(明智ハル視点)
俺は借りていた本を胸に抱えて、みくるの部屋のドアをそっとノックした。
夕食も終わり、そろそろそれぞれが部屋で過ごす時間帯だ。
窓の外からは虫の声がかすかに聞こえていて、夜の静けさが廊下全体を包み込んでいる。
「みくる、今大丈夫か」
「ハルくん? どうぞ、入っていいよ」
ドアを開けると、みくるは机に向かって何やらノートを広げていた。
推理ノートではなさそうで、学校の宿題か何かだろうか。
彼女は椅子から立ち上がると、俺の手に抱えられた本の束を見てぱっと表情を明るくした。
「みくるから借りた本、全部読み終わったんだ。歴史の本も推理小説も、どれもすごくおもしろかった」
俺が本を差し出すと、みくるは一冊一冊手に取ってまるで自分のことのように嬉しそうに表紙を撫でている。
「本当に全部読んだの? 結構な量があったと思うけど」
「ああ、夜寝る前とかに少しずつ読んでたんだ。特に推理小説の方は、最後まで犯人がわからなくて、気がついたら朝方まで読みふけってしまったよ」
「もう、睡眠はちゃんと取らないとダメだよ。でも……ハルくんがそんなに本を楽しんでくれて、私すごく嬉しい」
みくるはそう言うと、本棚に本を戻しながら何かを思いついたようにくるりと振り返った。
彼女の目が期待にきらめいているのを見て、俺は次の言葉を待つ。
「ねえハルくん、明日ってお休みだよね。よかったら図書館に行ってみない?」
「図書館?」
「うん、まことみらい市立図書館。この前ハルくんが歴史を勉強したいって言ってたでしょ。図書館にはここには置けないような専門書もたくさんあるし、それに……本の数にきっと驚くと思うよ」
彼女の提案は唐突だったが、図書館というものに俺は漠然とした憧れのようなものを感じていた。
本がたくさんある場所。
知識が集積された空間。
みくるの本棚だけでもあれだけの世界が広がっているのに、図書館にはどれほどの世界が詰まっているのだろう。
「ぜひ行ってみたい。あんなにも声をかけてみよう」
「うん、きっと喜ぶと思うよ」
次の日の朝、休日だというのに三人とも自然と早起きして家を出た。
あんなはカバンの中にポチタンを忍ばせていて、時折「ポチッ」と小さく鳴く声が聞こえてくる。
ポチタンも図書館は初めてだろうから、静かにしていられるか少し心配だったが、あんなが「いい子にしててね」と言い聞かせると、ちゃんと「ポチッ」と返事をしていた。
まことみらい市立図書館は駅から歩いて十分ほどの場所にある、レンガ造りの重厚な建物だった。
入口の重い木製のドアを押し開けると、紙とインクの混ざり合った独特の香りがふわりと鼻をくすぐる。
館内は想像していたよりずっと広く、天井まで届く高い書架が整然と並んでいた。
「すごい……」
俺は思わず立ち止まってその光景に見入ってしまった。
何万冊という本が、静かに、しかし確かな存在感をもってそこに佇んでいる。
歴史、文学、科学、芸術――あらゆる知識がこの空間に集約されているようで、胸の奥が不思議な高揚感で満たされていく。
「ハルくん、口が開いてるよ」
みくるがくすくすと笑いながら俺の顔を覗き込んできた。
どうやら無意識のうちに呆けた表情をさらしていたらしい。
俺は慌てて口を閉じ、照れ隠しに後ろ頭をかく。
「これだけ本があると、どこから手をつけていいかわからなくなるな」
「だよね!!私も最初に来たとき、こんな感じだったよ。図書館って、宝の山みたいでわくわくするんだよね」
あんなも目を輝かせながら館内を見回している。
彼女はきょろきょろとあちこちに視線をやりながら、何かを探しているようだった。
「ねえ、私ちょっと見たい本があるから先に行ってくるね!!」
あんなはそう言うとカバンを胸に抱えて奥の方へと小走りで消えていった。
ポチタンが「ポチッ」と鳴いたのがかすかに聞こえ、それもすぐに遠くなる。
「じゃあ、私たちも見て回ろっか」
みくるはそう言うと館内の案内図を手に取って、まずは歴史の書架へと案内してくれた。
彼女の歩調はゆっくりで、時折立ち止まっては本を手に取る。
「この本、私も読んだことあるよ」
「これは初心者にはちょっと難しいかも」
そんなふうに丁寧な解説を加えてくれた。
歴史の書架に到着すると、みくるは迷わずに数冊の本を抜き出して俺に手渡した。
「この『図説・超戦国武将大全』は写真が多くて、初心者にもわかりやすいと思う。それからこっちの『日本史の謎に迫る』は読み物としてもおもしろいよ」
「ありがとう、みくるの選んだ本は間違いないからな」
俺が礼を言うと、みくるは照れくさそうに微笑んで、さらに奥の書架へと歩き出す。
自然、科学、地理、民俗学――彼女は俺が興味を持ちそうなジャンルを的確に選んで、次々と本を紹介してくれた。
その途中だった。
「あれ? みくる?」
突然かけられた声に、みくるの肩がびくりと跳ねた。
声のした方を見ると、みくると同じくらいの年頃の女子が三人本を抱えて立っている。
学校の制服を着ているところを見ると、どうやらみくるのクラスメイトらしい。
「みくるが図書館にいるなんて珍しいね」
「あっ、うん、今日はちょっと……知り合いを案内してて」
みくるがもごもごと言葉を濁していると女子の一人が俺の存在に気づいて、目をまんまるに見開いた。
「もしかして、その銀髪の子……彼氏とか?」
「ち、違うよ!!ハルくんは探偵事務所の助手で、それに私の……その……」
みくるは耳まで真っ赤になって、両手をばたばたと振り回しながら必死に否定する。
だが、それがかえって火に油を注ぐ結果になったようで、女子たちは顔を見合わせてにやにやと笑っている。
「へえ〜、みくるってばやるじゃん」
「邪魔しちゃ悪いし、私たちはこれで失礼するね。図書館デート楽しんでね〜」
「だ、だからデートじゃないってば!!」
みくるの叫びも虚しく、女子達はくすくすと笑いながら書架の向こうへと消えていった。
残されたみくるはまだ顔を真っ赤にしたまま、うつむいて小さく息を吐いている。
「……ごめん、俺が一緒にいたせいで、からかわれるはめになってしまったな」
俺が申し訳なさそうに言うと、みくるは慌てて顔を上げて、ふるふると首を横に振った。
「ハルくんが謝ることじゃないよ……私の方こそ、きちんと説明できなくてごめんね。次に会ったときに、ちゃんと話しておくから大丈夫」
「そうか……ありがとう」
みくるはまだ少しだけ耳の赤みが残っていたが、深呼吸を一つしてから気を取り直したように顔を上げた。
「じゃあ、気を取り直して。次はこっちのエリアに行ってみよっか」
みくるはそれからも本当にたくさんの本を紹介してくれた。
世界の神話をまとめた図鑑、科学の不思議を解説した読み物、旅のエッセイ集。
「どれもおもしろそうだな。読んでみたい本ばかりで目移りしてしまう」
「ハルくん、さっきからずっとそればっかり言ってるよ」
みくるが苦笑いを浮かべながら俺の顔を覗き込む。
確かに、本を紹介されるたびに同じ感想を口にしている気がする。
「本当のことだから仕方ないだろ。それだけみくるの選ぶ本が魅力的なんだ」
「もお、そういうストレートな褒め方、やっぱりハルくんはずるいよ」
彼女はそう言って口をとがらせたが、その目は嬉しそうに細められていた。
「そうだ、ハルくんの方から何か読んでみたい本はある? せっかくだから、ハルくんが本当に興味のある本を探そうよ」
みくるの問いかけに俺は少しだけ考え込んだ。
これまでみくるが紹介してくれた本はどれも魅力的で、正直なところ全部読んでみたいくらいだ。
でも、今一番気になっているのは――。
「絵に関する本が読みたいんだ」
「絵?」
「ああ。この前、あんなとみくるを描いたとき……二人にすごく褒めてもらったのが嬉しくてな。もっと上手くなりたいと思ったんだ」
俺が正直にそう打ち明けると、みくるはぱあっと顔を輝かせた。
彼女は俺の返事を待たずに、さっそく美術関係の書架へと歩き出す。
その足取りはさっきまでよりずっと軽やかで、まるで自分のことのように喜んでくれているのが伝わってきた。
「美術の本ならこっちだよ。絵画の技法書から、有名な画家の作品集まで結構充実してるんだ」
みくるが指し示した書架にはたしかに色とりどりの背表紙がぎっしりと並んでいる。
『油絵の基礎』『水彩画入門』『透視図法のすべて』――タイトルを見ているだけで、未知の世界に足を踏み入れるような緊張感があった。
「どれも参考になりそうだけど……ちょっと難しそうだな」
俺が正直な感想を口にすると、みくるは「うーん」と首をかしげながら、書架をじっくりと見渡した。
そしてふと何かを見つけたように、一冊の本を抜き出す。
「これはどうかな? 『誰でもできる!?はじめての漫画の描き方』だって」
みくるが差し出した本は、他の美術書に比べると少しだけサイズが大きくて、表紙には親しみやすいイラストが描かれている。
タイトルからして、初心者向けの入門書のようだ。
「漫画か……」
俺はその本を手に取って、ぱらぱらとページをめくってみた。
キャラクターの表情の描き分け方、コマ割りの基本、効果線の入れかた――どれも初めて知ることばかりなのに、不思議とすんなり頭に入ってくる気がした。
「ハルくん、その本に興味があるの?」
「ああ、こういうのを読んでみたかったんだ。漫画なら、あんなも好きだと言っていたし、描けるようになれば楽しんでもらえるかもしれない」
「そっか……ハルくんが漫画に興味を持つなんて、ちょっと意外かも」
みくるはそう言いながらも、嬉しそうに目を細めている。
「でも、すごくいいと思う。ハルくんは手先が器用だし、観察力もあるからきっと上手な漫画が描けるよ。興味があるなら、その本を借りてみる?」
「そうだな、せっかくだし借りてみるよ」
俺がうなずくと、みくるはにっこりと笑ってその本を受け取って、カウンターへと向かってくれた。
「漫画を描いたら……私にも見せてね」
「気が早いな。まだ借りたばかりで、一コマも描いてないんだぞ」
「ふふっ、それくらい楽しみってことだよ。ハルくんがどんな漫画を描くのか、今からわくわくしてるんだから」
みくるの笑顔を見ていると、なんだかこっちまで照れくさくなってくる。
でも、彼女がこれだけ期待してくれているのなら、ちゃんと描いてみようという気持ちが湧いてくるのだった。