(明智ハル視点)
その日の午後、俺はいつものように街を散歩していた。
商店街の裏手、古びた住宅街を抜けたあたりで、路地の向こうから子供の悲鳴が聞こえた。
嫌な予感がして足を速める。
角を曲がると――
黒いマントを羽織った男が小さな女の子の口を塞ぎ、車の後部座席に押し込もうとしているところだった。
女の子は六、七歳くらいだろうか。
必死にもがいているが、男の力には敵わない。
「っ!!」
考えるより先に体が動いていた。
俺は全速力で駆け出したが、男は俺に気づくと舌打ちして車に飛び乗った。
エンジンが唸りを上げ、黒い車が煙を吐いて走り出す。
「待てっ!!」
俺は車の後を追って走った。
幸い、この辺りは路地が多く、車も速度は出せないようだ。
それでも、普通に考えたら追いつけるはずがない。
だが……俺の身体能力なら可能なはずだ。
二つ目の角を曲がったところで、見覚えのある姿が視界の端に飛び込んできた。
白い肌、クールな目つきの少女。
腕の中にはふわふわした妖精――森亜るるかだった。
彼女は俺に気づくと、珍しく驚いたような表情を浮かべた。
その腕の中の妖精――マシュタンも、小さな目をまんまるにして俺を見つめている。
「明智ハル……」
森亜るるかが俺の名前を呼んだ。
だが、今はそれどころではない。
「悪い、今はおまえに構ってる暇はない!!子供が攫われたんだ!!」
俺はそう叫ぶように言い捨てて、走り続けた。
背後で森亜るるかが何か言いかけた気配があったが、振り返る余裕もなかった。
車のテールランプが遠ざかっていく。
俺は歯を食いしばって足を速めた。
街外れの工業地帯に差しかかった頃、ようやく車が速度を落とした。
錆びついたフェンスに囲まれた廃工場の敷地に、黒い車が静かに停まる。
俺は息を切らしながら、少し離れた場所で足を止めた。
(あんなとみくるに連絡しなければ……)
そう考えたが、携帯なんて持っているはずもない。
俺は自分の迂闊さに唇を噛んだ。
(……一人で行くしかない)
廃工場の建物は、三階建ての倉庫のような構造だった。
窓という窓は割れ、壁には無数の落書きが刻まれている。
俺は足音を殺して、建物の裏手に回り込んだ。
小さな通用口のような扉を見つけ、そっと手をかける。
「……待ちなさい」
背後から、澄んだ声が響いた。
振り返ると、そこには――キュアアルカナ・シャドウとマシュタンの姿があった。
俺は一瞬息を呑んだ。
まさかここまで追ってきたのか!?
この前の戦いで俺は彼女の足を太いと言ったり、胸に触れたりと、散々なことをしてしまっている。
彼女が俺をどう思っているかは、想像に難くない。
(まずいな……ここで戦うことになったら、あの子を助けられない)
俺は身構えながら、相手の出方をうかがった。
だが、キュアアルカナ・シャドウからは、以前のような敵意がまったく感じられなかった。
「あなた、ここで何をしているの?」
淡々とした声。敵意はない。
「黒マントの男に子供が攫われた。この廃工場に連れてこられたんだ……それを追って助けに来た」
キュアアルカナ・シャドウは表情ひとつ変えなかった。
「……で、おまえは何しに来たんだ?」
「……マコトジュエルを探しに来た。あの工場にある可能性が高い」
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「いや……さすがにこんなところに、マコトジュエルはないだろ」
俺の言葉を遮るように、マシュタンがぷんと頬を膨らませた。
「察しの悪い男ね。るるかは手伝ってあげるって言ってるの」
「マシュタン」
キュアアルカナ・シャドウが低い声でマシュタンを制した。
その声音には、余計なことを話すなという圧が込められていた。
キュアアルカナ・シャドウは廃工場を見上げる。
「私はマコトジュエルを奪いに来ただけ……でも、そこにたまたま敵がいたら戦うかもしれない」
その言葉は、彼女なりの精一杯の言い訳なのだろう。
どうやら子供を助けるのを手伝ってくれるらしい。
彼女を疑うこともできたが、今は子供を助けることが優先だ。
「……ありがとう、アルカナ・シャドウ」
俺の言葉に、彼女はほんのわずかに眉を動かした。
その表情は、相変わらずクールで読み取りにくかったが、少なくとも拒絶の色はなかった。
「あの黒マントの男は、カルト教団の人間だ。たぶん子供を自分たちの神を復活させるための生贄にするつもりなんだ」
「そんなやつらが、この街に……」
その声には、驚きとも怒りともつかない感情が滲んでいた。
「……ついてきて」
キュアアルカナ・シャドウはそれだけ言うと、静かに通用口の扉に手をかけた。
その背中を追いながら、俺も工場の中に入っていく。
工場の中は、外観から想像していたよりもずっと広かった。
打ち捨てられた機械の残骸や錆びたパイプが壁際に積み上げられ、高い天井からは割れた天窓が覗いている。
俺とキュアアルカナ・シャドウは、機械の影に身を潜めながら慎重に中の様子をうかがっていた。
建物の中央に黒マントの男が三人。
その足元には、小さな女の子が手足を縛られ、横向きに寝かされていた。
「子供一人じゃ全然足りねえな。もっと攫ってくるか」
「ああ、今夜の儀式には最低でも五人は必要だ。このガキは質がいいからな、神もお喜びになるだろう」
男たちの会話が、壁に反響して嫌な響きで耳に届く。
まるで物の価値すら感じていないような、冷たい口ぶりだった。
(許せないな……)
拳を握りしめる俺の隣で、キュアアルカナ・シャドウは静かに息を吐いた。
彼女の横顔は、相変わらず感情を読ませない。
「子供に当たったら大変だし、アルカナスターレインは打つなよ」
俺は声を潜めて忠告した。
この前の戦いで彼女の全方位ビームがどれほどの威力かは、よくわかっている。
あれをこの狭い空間で撃てば、子供に当たるだけじゃない。
天井が崩れて全員生き埋めになる可能性がある。
「そんなのわかってる……」
キュアアルカナ・シャドウは俺の方を見ずに短く答えた。
その声には、怒りとも呆れともつかない、わずかな棘が含まれていた。
「私が黒マントを制圧する。その隙にあなたが子供を回収して」
簡潔で、無駄がない。
彼女の頭の中では、もうとっくに最適な手順が組み立てられているのだろう。
俺はそれに従うのが一番だと、すぐに理解した。
「わかった」
俺がうなずくと、キュアアルカナ・シャドウは機械の影からするりと滑り出す。
俺もそれに合わせて走り出した。
彼女が正面から男たちに迫る。
その一方で俺は機械の陰を縫うように、子供のもとへと回り込んだ。
「なっ!?誰だ!!」
男たちの動揺した声が響く。
だが、キュアアルカナ・シャドウはそれに答えることなく、ただ静かに……そして容赦なく動いた。
一人、二人、三人……。
まるで影が流れるように、あっという間に気絶させていく。
あまりにも鮮やかで、あまりにも速い。
俺が子供のもとにたどり着くまでの、ほんの数秒の出来事だった。
俺は女の子を抱え上げると、体を縛っていたロープを素早く解いていく。
彼女は不安げに身じろぎしたが、まだ眠ったままだった。
振り返り、キュアアルカナ・シャドウに声をかけた。
「助かった。あとは警察に通報すれば――」
俺がそこまで言いかけた瞬間――
低い唸り声とも、金属の軋みともつかない音が床下から響いた。
突然、キュアアルカナ・シャドウの立っている床が、内側から突き破られた。
轟音とともに、コンクリートの破片が四方八方に飛び散る。
俺は、とっさに子供を抱えて後ろに飛び退いた。
粉塵が視界を覆い、耳をつんざくような音が工場内に響き渡る。
「っ!?」
何が起きたのか、一瞬では理解できなかった。
粉塵が渦を巻き、視界が白く濁る。
ただ、爆発のような衝撃の中心に、キュアアルカナ・シャドウが立っていたことだけは、はっきりと見えた。
粉塵が晴れていく中で、その姿は徐々に明らかになっていった。
床を突き破って現れたのは、巨大な腕だった。
いや、腕だけじゃない。
それは、人型をした“何か”だった。
身長は六メートル。
毛むくじゃらの体は、まるで獣のように見える。
顔の中央を、縦に裂くように大きな口が備わり、その口は笑っているのか怒っているのか判別できないほど歪んでいた。
見ているだけで背筋が冷たくなる。
そして、肘のあたりから枝分かれするように左右それぞれ四本ずつ。
合計八本の腕が、ゆらゆらと宙を掻いている。
「な、なんだこいつ……!?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
カルト教団の怪物はこれまでに何度か見てきた。
だが、この巨人は、そのどれとも違う。
圧倒的な質量と、こちらを確実に殺すつもりの“意思”を感じる。
巨人は、無数の腕のうちの一本でキュアアルカナ・シャドウを掴んでいた。
「くっ……!!」
彼女の口から、初めて苦痛の声が漏れた。
キュアアルカナ・シャドウはもがくように身をよじるが、巨人の力は圧倒的だった。
腕が、胴が、ぎしぎしと軋む音が離れた場所にいる俺の耳にまで届く。
「逃げて!!」
キュアアルカナ・シャドウが絞り出すような声で叫んだ。
その声は、今まで聞いたどの声よりも必死で、切実だった。
「子供を連れて、早く!!」
彼女は、自分が捕まったことよりも俺たちの安全を優先している。
その姿を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
子供を抱えたまま走り出した。
振り返りたい気持ちを、必死で抑え込む。
(今は、この子を安全な場所に……)
廃工場の通用口を蹴破るようにして外へと飛び出す。
夜の冷たい空気が、緊張で火照った頬に心地よい。
そのままフェンスの外の安全な場所まで走り続ける。
子供を抱えた腕に、ようやく力が戻ってくるのを感じた。
「はぁ……はぁ……」
肺が焼けるように熱い。ようやく足を止めた。
振り返ると、廃工場の窓から巨人の腕が何度も突き出ていた。
建物全体が、ぎしぎしと悲鳴を上げて揺れている。
(キュアアルカナ・シャドウは……)
彼女はまだ中にいる。
あの巨人に捕まったまま……。
子供をそっと地面に下ろし、もう一度廃工場を見つめた。
子供はもう安全だ。
なら、次に守るべきは――彼女だ。
足が自然と前に出る。
考えるより先に、体が動いていた。
子供を安全な場所に残し、俺は全速力で廃工場へと駆け戻る。
夜風が頬を切るように吹き抜けていく。
心臓が痛いほど脈打っている。
それでも、足を緩める気にはならなかった。
通用口を蹴破るようにして中へ飛び込むと、巨人はちょうどキュアアルカナ・シャドウを掴んだまま、その巨体を揺らしていた。
彼女の体が巨人の腕の中で軋むようにしなっている。
苦痛に歪むその横顔が、薄暗がりの中でもはっきりと見えた。
「なっ……なんで戻ってきたの!?」
俺の姿を認めた彼女は、信じられないといった様子で声をあげた。
その声は、さっきまでとは打って変わって明らかに動揺していた。
「おまえを助けに来たに決まってるだろ」
息を切らしながらそう答えると、キュアアルカナ・シャドウはしばらく俺の顔を見つめていた。
その瞳には、驚きと戸惑いと、それからほんの少しだけ、理解できないといった色が浮かんでいた。
「私は……あなたの敵なのに」
その声は、さっきまでの凛とした調子ではなく、どこかかすれていた。
「敵かどうかは関係ない。俺がおまえを助けたいんだ」
その言葉に、キュアアルカナ・シャドウは何も言わなかった。
ただ、その瞳がほんのわずかに揺れたような気がした。
地面を強く蹴り、走り出した。
『守れ……守れ……』
頭の中に、あの声が響く。
森であんなとみくるを守ろうとした時と同じだ。
俺の中の何かが、「守れ」と命じている。
(そうだ……俺はおまえを守りたい)
助走の勢いをそのままに跳躍し、巨人の腹へ向かって一直線に飛び蹴りを放つ。
「はあぁぁぁぁぁっ!!」
巨人は蹴りをまともに受けて、ぐらりと体勢を崩した。
その拍子に、キュアアルカナ・シャドウを掴んでいた手が緩み、彼女の体が宙に放り出される。
「っ!!」
彼女は空中で体勢を立て直し、影のように静かに着地した。
床に片膝をついたまま、素早くロッドを構える。
「……アルカナスターレイン」
叫びと同時に、彼女の周囲に無数の暗黒の光点が浮かび上がる。
それらは一斉にビームとなって巨人へと放たれた。
闇の光線が雨のように巨人の全身を貫く。
毛むくじゃらの巨体が、内側から光に食い破られていく。
巨人は断末魔の叫びをあげる間もなく、黒い霧となって消滅した。
あとには、焼け焦げた臭いと重い静寂だけが残された。
荒い息をつきながら、その光景を見つめる。
胸が激しく上下していた。
「るるか!!」
マシュタンの小さな叫び声が響いた。
振り返ると、彼女はふわりと浮かびながら、キュアアルカナ・シャドウの元へと飛んでいく。
「大丈夫!?怪我してない!?」
マシュタンは彼女の顔を覗き込むようにして、心配そうに声をかける。
るるかはそっと息を吐き出すと、光に包まれて変身を解いた。
「大丈夫……」
その声は淡々としていたが、わずかに息が震えていた。
俺は彼女の無事を確認して、ようやく胸をなでおろした。
「おまえのおかげで子供を助けることができた。ありがとう」
るるかは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんのわずかに口元が緩んだ気がした。
るるかは視線をそらし――そして、いつもの無表情に戻った。
「何の話?」
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。
るるかはそんな俺の反応には構わず、マシュタンを抱き上げながら淡々と続ける。
「ここにマコトジュエルはなかったみたい。行こう、マシュタン」
「えっ……そ、そうね」
マシュタンは少しだけ俺の方を振り返ったが、すぐにるるかの腕の中に収まった。
るるかは俺に背を向けると静かに歩き出す。
その背中は、相変わらず感情を読ませないまっすぐなものだった。
「……ありがとう」
俺が小さく呟くと、彼女は振り返らなかった。
でも、その歩みがほんのわずかに緩んだように見えた。
しばらくすると、警察が到着した。
おそらく、るるかが連絡してくれたのだろう。
赤いランプを回したパトカーが廃工場の前に横付けされる。
制服の警官たちが物々しい足取りで中へ入り、気絶している黒マントの男たちを連行していく。
俺は警官の一人に事情を説明した。
怪物やキュアアルカナ・シャドウのことは伏せておいた。
前回の事件の時と同じように、警察は俺の話を淡々と受け流すだけだった。
夜空を見上げる。
雲の切れ間から星がいくつか瞬いていた。
るるかの姿は、もうどこにも見えなかった。
けれど、その星の光が、どうしようもなく彼女を思い出させた。
胸の奥が、少しだけ熱くなるのだった。