(明智ハル視点)
俺は一人、公園のベンチに座っていた。
午後の陽射しが木々の隙間からこぼれ落ちて、歩道にまだらな光の模様を描いている。
噴水の音が遠くに聞こえて、子供たちの歓声がそれに混ざっていた。
手の中にあるのは、あんなとみくるが用意してくれた携帯電話だ。
この間の子供誘拐事件の後、二人は俺にも連絡手段が必要だと判断したらしい。
「今回は仕方ないから許すけど……次に何かあったら一人で行動する前に、絶対に私かあんなに連絡すること!!」
「そうだよ!!帰ってくるのが遅くて、すっごく心配したんだから……もう絶対に一人で無茶しちゃダメだからね!!」
みくるとあんな、二人に真剣な顔で言われたことを思い出す。
二人には、もう心配をかけたくない……。
そう思いながら携帯の画面を開くと、登録されている連絡先はたったの三件だけだった。
明智あんな
小林みくる
ジェット先輩
指で画面をゆっくりとスクロールする。
他には何もない。
当たり前だ。
俺にはこの三人以外に、連絡先を交換するような相手がいないのだから。
「……友達、か」
頭の中でその言葉を転がしてみる。
記憶を失う前の俺に友達がいたのかどうか、それすらわからない。
だが、少なくとも今の俺にはこの三人以外に「連絡を取り合う相手」が存在しない。
もっと増やしたい……そんな気持ちが湧き上がってくる。
別に孤独が嫌なわけじゃない。
事務所での生活は充実しているし、あんなとみくるがいてくれるだけで毎日は十分に楽しい。
それでも、自分の携帯の画面がこの三件だけで埋まっているのを見ると、どこか胸の奥が空いたような気がした。
(やはり必要なのは……友達か……)
考え込むように空を見上げる。
白い雲がゆっくりと流れていく。
友達と呼べる相手……俺は誰を思い浮かべるだろう?
頭の中に、ふと一人の少女の顔が浮かんだ。
白い肌。
どこか冷たいクールな目つき。
感情を読ませない淡々とした口調。
そして、去り際に残した「絶対に許さない」という震える声。
(……いや、ないな)
俺は小さく首を振って、その顔を頭の中から追い出した。
あれは友達ではない。
むしろ、俺のことを恨んでいる相手だ。
携帯の連絡先に入れるなんて、あり得ない。
そう結論づけたところで、俺は携帯をポケットにしまった。
これ以上画面を見つめていても、連絡先が勝手に増えるわけではない。
「きゃあああっ!!」
遠くで悲鳴が聞こえた。
俺は反射的に立ち上がっていた。
音の方向を素早く特定する。
公園の外れ、商店街の裏手に続く細い路地の方角だ。
耳を澄ませば、何かが壁にぶつかる鈍い音も聞こえる。
俺は全速力で走り出した。
ベンチから路地までは百メートルほど。
路地に飛び込むと、すぐにその光景が目に入った。
くれあさんが壁際に追い詰められていた。
両側から男が二人。
またナンパか……と一瞬思ったが、その考えはすぐに吹き飛んだ。
くれあさんの顔は、恐怖で完全に引きつっていた。
水色のワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、肩が強張っている。
唇がかすかに震えているのに、声は一言も出なかった。
いつも穏やかで芯の強い彼女が見せるには、あまりにも異様な怯え方だった。
そして、男たちの顔を見た瞬間、俺は思わず足を止めた。
ぬらぬらと鈍く光る緑がかった灰色の皮膚。
それは不気味な鱗で覆われていた。
首筋には絶えず開閉する肉厚のエラがあり、せわしなく空気を吸い込んでいる。
異様に大きな眼は濁った黄色で、まぶたがない。
決して瞬きをしない。
その目が、じっとくれあさんを見つめていた。
よく見ると、手の指の間には水かきが張りつめるように広がっていた。
それは……完全に魚だった。
人の形をした、魚が二人。
無言で、彼らは徐々にくれあさんへと近づいていく。
一歩。
また一歩。
その動きはゆっくりで、まるで獲物をじらすかのようだった。
魚の口がわずかに開き、その奥にびっしりと並んだ細かい牙が見えた。
くれあさんは恐怖のあまり、その場に動けなくなっているようだった。
声を出すことすらできず、ただ涙だけが頬を伝っている。
俺は迷わず駆け出した。
魚の顔をした男たちは俺の接近に気づいていない。
その醜悪な顔は、くれあさんだけを見据えていた。
「くれあさん、伏せて!!」
叫ぶと同時に、俺は地面を強く蹴った。
魚の顔をした男の一人がようやくこちらに気づいて振り返る。
濁った黄色の目が鈍く光ったが、もう遅い。
俺の右足が、その魚面の横っ面を捉えていた。
「はあっ!!」
鈍い音とともに魚男の体が路地の壁に激突する。
魚男はそのまま崩れ落ちて動かなくなった。
もう一人が水かきのついた手を俺に向けて振り回してくる。
その動きは人間よりもずっと速く、滑るように速かった。
だが、俺の拳の方がもっと速かった。
カウンター気味に放った右ストレートが、魚面の中央――エラの下あたりを正確に打ち抜く。
鈍い感触が拳に伝わるが、構わず体重を乗せて押し込んだ。
魚男は二、三歩後ずさりし、そのまま膝から崩れ落ちる。
(あれ……思ったより、弱い?)
皮膚は鱗に覆われて固いはずなのに、内側は驚くほど柔らかかった。
以前戦ったカルト教団の怪物たちの方がよほど手強かった。
だが、安堵する暇はなかった。
「ハルくん……後ろ!!」
くれあさんの掠れた声がした。
振り返ると、路地の奥から新たな影が次々と現れていた。
前にも後ろにも、魚男たちが包囲するように立っている。
一人、二人、三人……いや、もっとだ。
ぬらぬらと光る魚の顔が路地の両端からじわじわと迫ってくる。
まるで、最初からこの路地は奴らの狩り場だったかのように。
「くそっ……」
俺は急いでくれあさんの傍に駆け寄る。
彼女は壁にもたれたまま、まだ立てずにいる。
顔色は青白く、膝が小さく震えているのがわかった。
「くれあさん、立てるか?」
「ごめん……足が、震えて……うまく立てない」
腰が抜けてしまっているのだろう。
恐怖で体が硬直し、言うことを聞かないらしい。
俺は即座に判断した。
「ごめん、くれあさん!!」
そう告げると俺はくれあさんの背中と膝の裏に腕を回し、一気に抱き上げた。
「えっ……!?」
くれあさんが小さく悲鳴のような声をあげる。
腕の中の体は驚くほど軽く、そして温かかった。
水色のワンピースの布地が、俺の腕にそっと触れた。
「ハ、ハルくん!? お、お姫様抱っこ……!?」
「今から走るから、舌を噛んだら困る。口を閉じててくれ」
俺はそれだけ言うと、後ろも振り返らずに走り出した。
路地の前方にも魚男たちが現れる。
ぬらぬらと光る鱗が、行く手を塞ぐように広がっていく。
だが、俺は脚を緩めない。
「大丈夫、くれあさんは俺が絶対に守るから」
腕の中の体が、びくりと小さく震えた。
「……うん」
小さな、けれど確かな返事が返ってきた。
前方の魚男たちが水かきのついた手を広げて立ちはだかる。
その数は五体──逃げ場はないと思わせるには十分だった。
だが、俺には彼女を守るというたった一つの目的がある。
「っ!!」
地面を蹴る。
腕の中のくれあさんをしっかりと抱え直し、さらに加速する。
魚男たちの濁った目が驚きに見開かれた。
そのまま、俺は跳んだ。
一番手前の魚男の頭を足裏で正確に踏みつける。
ぐにゃりと歪む感触が伝わるが、構わずそれを踏み台にした。
踏みつけた反動を利用して、魚男たちの頭上へと跳び上がる。
そのまま包囲網を越え、一直線に前方へ抜けた。
「はあぁっ!!」
着地の衝撃を膝で受け流し、そのまま走り続ける。
背後で魚男たちが振り返る気配がしたが、もう追いつけない。
俺の脚は奴らよりもずっと速い。
路地を抜け、大通りに出る。
人の気配と光のある方へ。
腕の中のくれあさんは、俺の首にそっと手を回し、ぎゅっとしがみついていた。
その体温だけが、やけに鮮明に感じられた。
大通りに出て、ようやく足を止めた。
振り返っても魚男たちは追ってこない。
人通りの多い歩道に出たことで、さすがに人目を避けたのだろう。
俺は腕の中のくれあさんをそっと降ろした。
彼女の足が地面につくと、まだふらついているのがわかった。
すぐ近くにちょうど空いたベンチがあったので、そこまで支えながら歩いて座らせる。
「少し、ここで休んでいてくれ」
くれあさんは小さくうなずいた。
まだ顔色が青白く、唇も乾いている。
俺はポケットから携帯を取り出して、みくるの番号を呼び出した。
コールは二回で繋がった。
「ハルくん? どうしたの?」
みくるの落ち着いた声が耳に届く。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少し緩んだ。
「みくる、今大丈夫か。事件に巻き込まれた。帆羽くれあさんが、人間じゃない何かに襲われたんだ」
『えっ……人間じゃない?』
「魚の顔をした人型の怪物だ。鱗があって、エラがあって水かきのついた手をしていた。俺が追い払ったけど、数は五体以上いた。場所は商店街裏手の路地から大通りに出たところ」
電話の向こうで、みくるが息を呑む気配がした。
すぐにペンを走らせる音が聞こえてくる。
彼女は推理ノートにメモを取っているのだろう。
『わかった。ハルくん、今の場所から一番近いファミレスってわかる?』
「ああ、大通り沿いにファミリーレストランの看板が見える」
『そこに避難して、私たちもすぐに向かうから。ハルくんはくれあさんを守ってあげて……絶対に一人にしないで』
「わかった。気をつけて来てくれ」
『うん。すぐ行くから、待っててね』
電話を切り、くれあさんの隣にそっと腰を下ろした。
「くれあさん、大丈夫?」
俺がそう声をかけると、くれあさんはゆっくりと顔を上げた。
まだ瞳の奥には怯えの色が残っているが、さっきまでの硬直した表情は少しずつ和らぎ始めている。
深呼吸を一つして、彼女はようやく口を開いた。
「ハルくん……本当にありがとう。助けてくれて」
「俺は当然のことをしただけだ」
俺がそう答えると、くれあさんは小さく首を振った。
「当然のことなんかじゃないよ。あんなに怖かったのに……ハルくんが来てくれなかったら、私どうなってたかわからない。本当に……本当にありがとう」
その声はまだ少し掠れていたが、確かな温もりが込められていた。
礼を言いながら、くれあさんはそっと自分の頬に手を当てた。
その頬は、なぜかうっすらと赤く染まっている。
恐怖の名残にしては妙に赤くて、俺は少しだけ目を逸らした。
「えっと……ここからファミレスまで、歩けそう?」
俺がそう尋ねると、くれあさんは「うん、大丈夫」と言いながら立ち上がろうとした。
だが、膝がまだ震えているのか、ふらついてベンチの背もたれに手をついてしまう。
恐怖が完全に抜けきっていないのだろう。
あれだけの魚男たちに囲まれれば無理もない。
俺は立ち上がると、くれあさんの前に手を差し出した。
「くれあさん、手を」
「え……?」
くれあさんは一瞬、目を丸くした。
「手を握っていれば、少しは安心できると思うんだ」
俺の言葉を聞いたくれあさんは、しばらく俺の手を見つめていた。
それから、ほんの少しだけ迷うように視線を揺らして――そっと、自分の手を重ねてきた。
彼女の手は、冷たかった。
さっきまで恐怖に晒されていたからだろう。
指先がかすかに震えていた。
俺はその手を、しっかりと握り返した。
「俺が一緒にいるから大丈夫。何があっても俺がくれあさんを守るよ」
俺がそう言うと、くれあさんの手の震えがすっと止まった。
彼女は俺の手の温もりを確かめるように、指にそっと力を込めてくる。
「……なんだか不思議だね」
くれあさんは、ぽつりと呟いた。
「ハルくんに手を握ってもらったら、なんだか……怖くなくなっちゃった」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ恥ずかしそうに笑った。
その笑顔は、さっきまでの恐怖で引きつった顔とはまるで違う。
いつもの穏やかで、それでいてどこかあどけない、くれあさんらしい笑顔だった。
「あの……ハルくん」
くれあさんが、上目遣いで俺を見てくる。
耳の先まで、ほんのりと赤い。
「このまま……ファミレスまで連れて行ってほしいな。手、繋いだままで……」
その声は、いつもの落ち着いた調子ではなく、どこか甘えるような響きだった。
普段の彼女からは想像もできないその声音に、俺は一瞬だけ面食らった。
でも、すぐに「もちろん」と答えた。
「行こう、くれあさん」
俺は彼女の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
くれあさんは俺の半歩後ろを、ぴったりとついてくる。
その歩調は、さっきまで震えていたのが嘘のようにしっかりとしていた。
大通りは夕方の買い物客で賑わっている。
すれ違う人々が、手を繋いだ俺たちをちらりと見ていく。
だが、俺は気にしなかった。
くれあさんも、気にしていないようだった。
ファミレスの自動ドアをくぐると、暖かい空気とコーヒーの香りが迎えてくれた。
店員に二人分の席を頼み、窓際のテーブルに案内される。
くれあさんを先に座らせて、俺も向かい側に腰を下ろした。
繋いでいた手は、席に着くときに自然と離れた。
その瞬間、くれあさんの指先がほんの少しだけ名残惜しそうに俺の手をなぞった気がしたが、気のせいだろう。
「ホットコーヒーを二つお願いします」
俺が注文を済ませると、くれあさんは肩の力がようやく抜けたのか、深く息を吐き出した。
「本当に……今日はありがとう。ハルくんに助けてもらうのは、これで二度目だね」
「気にしないでくれ。それより、あの魚男に見覚えは? 何か心当たりとか?」
俺がそう尋ねると、くれあさんは首を横に振った。
「まったくないの。ただ……パティスリーチュチュの帰り道に、急に現れて。最初は普通の男の人だと思ったんだけど、よく見たら顔が……」
そこまで言って、くれあさんはぶるりと肩を震わせた。
「大丈夫だよ、あんなとみくるもすぐ来るから」
「……うん」
やがて店員がコーヒーを運んできた。
くれあさんはカップを両手で包み込むように持った。
まだ少し指先が冷えているのだろう。
湯気の向こうで、彼女はゆっくりと深呼吸をしてから顔を上げた。
「ねえ、ハルくん。今日のお礼、何かさせてほしいの。食べたいものとか、あったら言って。なんでも奢るよ」
その言葉に、俺の頭の中に一瞬だけ鮮明な映像が浮かんだ。
ふわふわのハンバーグ、とろとろのオムライス……。
ファミレスのメニューを開けば、ちょうどそのページが目に入るかもしれない。
だが、俺はメニューを手に取る前に、もう一度くれあさんの顔を見た。
まだ少し青白さの残る顔。
けれどその瞳は、俺の返事を待って真っ直ぐに向けられている。
お礼をしたいという気持ちが本物だということは、よくわかった。
「くれあさん……食べ物じゃなくて、いいだろうか?」
俺が本当に欲しいものは、ハンバーグでもオムライスでもない。
「うん? 何が欲しいの?」
くれあさんは小首をかしげた。
その仕草は、普段の落ち着いた雰囲気からは少しだけ外れていて、年相応の可愛らしさがあった。
「友達になってほしい」
俺は静かにそう言った。
くれあさんは、きょとんとした顔をした。
まんまるに見開かれた瞳が、しばらく俺の顔を見つめている。
まるで今の言葉の意味を、頭の中で何度も繰り返しているようだった。
「えっ、友達?」
「ああ……」
俺はポケットから携帯を取り出して、画面をくれあさんの方へ向けた。
「この携帯、連絡先が三人しかないんだ。あんなとみくると、ジェット先輩だけ。前から思ってたんだが……これだけだと、なんだか寂しくて」
自分で言っていて、少しだけ照れくさくなった。
友達が欲しいなんて、気恥ずかしいことを言っている自覚はある。
でも、嘘は言いたくなかった。
「だから、くれあさんがよければ俺の友達になってくれないか」
俺の言葉を聞いたくれあさんは、しばらくぽかんとしたまま固まっていた。
それから、ふっと表情を緩めてくすくすと笑い始めた。
「ふふっ……なにそれ。ハルくんって、そういうこと言うんだ」
「変だったか?」
「ううん、変じゃないよ。むしろ……すごく嬉しい」
くれあさんはそう言うと、自分の小さなハンドバッグから携帯を取り出した。
水色のストラップがついた、彼女らしい可愛らしい携帯だった。
「じゃあ、私の番号、登録していいよ。ハルくんの携帯見せて」
俺は慣れない手つきで、くれあさんの携帯から自分の携帯に番号を打ち込んでいく。
キーの位置を何度も確認しながら、ゆっくりと親指を動かす。
画面の光が、夕方のファミレスの薄暗がりの中でやけに眩しく感じられた。
登録が完了して、俺は画面をくれあさんに見せた。
「これで……大丈夫だろうか?」
「うん。ちゃんと登録できてるよ。……これで私たち、友達だね」
くれあさんは、そう言って嬉しそうに笑った。
その笑顔は、さっきまでの恐怖の名残を完全に払拭するような、明るく優しいものだった。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じる。
「何かあったら、俺に連絡してくれ。魚男の件もあるし、また危ない目に遭うかもしれないから」
俺がそう言うと、くれあさんは一瞬だけ目を丸くして、それからいたずらっぽく微笑んだ。
「ありがとう。でも……何か、ないと……連絡しちゃダメなの?」
その言葉に、俺は一瞬、返事が喉につかえた。
(何か、ないと……?)
つまり、用事がなくても連絡していいのか、という意味だろう。
それは……友達としては、むしろ自然なことかもしれない。
でも、くれあさんがそう言った瞬間の表情が、どこか甘えるような試すような、そんな色を帯びていた気がして俺の心臓が小さく跳ねた。
「……別に、そういうわけじゃない。ただ俺の方からは、あまり頻繁に連絡できるか、わからないから」
俺がそう言いかけると、くれあさんはふふっと小さく笑って、手をひらひらと振った。
「冗談だよ。ハルくんが忙しいのはちゃんと知ってるから。それに、迷惑をかけるようなことはしないよ、私はハルくんよりも年上のお姉さんなんだから」
くれあさんの笑顔は、いつもの落ち着いたお姉さんの表情に戻っていた。
でも、その目がほんの少しだけ、いたずらっぽく細められていたのを俺は見逃さなかった。
(……なんだか、調子が狂うな)
そんなことを考えていると、ファミレスの自動ドアが開いて聞き慣れた二つの足音が、急ぎ足で近づいてきた。
「ハルくん!! くれあさん!!」
「お待たせしました。二人とも、無事でよかった」
あんなとみくるが、息を切らしながら俺たちのテーブルに駆け寄ってくる。
あんなは俺の隣に、みくるはくれあさんの隣にそれぞれ腰を下ろした。
「くれあさん、詳しい話を聞かせてください。魚の顔をした男たちのこと」
みくるはすぐに推理ノートを取り出して、ペンを構えた。
くれあさんはさっき俺に話してくれたのと同じ内容を、今度はみくるに向かって丁寧に話し始めた。
パティスリーチュチュの帰り道に突然現れたこと。
最初は普通の人間だと思ったこと。
顔が魚だったこと。
無言で近づいてきたこと。
「ありがとうございます。とても参考になりました」
みくるは話を聞き終えるとノートにびっしりとメモを書き込んで、真剣な表情でくれあさんを見た。
「くれあさん、今回の件が解決するまで、できるだけ人通りの少ない道は通らないでください。特に夕方以降は気をつけて」
「そうだよ!! もしまた何かあったら、すぐに私たちに連絡して。絶対に無理しないで!!」
あんなも力強くそう言って、くれあさんの手を握った。
くれあさんは二人の真剣な様子に少し驚いたように目を丸くしていたが、すぐに柔らかく微笑んでうなずいた。
「うん、ありがとう。そうするね」
「じゃあ、みんなで一緒に帰ろう。くれあさん、歩けそう?」
そう声をかけると、くれあさんは小さくうなずいた。
あんなとみくるも立ち上がり、俺たちは四人で並んでファミレスを後にした。
ファミレスを出る頃には、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
だが、一つ角を曲がって住宅街に入ると途端に人通りは少なくなる。
街灯がぽつりぽつりと灯り始めたばかりの薄暗い歩道を、四人分の足音が、静かな住宅街に重なって響いていく。
「ねえ、ハルくん」
くれあさんが、小さな声で俺に話しかけてきた。
「さっきの……友達の話だけど」
「ああ」
「私、ハルくんのそういうところいいと思うな。まっすぐで、素直で」
くれあさんは、前を向いたまま静かにそう言った。
その声は、さっきファミレスで聞いたものよりもずっと柔らかくて、優しかった。
「……そうだろうか」
「うん。そういうのって、なかなか言えないよ。特に……男の子は」
「えっ、そうなのか?」
「そうだよ。ふふっ」
くれあさんは、小さく笑った。
その笑い声が、夕暮れの住宅街に静かに溶けていく。
なんだか、さっきの「何か、ないと連絡しちゃダメなの?」という言葉よりも、こっちの方がずっと俺の心に響いた。
(……これが、友達、か)
そう思うと、なんだか少しだけ嬉しかった。
そんな穏やかな空気は、突然の光景によって一瞬で打ち破られた。
住宅街の小さな公園の前を通りかかったとき、あんなが足を止めた。
「……なに、あれ?」
あんなの声は、かすかに震えていた。
公園の入り口、街灯の下。
そこに、人が倒れていた。
一人ではない。
二人、三人、四人……いや、もっとだ。
歩道という歩道に、何体もの人影がまるで壊れた人形のように横たわっている。
「あれって……」
みくるが、息を呑む。
俺は、すぐにわかった。
あの独特の輪郭。
ぬらぬらと湿った光を放つ肌。
倒れているのはすべて、魚の顔をした男たちだった。
「なんで……こんなところに」
俺は一歩前に出た。
あんなとみくるも、素早く俺の左右に並ぶ。
くれあさんは俺たちの後ろで、また顔色を失っていた。
魚男たちは、もう動かなかった。
ただ、そこら中に倒れているだけだ。
だが、その数はさっき路地で見たものよりもはるかに多い。
十体は下らない。
いや、それ以上かもしれない。
その中心、歩道の真ん中に一人の黒マントの男が立っていた。
「失敗作だったか……やはり神子でなければ……」
男の声が、俺の耳に届いた。
それは、今まで俺たちが戦ってきた黒マントの男たちとは、まったく違う種類の声だった。
もっと低くて、もっと冷たくて……人間の声というより、何か別のものが喋っているような響きだった。
あの狂信的な熱も、おどけた軽薄さもない。
ただ、淡々と事実を確認するだけの事務的な響き。
「おまえは何者だ?」
俺がそう問いかけると、男はゆっくりとこちらを振り返った。
フードの奥は暗くて、よく見えない。
「君たちか……ん?……おまえは……誰だ?」
男の顔は隠れて見えないが、その視線は俺に向けられている気がする。
「まあいい……些細なことだ」
男はそう言って一人で納得する。
「おい、俺の質問に答えろ」
「ふっ……私が何者か……君たちが探偵なら自分で考えたらどうだ?」
その声は明らかに俺たちのことを見下しているように聞こえた。
「世界を滅ぼすのは『神子』か『邪神』か『恐怖の大王』か……それとも、まったく別の『何か』か。期待してるよ、名探偵」
その言葉が終わると同時に倒れていた魚男たちの体が、一斉に黒い霧となって消え始めた。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように……あっという間に、夜の空気に溶けていく。
「待てっ!!」
俺が駆け出そうとした瞬間、黒マントの男の姿もふっと消えた。
煙のように、音もなく、気配もなく──ただ跡形もなく消えた。
「……消えた?」
あんなが、呆然と呟く。
「なに、今の……あの魚たちも、あの男も……」
みくるは、素早く周囲を見回したが、もうどこにも誰もいない。
公園の前の歩道には街灯の光と、夜風に揺れる木々の影だけが残されている。
「ハルくん……今の男の人、なんだか変だったね。世界を滅ぼすのはどうとか……今までの黒マントの人たちと感じが違った」
「ああ、俺もそう思った」
あんなの言葉に、俺は静かにうなずいた。
あの男の声には、今までの教団の連中のような狂気も焦りもなかった。
むしろ、もっと遠くの……もっと大きなものを見ているような──そんな余裕すら感じられた。
「とりあえず、警察に連絡しよう。魚の顔をした怪物たちのことは……説明は難しいけど、あの黒マントの男が何かしたのは確かだと思う」
みくるの提案で俺たちは警察に通報した。
だが、警官が到着したときには、やはりというべきか魚男たちの痕跡は何も残っていなかった。
地面には、ほんの少しの水溜まりと、生臭い匂いだけが残っていた。
警官たちは、それを「誰かが魚を捨てていったんだろう」と片付けてしまった。
その日、俺たちはくれあさんを家まで送り届けた。
彼女は、別れ際に、俺の方をちらりと見て小さく手を振ってくれた。
その手には、さっき俺が握ったときの温もりがまだ残っている気がした。
それから一週間が経った。
あの魚男たちがくれあさんの前に現れることは、二度となかった。
街で魚の顔をした人間を見たという噂も聞かない。
まるであの日の出来事が、最初からなかったかのようだ。
事件は、解決したのかもしれない。
少なくとも、くれあさんが危険な目に遭うことはもうないだろう。
だが、俺の胸の中にはあの黒マントの男の言葉が、ずっと引っかかっていた。
『世界を滅ぼすのは「神子」か「邪神」か「恐怖の大王」か……それともまったく別の「何か」か……期待してるよ名探偵』
あの男は、何を知っているのだろう。
魚男たちは、本当にもういないのだろうか。
それとも、もっと別の何かがこの街のどこかで、まだ蠢いているのだろうか。
携帯の画面を開くと、連絡先が四件に増えていた。
「明智あんな」「小林みくる」「ジェット先輩」、そして「帆羽くれあ」。
四人目の名前を見るたびに、あの夕暮れのファミレスのことと、くれあさんの「何か、ないと連絡しちゃダメなの?」という言葉が、頭の中をよぎる。
そして、なぜだか少しだけ胸の奥が温かくなるのだった。
だが、その温かさの裏で、あの黒マントの男の冷たい声がまだ消えずにいた。
事件は終わったかもしれない。
でも──謎はまだ何一つ解けていなかった。