにピタリと消え失せた。
背後を振り返ると、ついさっきまで僕たちを執拗に追いかけてきていた異形どもが、鳥居の手前でまるで見えない壁に阻まれたかのように、忌々しげに咆哮を上げながら引き返していくのが見えた。強力な結界か何かが、この里を守っているのだろう。
「ふぅ……。ここまで来れば、ひとまずは安心ね」
翠が弓を肩に担ぎ直し、小さくため息をつく。その横顔を見た瞬間、張り詰めていた僕の緊張の糸が、音を立てて切れた。
「あ……」
急激に押し寄せる、圧倒的な疲労感と左肩的激痛。視界が急速に狭まり、ぐにゃりと地面が歪む。自分の意地も、限界を迎えた肉体には通用しなかった。
「ちょっと、あんた!? しっかりしなさい――」
慌てたような翠の声が遠くで聞こえたのを最後に、僕の意識は深い闇へと沈んでいった。
――どれほどの時間が経ったのだろう。
次に目が覚めた時、最初に感じたのは、ジャングルの泥の冷たさではなく、柔らかく温かい肌触りだった。鼻腔をくすぐるのは、あの悍ましい腐臭ではなく、どこか懐かしい畳と微かな線香の香り。
「……ここは?」
掠れた声で呟きながら、ゆっくりと上体を起こす。
僕は見見知らぬ和室の中に敷かれた、清潔な布団の上に寝かされていた。障子越しに柔らかな木漏れ日が差し込んでおり、外からは鳥のさえずりが聞こえる。
ふと左肩に目をやると、服は脱がされ、傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。あんなに激しく燃えるようだった痛みが、今は嘘のように鈍い疼きへと変わっている。
枕元を確認すると、愛用の重拳銃とタクティカル・ダガーが、綺麗に泥を拭き取られた状態で静かに置かれていた。
畳を踏みしめ、自分の足で立てることを確認していると、静かに障子が開いた。
「あら、もう起きたの。あんた、意外とタフね」
盆に薬の入ったお椀を載せて入ってきたのは、神楽坂 翠だった。
「手当てをしてくれたのは、貴方ですか?」
「他に誰がいるのよ。あんたの肩、あのままだと本当に腐り落ちてたんだからね。私の特製の薬ときつめの結界で、なんとか毒は抜いておいたわ。感謝しなさいよね」
翠はふんぞり返るようにして胸を張る。その態度は相変わらずだったが、包帯の丁寧さや、綺麗に手入れされた僕の武器を見れば、彼女がどれだけ親身に手当てをしてくれたかは一目瞭然だった。
異形の蔓延るあの地獄で、目の前の少女は確かに僕の命を救ってくれた。僕の直感が、彼女は信じるに値する人間だと告げていた。
張り詰めていた心のトゲが、ようやく自覚できるほどにすっと溶けていく。僕は小さく息を吐き、銃から手を離して彼女を真っ直ぐに見据えた。
「……助かりました。ありがとうございます。」
「別にいいわよ、巫女の仕事みたいなもんだし。それよりあんた、いつまでも『あんた』って呼ぶのも不便だし、そろそろ名前くらい教えてくれない? どこからどうやってあんな場所に迷い込んだのかも気になるしね」
翠は畳に腰を下ろし、興味深そうに首を傾げた。
命の恩人に偽名を名乗るような真似は、僕のプライドが許さない。
「――魂刀 刹那」
僕は自分の名前を、静かに、しかしはっきりと彼女に告げた。
「こんとう……せつな?」
僕が名乗ると、翠は口の中でその響きを転がすように呟き、それから少し呆れたようにふっと笑った。
「へえ、なんだかえらく格好つけた名前じゃない。刹那って、あの『一瞬』の刹那でしょ? 随分とせっかちな名前をつけられたものね」
気安い調子でからかって見せた彼女いつもこんな感じなのだろうか?だがその瞳の奥には、僕の少し普通ではない苗字と纏っている空気を値探るような、聡明な光が宿っている。
「まあいいわ。刹那、あんたがどこから来た何者でも、この里にいる間はただの怪我人よ。よく休んで、さっさとその肩を治しなさいな」
翠はそう言って立ち上がると、部屋を出ていこうと障子に手をかけた。その飾り気のない態度が、かえって僕の凍りついた心をさらに軽くしてくれた。
……そう、ここまでは良かったんだ。彼女が振り返り、満面の笑みを浮かべるまでは。
「あ、そうそう忘れてたわ」
「なんですか?」
翠は人差し指と親指で綺麗に円を作ると、悪びれもせずに言い放った。
「今回の特製お薬代、それからお布団代に特別看病手当。締めて二万五千円。うちの神社もお賽銭が少なくてカツカツなのよね。もちろん、体で払うってのも大歓迎よ? 魂刀刹那くん♪」
「……は?」
助けられた安心感は、一瞬にして消し飛んだ。
どうやら僕は、異形が蔓延る地獄のジャングルから、別の意味でタチの悪い『がめつい巫女の巣窟』へと迷い込んでしまったらしい。
サイアクでクソみたいな気分だ。
僕は枕元のダガーを見つめ、いっそもう一度あのジャングルに飛び出した方が精神衛生上マシだったのではないかと、本気で頭を抱える。
「あっそうだった...貴方が気になってそうな事...ここがどういう場所かって話だけど、単刀直入に言うと、ここは普通の生者が来る場所じゃないわ。現世で『死』を迎えた人間のうち、その未練や執念がとてつもなく強かった者が、たまに迷い込む世界の裏側――『アザーサイド』よ。この世界の歴史を遡っても、外の世界からここへ迷い込んできた人間は、あんたを含めてたったの2人だけなんだから」
「アザーサイド……それがこの世界の名前か。それにしては、外に随分と人がいるみたいですが...」
「ああ、そこは勘違いしないでね。元からこのアザーサイドには人間が住んでるのよ。独自の文化を作って、個性的な生き物たちとごちゃ混ぜになって普通に暮らしてる先住民たちがね。あんたみたいに外の世界で死んで、その未練の力で境界線を超えて『入ってきた』人間が、歴史上でたったの2人しかいないって話。まぁ、あんたより前に来たもう1人の人間は、今もどこかでピンピン生きてるみたいだけどね」
「もともと人間が住む世界に、死んだ僕が2人目の異邦人として紛れ込んだ、か……」
「そういうこと。ちなみにあの森の異形は、迷い込んだ魂の負の感情や未練が具現化した『穢れ』の成れの果てよ。あんたが持ち込んだ未練があれを凶暴化させてる面もあるんだから、少しは責任感じなさいよね」
――なるほど、大体の事情は分かった。
翠の解説を聞き終え、僕は自分の手のひらを見つめながら深く息を吐いた。死者の未練がもたらすアザーサイドという世界。そして僕が歴史上たった2人目の異邦人であるということ。
「納得がいったなら、案内したい人がいるの。ついてきなさい」
翠に連れられて部屋を出ると、僕たちはのどかな活気に満ちた里の通りを歩き、一軒の大きな屋敷へと向かった。そこにいたのは、落ち着いた着物姿に身を包み、深く刻まれた皺の奥に鋭い知性を宿した老人だった。
「ようこそ、異邦の若者よ。私がこの里の村長を務めている、田村だ。翠から話は聞いている。まずは無事で何よりだったな」
田村は穏やかな声で僕を迎え入れ、お茶を勧めてくれた。僕は勧めに応じながら、自らの名を名乗り、同時に一つの疑問をぶつけた。
「村長、一つ聞きたい。あのジャングルでの戦闘中、神楽坂は常軌を逸した威力の弓や、光の剣を使っていた。あれは一体何なんだ。僕のいた世界では、一部を除いてあんなものはオカルトの領域だ」
僕の問いに、田村は白く長い髭を撫でながら、静かに頷いた。
「やはりそこが気になるか、あーそうそう盗み聞きしていたから自己紹介はいらない魂刀刹那。……このアザーサイドという世界には、現世とは異なる独自の法則がある。それはな、ここに住む者、あるいはここに辿り着いた魂には、一人一つ、固有の『能力』が発現するということじゃ」
「能力……?」
「そうよ」と、横から翠が口を挟む。
「私の場合は、穢れを祓う『退魔の霊力』。それが弓や光の剣という形になって現れているの。この世界の先住民も、みんな何かしらの独自の能力を持って生活しているわ」
田村が再び言葉を引き継ぐ。
「外の世界から強い未練を持って境界を越えてきた人間は、特に強力な能力を宿す傾向にある。お前より前に来たもう1人の異邦人も、凄まじい能力を持って今もこの世界のどこかで生きている。――刹那、お前がジャングルで異形を退けられたのも、ただの戦闘技術だけではないはずじゃ。お前自身もまだ自覚していない、お前だけの『能力』が、その魂には眠っているのだよ」
田村の説明を聞きながら、僕は自分の右拳を強く握りしめた。
能力。エージェントとしての実力だけでなく、この世界に適応するための力が、僕にも備わっているというのか。
「お前が抱える未練が何であるかは私には分からん。だが、この世界で生き抜くため、そしてお前の目的を果たすためには、その力を引き出す必要があるじゃろう」
田村の重みのある言葉が、静かな室内に響き渡り少し頭が混乱したのだった。
「――自分の、能力、か」
田村の言葉の余韻が、冷えたコンクリートの床に染み込んでいくようだった。
僕は握りしめた右拳をじっと見つめる。現世での僕は、組織の『エージェント』として、ただ命じられるままに標的を排除する機械に過ぎなかった。愛用する大口径の銃と、肉薄した命を刈り取るダガー。それだけが僕の証明だったはずだ。だが、この「アザーサイド」という奇妙な世界は、僕の魂そのものに眠る「何か」を呼び覚まそうとしている。
その引き金となるのが、僕の抱える『未練』だというのなら――胸の奥が、ちりりと焦げるように痛んだ。
「まあ、難しく考えすぎることはないわ」
沈黙を破ったのは、隣に立つ翠の声だった。彼女は背負った弓の弦を軽く指で弾き、澄んだ音を響かせる。
「まずはこの世界で生き延びること。そのためには、頭を悩ませる前に、まずは雨風をしのげる『家』が必要よ。刹那、これからどうするの? まさかずっと田村の爺さんのところに居座るわけにもいかないでしょう?」
「……えぇ。確かにそうです。」
僕は顔を上げ、部屋の主である田村に向き直る。
「田村さんこの近くに、僕が寝泊まりできるような場所、あるいは人間が住む集落はあるんですか?」
田村は長い白髭を蓄えた顎を撫で、困ったように眉を下げた。
「ふむ。結論から言えば、この近くにお前を受け入れるような『人里』は存在せんよ」
「存在しない? 先住民が住んでいると言ってませんでしたか?」
「住んでおる。だがな、刹那。ここは現世ではないのだ。ただでさえ不安定な魂が集まる世界で、お前のような『外の世界から来た、強力な未練と力を持つ異邦人』は、歓迎されるどころか恐怖の対象にすらなる。現に、先ほどお前を襲った異形どもは、お前の魂の匂いに引き寄せられたのだからな。普通の者が暮らす集落に長居すれば、それだけでその村を滅ぼしかねん」
拒絶、という言葉が脳裏をよぎった。現世でも組織の影として生き、どこにも居場所のなかった僕が、死後のようなこの世界でもまた、人の輪から弾かれる。苦笑すら出なかった。それが僕という人間の宿命なのだろう。
「なるほど。つまり、人のいない場所を探せ、ということですか?」
「そういうことじゃ。だが安心せい。この世界は広い。人間が住まぬ領域にも、かつて何かが存在した名残はいくらでもある。……なぁに、お前ほどの腕があれば、野宿も苦ではなかろう?」
「冗談を言わないで、爺さん」
翠が呆れたようにため息をつき、僕の前に一歩踏み出した。
「異形を引き寄せる体質の刹那を、その辺の野原に放り出したら、明日の朝には骨も残ってないわよ。……仕方ないわね。刹那、私についてきなさい」
「翠に迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑だなんて思ってないわよ。私は『退魔の霊力』を持つお守り役。それに、この近くで、人間が寄り付かないけれど、最高の『隠れ家』になりそうな場所に心当たりがあるの」
翠の瞳には、強い確信の光が宿っていた。
「どこだ?」
「――『異形の森』。あなたがさっき、化け物たちと戦ったジャングルの、さらに奥深くよ」
田村が「ほう」と目を細める。
「あそこへ行くか、翠。確かにあそこなら、人は誰も近づかん。だが、危険も相応だぞ」
「わかってるわ。でも、あそこには『あれ』があるでしょう? 刹那が安全を確保するためにも、あそこ以上の場所はないわ」
こうして、僕と翠は田村の庵を後にすることになった。
一歩外へ出ると、アザーサイドの空は、紫と群青が混ざり合ったような、現世の黄昏時が永遠に固定されたような不気味な色をしていた。空気は重く、どこか湿っている。
「行くわよ、刹那。遅れないでね」
翠は軽やかな足取りで、鬱蒼と茂る巨大な木々の隙間へと飛び込んでいった。僕はホルダーに収まった大口径の銃の重みと、逆手に握ったダガーの冷たさを確かめ、彼女の背中を追って、再びあの悍ましい緑の深淵へと足を踏み入れた。
*
「異形の森」と呼ばれるその場所は、文字通り狂気に満ちていた。
現世の植物図鑑には絶対に載っていないであろう、どす黒い紫色の花が怪しげな燐光を放ち、うねる根はまるで巨大な蛇のように地面を這い回っている。時折、木々の隙間から「ギチギチ」と硬い甲殻が擦れ合うような音や、獣とも鳥ともつかない悍ましい鳴き声が聞こえてきた。
「……静かに。右の藪に、何かいる」
僕は素早く翠の肩を掴み、身を潜めさせた。エージェント時代に培った気配察知の技術が、的確に危険を告げている。
「察しがいいのね」
翠は囁き返しながら、背中の弓を引き抜いた。彼女が弦を引くと、何もない空間から光の粒子が集まり、一本の眩い「光の矢」が形成される。これが彼女の能力――退魔の霊力。
「グルルル……!」
藪を割って姿を現したのは、犬のような体躯に、人間の引きつった顔を持った異形だった。現世のバケモノ映画でも見ない悪趣味な造形だ。それが三匹、こちらの肉を求めてよだれを垂らしている。
「下がってて、刹那。私の矢で――」
「いや、僕がやる。引きつけて一撃で殺せば問題ない」
僕は翠を制し、前に出た。腰のホルダーから、ずっしりとした大口径の銃を引き抜く。
「無茶よ! そんな大きな音を立てたら、他の化け物まで――」
言いかける前に、一匹目の人面犬が、猛然と跳躍してきた。獲物を引き裂かんとする鋭い爪。
僕はあえて動かず、その軌道を見極める。現世の暗殺任務に比べれば、この異形の動きは直線的で退屈極まりない。引きつけて、銃口をその眉間へと正確に固定する。
ズドォォォンッ!!
耳を劈くような爆音が森に響き渡った。大口径ならではの凄まじい反動が腕を伝うが、鍛え上げられた僕の肉体はそれを完全に殺す。放たれた弾丸は異形の頭部を木端微塵に粉砕した。
だが、手応えがおかしい。肉を弾き飛ばした感覚ではなく、まるで泥を撃ち抜いたような粘り気のある抵抗感。消えかけた異形の傷口から黒い霧が噴き出し、僕の腕にまとわりついた。
「くっ……!?」
一瞬の硬直。その隙を逃さず、残りの二匹が左右から同時に襲いかかってきた。
「危ない!」
翠の声と同時に、鋭い風切り音が響く。放たれた光の矢が、左側の異形の脳天を正確に射抜いた。光の塊となった矢は着弾と同時に炸裂し、黒い霧ごと異形を消滅させる。
しかし、右側のもう一匹が、すでに僕の喉元へと迫っていた。大口径の銃を次弾へ移行させるには、この至近距離ではわずかに遅い。
僕は瞬時に左手でダガーを逆手に引き抜いた。迫る牙をダガーの平で受け流し、そのまま流れるような動作で異形の喉元を深く切り裂く。
鋭い斬撃。しかし、異形はひるまない。傷口から黒い霧を噴き出しながら、さらに執念深く噛みつこうとしてくる。
「しつこいな……!」
僕はダガーを深く突き刺したまま、右手の大口径の銃の銃口を、異形の胴体に直接押し付けた。ゼロ距離射撃。
ズドォンッ!!
二度目の爆音が炸裂し、異形の巨体が肉片と黒い霧に変わって四散した。強烈な硝煙の匂いが周囲に立ち込める。
「はぁ、はぁ……」
僕は銃を構えたまま、周囲の警戒を怠らない。現世の武器でも十分に通用する。だが、敵のタフさと、精神を揺さぶってくるあの黒い霧は厄介だ。
「息がぴったりね。あなた、本当にただの人間なの?」
翠が目を見開いて僕に駆け寄る。
「ただの人間だ。それ以上でも以下でもない。……だが、先を急ごう。これだけ派手な音を立てたんだ、次の波が来たら保たない」
「そうね。目的地はもうすぐよ。がんばって、刹那」
僕は銃をホルダーに戻し、ダガーの血(あるいはそれに類する黒い液体)を拭い去ると、さらに森の奥へと進んだ。奇妙な植物の密度が増し、周囲の霧が濃くなっていく。この世界の危険地帯の真ん中に、本当に安全な家などあるのだろうか。疑念が頭をよぎったその時、突如として視界が開けた。
「――嘘だろ」
霧の向こうにそびえ立つその光景を目にした時、僕は我が目を疑った。
そこは、このおぞましい原始的なジャングルには、およそ不釣り合いな「文明の遺物」だった。
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