離れを囲うように渡された
垂らされた
その異変を感じ取り、屋敷の廊下を慌ただしく駆ける足音が響き、家中がにわかに騒がしくなり始めた。
そんな屋敷の一室で、平伏した老神職が額を畳に擦り付けたまま、脂汗の浮かぶ顔を歪めて絞り出すように口を開く。
「旦那様。11を迎え、
上座に腰を下ろす男──この家の当主は、腕を組み、固く閉ざされた引き戸の奥、離れの方向をただ見据えていた。
母屋に居ても感じられるソレは、日を追うごとに増して行き、もはや一門総出の祈祷をもってしても覆い隠しきれる限界をとっくに超えている。
「⋯⋯⋯⋯そろそろ、潮時かも知れんな」
低く重い呟きが、静まり返った座敷に沈む。
老神職は恐る恐る顔を上げ、主人の横顔を伺った。その眼差しに宿る険しい覚悟を読み取り、息を呑む。
「では、例の場所に?」
「そうする他あるまいて。彼処は火薬庫の様なところではあるが、力の制御を学ぶ場として、彼処以上はあるまい」
男は床の間に掛けられた古い神宝の大弓へ視線を移した。
絶海の孤島、南硫黄島。日ノ本唯一の、魔法学校。
結界に守られたその地は、日本中から集まった呪術者や外来の魔術がひしめき合い、思想と血統の軋轢が日夜燻る混沌の極みだ。
生半可な子供を放り込めば忽ち呑み込まれかねない泥沼。だが、島全体を覆う強固な結界と、あらゆる体系の術が集まるあの環境だけが、いまや常軌を逸した一人娘の力を受け止める場となり得た。
「数百年ぶりに現れた現人神が、まさかあのような混沌の場に赴かれる事になるとは⋯⋯なんと因果なものか」
老神職は痛ましげに呻き、再び深く頭を垂れた。
一族にとっては畏敬すべき奇蹟であり、同時に一歩間違えれば一郷を滅ぼしかねない火種。
あまりに重い宿命を背負わされた十一歳の少女の行く末を案じ、老いた肩がかすかに震える。
「その様な因果もあるだろうて。願わくば、これが善き因果であることを祈ろうぞ」
男は小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
厳しい言葉の裏に、娘を人の業渦巻く坩堝へ送り出さねばならない親としての苦渋を押し殺しながら、ただ遠い南の海へと思いを馳せるように祈りを捧げていた。
揺らめく蝋燭の明かりに浮かぶ薄暗い座敷の中、二つの人影が寄り添っていた。
ひとりは、息を呑むほどに美しい幼い少女。
座敷の闇をそのまま溶かし込んだような濡羽色の黒髪をこぼし、その肌は、薄焼きの陶磁器めいて白く透き通っていた。
もうひとりは、少女によく似た面差しをもつ妙齢の女性であった。かつては少女と同じように、息を呑むほど美しい女性だったのだろう。しかし今は、その面影を残しながらも、どこか草臥れたような雰囲気を纏っている。
「ねぇ母様。お座敷から出ていいって、本当?」
「⋯⋯⋯⋯えぇ。来月、いいえ、再来月くらいかしら。時期としては少しおかしいのだけれど……魔法処という学校に、
「どんなところなの?」
女性は細く青白い指先で、
「……遠い、海の真ん中にあるのよ」
女性の声は、どこまでも静かで、かすかに震えていた。
「南の果てにある、大きな岩の島。島全体が霧に閉ざされていてね、そこには白木と翡翠でできた、息を呑むほど美しい宮殿が七つ建っているの。夜になると、天の川が手の届きそうなほど近くに見えるそうよ」
「お星さまが……?」
座敷の天井に貼り付けられた、煤けた幾重もの札しか見上げたことのない少女にとって、それはおとぎ話の絵巻物そのものだった。
「ええ。そこにはね、日本中……いいえ、海の向こうからも、特別な力を持った子供たちがたくさん集まって、魔法を学ぶの」
「みんな、わたしみたいな子達?」
無邪気な問いかけに、女性は小さく息を呑み、喉を詰まらせた。
梳いていた手が微かに止まり、娘の背中に回された腕にぎゅっと力がこもる。しかし、すぐに痛ましいほど優しい微笑みを浮かべた。
「そうね。きっと、たくさんのお友達ができるわ。……でもね、
女性は
「あの島では、決して怒ってはいけませんよ。誰かを憎んでもいけない。……お前が心から願ったことは、良くも悪くも、ぜんぶ本当になってしまうのだから」
「うん、おこらないよ。わたし、いい子にする」
それからふた月が経ち、晩秋の冷気が山深き
差し込む朝の光に目を細めながら、
生まれて初めて踏みしめる土の柔らかさ、頬を撫でる冷たい風の匂い。
庭の池の水面が、彼女の小さな草履が近づくにつれて鏡のように凪ぎ、池底の鯉たちが一匹残らず腹を上にして平伏するように静止する。その光景を、父は苦々しく見つめ、ただ娘の手を固く握りしめ直した。
郷の結界の外れ、霧の濃い山頂で待っていたのは、漆黒の巨大なウミツバメだった。
南硫黄島から生徒を迎えに飛来する、魔法処の使い鳥。だがその鳥は、
「……乗るのだ、
「これに乗って、お空を飛ぶの?」
生まれて初めて間近で見る大きな生き物に、
十一年間、座敷の障子越しに鳥の影を見てきただけの少女にとって、目の前で身を縮める巨鳥は、恐ろしい怪異ではなく絵巻物から飛び出してきた奇蹟そのものだった。
「そうだ。そして、決して手首の組紐を外すでないぞ。……守谷の神官たちが、お前の身を守るために祈りを込め、編んだ物だ」
父の視線が、葵の白く細い手首へと落ちる。
幾重にも巻き付けられた朱と白の
認識すら叶わぬほど細い繊維を幾重にも綯い上げたそれは、継ぎ目も隙間もない、ただ一本の紐のように見える。
一門の神職たちが命を削る思いで編み上げた、何物にも断たれず、
言いつけを守るように手首の紐を指先でそっと撫でた
「それと、これを」
蓋を開けると、白絹の上に一本の細い木が横たわっている。
「これは?」
「お前の杖だ。木材は、神木の落ち枝を。芯には、お前自身の髪を入れてある。向こうでは、杖魔法を修めなければならないからな」
それは、磨き上げられた華美な杖ではない。
皮を剥いだだけの白木は節くれ立ち、ところどころに黒ずんだ木目が走っている。神域の最奥、千年以上
触れた箇所から白木の木肌に微かな朱の筋が走り、まるで生き物のように彼女の体温に馴染んでいき、葵の手のひらには吸い付くように収まった。
「これ、あたたかいね」
「……肌身離さず持っておれ。向こうの授業では、嫌でもそれを振らされることになる」
父は苦い表情を崩さぬまま、杖を握る娘の細い手を両手で包み込んだ。
「だが、決して本気で振るでないぞ。言霊を乗せるな。ただ、西洋の術の真似事をして、形だけ取り繕っておればよい。……よいな?」
「うーん⋯⋯わかった!」
「いってまいります、父様、母様」
振り返った
そして葵が巨鳥の背に小さな身体を預けると、ウミツバメは低く喉を鳴らし、巨大な漆黒の翼を広げた。
バサリ、と山頂の冷たい霧を払って風が巻き起こる。
少女を乗せた鳥が雲海を切り裂き、南の空へと飛び立っていく姿を、父と母、そして神職たちは誰一人として見送りの声をかけることもできず、ただ深く頭を垂れて祈り続けた。
神様を迎えるのにふさわしい場所であることを示したり、神域の神様が外に出ていかないようにする意味を持つ。左綯いが男神。右綯いが女神を表すとされる。また、右綯いは陰や静寂、鎮めを象徴する。