(明智ハル視点)
トイレを済ませて廊下に出ると、あんなの部屋のドアの隙間から、かすかな明かりが漏れているのに気づいた。
もう深夜の二時を回っている。
いつもならとっくに寝ている時間だ。
俺は少し迷ってから、あんなの部屋のドアをそっとノックした。
「あんな、まだ起きてるのか?」
「……ハルくん?」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、いつもの元気な調子とは違って、どこか沈んでいた。
俺は静かにドアを開ける。
ベッドの上であんなは膝を抱えて座っていた。
枕元の小さなスタンドだけが部屋をぼんやりと照らしていて、彼女の横顔に淡い影を落としている。
「どうしたんだ、こんな時間に。眠れないのか?」
俺がベッドの端に腰を下ろすと、あんなは膝に顎を乗せたまま、小さくうなずいた。
「うん……目を閉じるとね、今日のことが頭の中をぐるぐる回っちゃって。あの黒マントの人の言葉とか、飼育小屋のウサギやニワトリのこととか」
あんなの声は普段よりずっと小さくて、風にさらわれてしまいそうなほどか細かった。
「どうしてなんだろうって考えちゃうの。どうしてあの人たちは、平気で誰かを傷つけられるんだろうって。私には……どうしてもわからないんだ」
彼女は膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。
その指先がかすかに震えているのを見て、俺の胸の奥がきゅっと締めつけられた。
あんなは優しすぎるのだ。
誰かの痛みを自分のことのように感じて、悪意の理由を必死に理解しようとして、でも理解できなくて苦しんでいる。
「そういえばさ、この前あんなが貸してくれた漫画すごく面白かったよ」
俺はわざと明るい調子で、まったく関係のない話を始めた。
あんなは少しだけ顔を上げて、不思議そうに俺を見つめる。
「最初は弱かった主人公が、仲間との絆でどんどん強くなっていくところがよかった。特にあの洞窟のシーン、敵に囲まれて絶体絶命なのに絶対に諦めないところが格好良かった」
「……ハルくん、ちゃんと読んでくれたんだ」
あんなの口元がほんの少しだけ緩む。
俺はその小さな変化を見逃さずに、さらに言葉を続けた。
「あとさ、昼間にテレビをつけたら、たまたま通販番組をやってて、すごい便利なフライパンの宣伝をしてたんだ。油をひかなくても卵がするっと滑るらしい。あれは本当なのかちょっと気になってるんだが」
「ふふっ、ハルくんが通販番組を見てる姿なんか想像できないかも」
あんなが小さく笑った。
その笑い声を聞いて、俺の胸の中にぽっと灯りがともったような温かさが広がる。
「それから、昨日の夕方に散歩してたらさ、路地裏で子猫を見かけたんだ。まだ生まれて間もないくらい小さくて、毛がふわふわで日向で丸まって寝てた。近づいたら目を覚まして、にゃあって鳴くんだ。それがすごくかわいくてな」
「へえ……ハルくん、猫好きなの?」
「自分でもよくわからないけど、あの子猫を見てたら、なんだか心がほっとしたんだ」
他愛のない話ばかりだった。
事件のことも、怪物のことも警察のことも、何一つ解決につながる話じゃない。
でもあんなは俺の話を聞きながら、少しずつ少しずつ膝を抱える腕の力を緩めていった。
「ハルくん、ありがとう」
あんながぽつりと呟く。
その声はさっきまでの沈んだ調子からはほど遠く、穏やかな響きを取り戻していた。
「私ね、ハルくんの話を聞いてたら、なんだか気が紛れたよ。漫画も通販番組も子猫も、どうでもいい話なのに不思議だね」
「どうでもいい話だからだと思うぞ。そういう話の方が、気が楽になることもある」
俺がそう言うと、あんなはえへへと小さく笑ってから、少しだけためらいがちに口を開いた。
「あのね……私、ハルくんにお願いがあるんだ」
「なんだ?俺にできることなら何でも言ってくれ」
「私の頭、撫でてほしいな。ハルくんに撫でられるとすごく落ち着くんだ」
あんなは頬をほんのりと赤らめて上目遣いで俺を見つめてくる。
その表情は子犬が飼い主に甘えるときの無邪気さに似ていて、俺は思わず口元を緩ませた。
「それくらい、いくらでもしてやるよ」
俺は右手を伸ばして、そっとあんなの頭に手を置いた。
指先で柔らかな髪を梳くように、ゆっくりと優しく撫でていく。
あんなは最初こそくすぐったそうに身をよじっていたが、次第に力を抜いて俺の手に頭を預けてきた。
スタンドの灯りが彼女のまつげの影を頬に落としていて、その横顔は驚くほど穏やかだった。
「ハルくんの手、やっぱり気持ちいいなあ。大きくてあったかくて……なんだかね、安心するんだ」
あんなはうっとりと目を細め、口元に小さな笑みを浮かべている。
その笑顔を見ていると、こちらの心までほぐれていくようだった。
「あんなは優しくて、とってもいい子だな」
あんなは誰よりも人の痛みに敏感で、誰よりもまっすぐに優しさを届けようとする。
その優しさが彼女を苦しめることもあるけれど、それも含めて大切な一部だ。
俺はこの子の優しさを守りたい。
何も言わずに、ただひたすらあんなの頭を撫で続けた。
指の腹で前髪をそっとかき上げ、耳の後ろをくすぐるようになでる。
そのたびにあんなは「えへへ」と小さく笑い、肩の力が少しずつ抜けていくのが伝わってきた。
「ありがとう……ハルくん……」
あんなの声がだんだんと小さくなり、やがて寝息に変わる。
気がつくと、彼女は俺の手に頭を預けたまま、すやすやと眠ってしまっていた。
その寝顔は子どものようにあどけなくて、さっきまで悪意に苦しんでいたのが嘘のように穏やかだった。
俺はそっと手を離し、あんなの体をゆっくりとベッドに横たえる。
彼女の肩に掛け布団を引き上げてやってから、枕元のスタンドの灯りを消した。
「……おやすみ、あんな」
その言葉は暗い部屋の中で静かに溶けていった。
俺は足音を立てないように気をつけながら、静かにドアを閉めた。