南硫黄島の断崖を穿って築かれた魔法処の玄関口、金宮の拝殿前に一人の老人が佇んでいた。
撫でつけられた豊かな総髪は雪のように白く、深く刻まれた皺の奥で丸眼鏡が光っている。身に纏うのは、長い歳月と高い位階を示す濃い紫色の長衣。
老人は時折、懐から銀の懐中時計を取り出しては、文字盤と霧に閉ざされた鉛色の空とを交互に見比べていた。
「……そろそろかの」
呟き、時計を懐へ滑り込ませる。
今日は本来、新入生を迎える節目の日ではない。学期はとうに始まっている。
それにもかかわらず、学校が誇る巨鳥ウミツバメを一羽、絶海の孤島から遠く離れた信州の山奥までわざわざ飛ばさせた。
ただ一人、遅れてやってくる少女を迎えるために。
やがて、老人がふと視線を上げた。
霧の帳の向こうから、空気を切り裂く羽音が響いてくる。
一度。二度。
湿った大気を叩く重い羽ばたきが近づくにつれ、拝殿の軒先に吊るされた無数の青銅の風鐸が、風もないのに微かに震え始める。
チリン。その音に、老人の眉がわずかに動く。
チリン、チリン──。
音は瞬く間に連鎖していく。
拝殿だけではない。渡殿の先、そのまた向こう、金宮の全域に渡された風鐸が、目に見えない何かに撫で上げられたように次々と鳴り渡る。
「ほう」
老人は眼鏡の奥の細い目をさらに細めた。風鐸は本来、外部からの邪気や穢れを祓うための祭具。それが侵入を拒むのではなく、まるで上位の神仏の降臨に平伏し、露払いをするように鳴き喚いている。
次の瞬間、頭上の霧が渦を巻いて裂けた。
現れたのは漆黒の巨体、魔法処のウミツバメ。
だが、その飛び様は異様だった。普段なら滑空して優雅に降り立つはずの巨鳥が、翼を強張らせ、恐怖に怯えるように何度も不自然に羽ばたいている。
石畳に爪を立てるなり、巨鳥は脚を折るようにしてその場へへたり込んだ。
その羽毛の間から、小さな影がするりと抜け出してくる。
「着いたの?」
濡羽色の黒髪が、吹き付ける潮風にふわりと揺れた。
少女は巨鳥の背を滑り降り、草履でぽんと石畳を踏みしめた。
その瞬間。
チリン──。
最後の一音が澄み渡るように響き、あれほど騒がしかった金宮の風鐸が一斉に鳴き止んだ。
島全体を包み込むような、底知れない静寂。少女の小さな足元には、南の強い陽光が射しているにもかかわらず、輪郭の定かな影が落ちていない。
少女自身はそんな異変に気づく様子もなく、物珍しそうにくるりと周囲を見回した。
磨き上げられた白木の柱、陽光を照り返す翡翠の瓦、岩壁そのものを穿ち抜いた巨大な門。
そして、目の前に立つ紫衣の老人。
少女は少しだけ首を傾げた後、思い出したように背筋を正し、両手を体の前で揃えた。
「はじめまして」
ぺこり、と鈴を転がすような所作で頭を下げる。
「守谷葵と申します。本日より、お世話になります」
老人はすぐには答えなかった。
十一年間、一度も外界の陽の光を浴びてこなかったとは思えないほど透き通るような白い肌。
それを包む、黒地に赤い華があしらわれた振袖。
そしてその細い手首には、固く巻き付けられた朱と白の組紐。
老人は無言のまま、深淵を覗き込むように少女を見つめ、それから慈父のように穏やかに破顔した。
「いや、すまんすまん。遠路はるばる、よく来てくれました、守谷葵さん」
「はい!」
「わしは、ここ、魔法処魔法呪術学校校長の
そう告げて、老人は身を翻した。
「ついておいで。まずはお主のことを、皆に紹介せねばならん」
「みんな?」
葵の足がぴたりと止まった。
老人が足を緩め、振り返る。
「うむ。教員たちもそうじゃが、お主と同じ学び舎で暮らす生徒たちにもな」
その言葉を聞いた途端、葵の大きな瞳がぱっと輝いた。
「お友達も、いますか?」
「…………」
源之の歩みが一瞬だけ完全に静止した。
老人は少女のあまりに純真な面差しをじっと測るように見つめ、やがて困ったように眉を下げて笑った。
「それは……これからお主が見つけるものじゃよ」
「?」
「さあ、行こうか」
「はい!」
葵は小走りで源之の隣へ並んだ。
並んで歩き出すと、二人は金宮の奥へと続く長い石段を上り始める。
一段、二段と歩を進めるたび、背後を閉ざしていた黒い岩壁が視界の下へと沈んでいった。
「葵さん」
「はい?」
「後ろを見てごらん」
促されるまま、葵が振り返る。
「──わぁ」
幼い唇から、感嘆の息がこぼれ落ちた。
眼下に広がっていたのは、見渡す限りの紺碧の海。
荒波が遥か足下の断崖へと打ち寄せるたび、砕けた飛沫が光を浴びて霧のように舞い上がっている。
そして海とは反対側、石段の先に姿を現した光景を目にした瞬間、葵は息を呑んで立ち尽くした。
切り立つ山肌に沿って建ち並ぶ、白木と翡翠の巨大な宮殿群。
一つではない。
深く鬱蒼とした原生林と立ち込める霧の合間を縫い、朱塗りの渡殿や長く険しい石段で結ばれながら、七つの宮が島を抱き締めるようにして聳え立っていた。
母の声が、耳の奥に蘇る。
『そこには白木と翡翠でできた、息を呑むほど美しい宮殿が七つ建っているの』
「ほんとうだ……」
葵は夢見るように呟いた。
「母様の、言ったとおり……」
源之は何も言わず、ただ静かに少女の横顔を見つめていた。
やがて、葵が弾んだ顔で老人を見上げる。
「ねえ、土御門のおじいさま」
「なんじゃ?」
「夜になったら、お星さまも見えますか?」
「星?」
「はい。天の川が、手の届きそうなくらい近くに見えると、母様が教えてくれたの」
「ああ」
源之は目を細め、高く広がる秋の空を仰いだ。
昼の青空には、当然ながら星の欠片も見当たらない。
「晴れておれば、それはもう見事な天の川が見えるとも。手の届くどころか、空から零れ落ちてきそうなほどに」
「ほんとですか?」
「うむ」
葵はふわりと花が綻ぶように笑った。
「楽しみです」
それだけ言うと、軽やかな足取りで再び石段を駆け上がり始める。
源之は一歩遅れて、その華奢な背中を追った。
「おじいさま、早く!」
「ほっほ。そう急かさないでくだされ。年寄りの足にはちと堪えるのでの」
無邪気に笑いながら先を急ぐ少女を追い、稀代の陰陽師たる老人もまた、運命の歯車が噛み合い始めた石段を一歩ずつ踏みしめていった。
「さて、歩く道すがら、ちょいと伝えておく事がある。魔法処ではな、普通は七つの歳にこの島へ渡る。じゃが葵さん、お主は今年で十一。ゆえに、五年生から始めてもらうことなるのじゃが……それにあたって、学業においては他よりも大幅に遅れを取っていると言っても良い。じゃから、特別措置として、補習講義を行うこととしての」
葵は石段の途中で足を止め、くるりと振り返って小首を傾げた。
「ごねんせい……ほしゅう?」
聞き慣れない響きに、大きな瞳をしばたたかせる。生まれてから十一年間、祖先の古い祝詞と幾重もの古文書、そして父が選んだわずかな書物しか読んだことのない少女にとって、学校の学年や授業という概念そのものが手探りだった。
源之は息を切らす風もなく追いつくと、丸眼鏡を指先で少し押し上げ、柔らかく目を細めた。
「そうじゃ。普通の子らはな、七歳でこの島へ渡り、まずは基礎的な読み書きや初歩の術理、島での暮らし方を四年間かけて叩き込まれる。……本来なら、いきなり五年生の輪に入るなど無茶な話なんじゃが⋯⋯まあ遅れと申しても、焦る必要はありませぬ。講義の合間や放課後に、基本的な符の切り方や杖の扱い、それにこの島の決まり事を、わしや数名の教員で個別に手ほどきいたす。葵さんが一歩ずつ、人の世の術に馴染んでいけばよいのじゃ」
「おべんきょう……わたし、がんばります。本を読むのは、お座敷でもたくさんしてきましたもの」
葵は誇らしげに胸を張り、ふわりと笑った。
源之はその眩しげな笑顔を見つめ、どこか痛ましげに、だが慈愛を込めて頷いた。
「うむ、その意気じゃ。……じゃがな、葵さん」
源之の声音が、ほんの少しだけ低く、厳かな響きを帯びた。
拝殿を遥か見下ろす石段の吹き抜けを、南硫黄島の冷たい海風が吹き抜け、老人の紫の衣を大きくはためかせる。
「この島にはの、様々な考えを持った生徒たちがおる……中には、それを他人にまで押しつけずにはおれぬ者もな」
葵は風に濡羽色の髪を遊ばせながら、静かに老人の言葉に耳を傾けた。
「お主のような、遅れてやってきた生徒はな、連中にとって格好の『標的』に見えるやもしれん」
源之は葵の目の前まで歩み寄り、諭すように、だが確かな重みをもって告げた。
「何があっても、惑わされるでないぞ。誰かの争いに加担する必要も、無理に誰かの色に染まる必要もない。お主はお主の歩幅で、この島で人として生きる術を学びなさい」
「……うん。わたし、だれとも喧嘩しないよ。みんなと仲良くなりたいもの」
その澄み切った返答に、源之はふっと目元を緩めた。
「……そうか。それが一番じゃ」
そう答えながらも、老人は胸中で小さく息を吐く。
願わくば、この島の者たちもまた、この少女と同じように願ってくれればよいのだが。
「さあ、着いたぞ」
源之が杖を軽く突くと、石段の頂上にそびえる巨大な朱塗りの扉が、軋んだ音を立ててひとりでに左右へと開かれた。
「ああ、それと、忘れておったが、貴女の下宿先については、後ほど副校長が連絡するでな」
その先──金宮の大広間。吹き抜けの回廊には、新学期が始まって久しいこの時期に突如現れた「謎の編入生」を一目見ようと、大勢の生徒たちが黒々と群れをなしていた。
吹き抜けの大広間を取り囲む回廊は、静まり返りながらも異様な熱気に満ちていた。
数百人もの生徒が息を潜めて階下を見下ろす中、人目につきにくい金宮の太い円柱の陰に、二人の女子生徒が身を寄せていた。
「で、例の転入生……来るの今日よね?」
その言葉に、仕立ての良い行灯袴に魔法処の制服を羽織った、異国の血を感じさせる顔立ちの少女が小さく息を吐きながら答える。
「うん、そうだね。確か……諏訪の守谷って家のご令嬢だって」
「諏訪……諏訪ぁ? 神道系?」
「ご実家は神社らしいよ。でも、大社じゃないみたい」
異国風の少女の何気ない言葉に、隣で柱に寄りかかっていた、和服に魔法処の制服を羽織った少女が、小鼻をわずかに膨らませて鼻を鳴らした。手にした檜扇をトントンと自らの肩に打ち鳴らし、いかにも醒めた調子で口を挟む。
「そりゃそうよ。諏訪大社くらい大きなところの子が入ってくるってんなら、私が知らないはずないもの……お
「それ、そっち側が言うのはあまり良くないよ」
異国風の少女が苦笑交じりに窘める。
それを受けた和服の少女は肩をすくめ、扇子を開いて口元を隠した。
「なによ。冗談なんてのは、不謹慎なくらいが丁度いいのよ……でもそうね、もし本当にそうなら……二千年くらい? 少なくとも、それくらい前から続く超名家じゃない。確か、ミラ、あんたの家⋯⋯日本の方ね? が飛鳥辺りでしょ? はんっ、
「別に競ってないけど……」
二人がそんな軽口を交わしていたその時、大広間を満たしていた重苦しいざわめきが、にわかに色めき立った。
金宮の最奥、重厚な朱塗りの両開き扉が、低く軋んだ音を立てて外気へと放たれる。南硫黄島の断崖から吹き上がる冷涼な海風が、一筋の白い霧と共に広間へと流れ込んできた。
「おっ、きたきた」
「仲良くなれるといいね」
「それは向こうの態度次第ね」
二人は柱の陰から、そろりと顔を覗かせた。
校長の土御門源之に先導され、開かれた扉の向こうから小さな影が歩み出てくる。
濡羽色の、艶やかな黒髪。
陶磁器めいて白く透き通った肌。それを包み込む、黒地に赤い華の振袖。
そして何より、周囲を取り囲む上級生たちの品定めするような刺々しい視線など微塵も気にしていない、春の陽光のように無防備で純真な笑顔。
「………………」
その姿を捉えた瞬間、和装の少女の軽妙な表情が一変した。
扇子を握る指先が強張り、白皙の頬から血の気が引いていく。
喉の奥で息が詰まるような異様な沈黙に、異国風の少女──ミラが怪訝そうに視線を向けた。
「どうしたの?
「私パス。ありゃダメね」
和装の少女──薫子は吐き捨てるようにそう言って、素早く柱の影の暗がりへと身を引いた。
「なんで?」
「なんでって、アレ、どっからどう見ても祟神の系譜でしょ。穢れがべっとり付いてるのがわかんないの?」
薫子は、編入生の纏う気配を鋭敏に感じ取っていた。
昏く、淀んだ、そんな気配を。
「いい? 神道において、穢れは禁忌なの。巫女の私が、あんなのと関わっていいわけないでしょ。そもそも、厄神やら祟神に関わって得することなんて何一つないんだから⋯⋯うへぇ〜、ヤなもの見たわ。えんがちょ」
薫子はそういって、両手の人差し指と親指を合わせ、胸の前で小さな輪を作ってみせた。
ミラは呆れたように短く息を吐きながらも、手刀を作ると、その二つの輪の間をすっと縦に振り下ろしてやった。
「切った……でも、悪い子には見えないよ?」
「本人の性格なんてどうでもいいのよ。性質よ、性質。トリカブトみたいなもんよ。いくら花の見た目が可憐でも、その実は猛毒。アレも、見た目は大人しそうだけど、その中身は……さてはて」
「ふーん」
「なによ、その反応」
「いや、別に……なんか気持ちよくなってるなぁって」
「はぁ!?」
「まぁ別にどうでもいいよ。ほら、なにか進展があったみたいだよ」
ミラが軽く手で制し、顎で広間の中央を指し示す。
薫子も毒気を抜かれたように息を吐き、忌々しそうに眉根を寄せながら、再び柱の隙間から階下の光景を覗き込んだ。
「ほら、制服が進呈されるみたい」
「あぁ……そういやまだ振袖だものね」
大広間の中央では、威厳ある面持ちの教員が一歩前へ進み出ていた。手には、真新しい白木の長箱が厳かに捧げ持たれている。
生徒たちの無数の視線が注がれる中、教員は葵の前で立ち止まり、深く一礼した。
恭しく蓋が開かれる。
敷き詰められた柔らかな白絹の上に横たわっていたのは、魔法処の象徴たる、純白の長衣だった。
「こちらが、魔法処より貴女へ進呈される制服です」
「わたしの?」
「ええ。貴女だけのものですよ」
「……!」
教員の静かな宣告に、葵の大きな瞳がぱっと花開くように輝いた。
「わたしの……」
愛おしそうに呟きながら、葵はおずおずと小さな両手を伸ばす。
教員の手から渡された純白の長衣に、振袖の上からそっと細い腕を通した。
そして、その純白の布地へ、波紋のように淡い色が滲み出し始めた。
「おぉ……」
葵の幼い唇から、感嘆の息がこぼれ落ちる。
水彩絵の具を水に溶かしたような淡い色彩が、首元から胸元へ、両袖から裾へと、さざ波のように穏やかに広がっていく。
やがて、微かな光の粒子が収まり、変色がぴたりと止まった。
桃色。
七歳で入学したばかりの幼い新入生が最初に纏う、何の変哲もない、柔らかく可憐な桜色だった。
「…………」
柱の陰で固唾を呑んでいた薫子が、呆気にとられたように目を細めた。
そのあまりに拍子抜けな結果に、ミラが横から小さく肘をつつく。
「普通だね」
「普通ね」
「もっと何かあると思った?」
「別に」
「思ってたんだ」
「うるさい」
葵は桃色に染まりきった両袖を掲げ、右へ左へと小鳥のようにくるくる回しながら、夢中になって見つめている。
「すごい……!」
袖を揺らせば、柔らかな布地が海風を孕んでふわりと翻る。
「おじいさま、見て!」
振り返った葵が、誇らしげに源之へ袖を広げて見せた。
その愛らしい姿に、紫衣の老人は皺だらけの顔をほころばせ、穏やかに目を細める。
「ほっほ。よく似合っておりますぞ」
「ほんとですか?」
「ええ、とても」
「えへへ……」
葵は照れくさそうにはにかみ、宝物を抱きしめるように自分の胸元へもう一度視線を落とす。
回廊の上で、ミラがふっと肩の力を抜き、静かに息を吐いた。
「……なんか」
「何よ」
「普通の子だね」
「だから、性格と性質は別だって言ってるでしょうが」
「はいはい」
「絶対分かってないでしょ、あんた」
「分かってるよ」
ミラは呆れたように受け流しながら、桃色の袖を広げて嬉しそうにはしゃぐ葵の背中を見つめ続けた。
少なくとも、今のところは。
生まれて初めて貰った制服に胸を躍らせる、ごく普通の編入生にしか見えないなと、
お
えんがちょ 汚いものや不浄なものと自分の縁を切り、その穢れが移るのを防ぐために行う、呪術的な仕草や言葉。