(明智ハル視点)
あれから一週間……。
俺はキュアット探偵事務所の助手として働くことになった。
今日も朝から、俺は事務所の掃除をする。
床を箒で掃きながらふと手を止めて窓の外を眺める。
まことみらい市の空は今日もよく晴れていて、道行く人々の笑い声が遠くに聞こえていた。
「よし、次は棚の上だな」
俺は手を伸ばして、高い位置にある本棚の埃を丁寧に拭き取っていく。
こうした細かい作業は性に合っているようだ。
掃除が終わると、今度は一階にあるプリティホリックの店舗へと降りていく。
コスメショップの品出しも俺の仕事のひとつだった。
「このリップはここで、フレグランスはこっちの棚か」
商品の配置を覚えるのも早かった。
みくるが作ってくれた棚の配置図のメモを見ながら、ひとつひとつ丁寧に並べていく。
こうして誰かの役に立てているという実感が、記憶を失った俺にとっては何よりもありがたいことだった。
一段落ついて二階の事務所に戻ると、あんながキッチンから顔を出して満面の笑みで手を振ってきた。
「ハルくん、お疲れ様!!一緒におやつ食べようよ。今日はね、パティスリーチュチュの新作ケーキを買ってきたんだよ。ストロベリーチョコ味でね、クリームたっぷりで、すごく美味しそうなんだ!!」
「それは楽しみだな。ちょうど小腹が空いてたところだよ」
テーブルには三人分のケーキと温かい紅茶が用意されていた。
あんなは早く食べたくてうずうずしている様子で、みくるはそんなあんなを微笑ましく見つめながらカップを並べている。
「ハルくん、紅茶はストレートでいい? ミルクも砂糖もあるけど」
「ストレートで頼むよ。みくるの入れてくれる紅茶は、そのまま飲むのが一番美味しいからな」
「もう、ハルくんはすぐそういうこと言うんだから」
みくるは照れながらも嬉しそうにティーポットを傾けてくれた。
湯気とともに立ち上るアールグレイの香りが、事務所の中にふわりと広がっていく。
三人で席に着き、フォークを手に取る。
ふわふわの生地に甘酸っぱいイチゴ、そして濃厚なチョコクリームの味が口の中に広がり、幸せな気持ちが広がっていった。
「んーっ、やっぱりチュチュのケーキは最高だね!!ハルくんはどう? 口に合う?」
「ああ、すごく美味しいよ。甘すぎなくてイチゴの酸味がちょうどいいバランスだ」
「本当だね。パティスリーチュチュのスイーツはいつも絶妙な味加減で、何度食べても飽きないんだよね」
俺たちが談笑しながらケーキを頬張っていると、あんなが少しだけ真面目な顔をして紅茶のカップを置いた。
「ねえハルくん、ここでの生活にはもう慣れた?何か困ってることとかない?」
「そうだよ。ちゃんと寝れてる? 夜中に目が覚めたりしてない? 遠慮しないでなんでも言ってほしいな」
あんなとみくるが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
ここ一週間毎日のように同じ質問をされているけれど、それは決して疑っているからではなく、純粋に俺のことを気遣ってくれているからだとわかっていた。
「二人とも、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
俺はケーキを一口食べてから、穏やかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「ここでの生活にはもうすっかり慣れたし、掃除も品出しもやりがいがある。夜もちゃんと寝られているし食事も美味しいものばかりだ。記憶がないのは不安だけど、二人がいてくれるから不思議と落ち着いていられるんだ」
「ハルくん……」
あんなの目がじんわりと潤んで、みくるも安心したようにそっと微笑んだ。
俺はそんな二人の顔を見て、言葉にできない感謝の気持ちが胸の奥で静かに温かく灯った。
「ところでハルくんって、耳がすごくいいよね。前の事件の時も倉庫の中にいる子供の泣き声に気づいていたし」
「遠くの音とか小さな物音にもすぐ気づくよね。もしかして特技だったりするのかな?」
あんながケーキをほおばりながら、好奇心いっぱいの目で俺に問いかけてくる。
確かに言われてみれば、自分でも不思議なくらい耳がいい自覚はあった。
森の中で二人を見つけられたのも、遠くから聞こえる声を頼りに走ったからだ。
「自分でもよくわからないんだが、遠くの物音とか話し声が妙にはっきり聞こえるんだ」
俺がそう答えると、みくるが紅茶を一口飲んでから真剣な表情で口を開いた。
「それって探偵の助手としてはすごく役立つ能力だよね。聞き込みの時とか周囲の警戒にも使えるし」
「そうそう!!ハルくんがいてくれたら、今まで気づかなかった手がかりも見つかるかもね。はなまるだよ!!」
あんなが嬉しそうに拍手をしながら言うものだから俺は少し照れてしまって紅茶で口元を隠す。
そんな他愛のない話で盛り上がっていると、事務所のドアが控えめにノックされた。
コンコンという小さな音に俺の耳が自然と反応する。
「はーい、ただいま開けますね」
みくるが立ち上がりドアを開ける。
そこに立っていたのは五十代くらいの女性だった。
少しふっくらとした体型で、優しそうな丸い顔立ちをしているけれど今はその目が真っ赤に泣き腫らされていた。
手には犬のリードをぎゅっと握りしめていて、肩は小刻みに震えている。
「あの、こちらがキュアット探偵事務所で合っていますか。突然すみません、どうしてもお願いしたいことがあって」
女性の声はかすれていて今にもまた泣き出してしまいそうなほど不安定に揺れている。
あんなはすぐに立ち上がると、女性をソファへと優しく案内した。
「大丈夫ですよ、ゆっくりでいいのでお話を聞かせてください。何があったんですか?」
みくるが温かい紅茶を差し出すと、女性はそれを受け取って一口すすり深呼吸をしてからようやく話し始めた。
「私の飼っているラッキーという犬が、昨日の夕方からいなくなってしまったんです。もう十歳になる老犬で……ラッキーは夫が亡くなった時、ずっとそばにいてくれた子なんです」
女性の手がリードをぎゅっと握りしめる。
そのリードにはもう、繋がれるべき存在がいない。
彼女がどれだけラッキーを大切に思っているかが痛いほど伝わってきて、俺の胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「警察にも連絡したんですが、犬の捜索まではしてくれないようで……。それで、近所の方からこちらの探偵事務所は色々な相談に乗ってくれると聞いて、藁にもすがる思いで参りました」
あんなは女性の手をそっと両手で包み込むと、真っ直ぐにその目を見つめて力強くうなずいた。
その仕草には迷いが一切なくて、見ているこっちまで勇気をもらえるような強さがあった。
「よく来てくれました。ラッキーちゃん、絶対に見つけ出しましょう。私とみくると、それから助手のハルくんも一緒に探すから、安心してください!!」
「ええ、私たちにお任せください。まずはラッキーちゃんの特徴と最後に目撃された場所を詳しく教えていただけますか?」
みくるがすかさずメモ帳を取り出してペンを構える。
俺も彼女たちの隣に立ち、依頼人の話に耳を傾けた。
これが、俺にとってキュアット探偵事務所の助手として迎える初めての正式な依頼だった。
依頼人の女性から話を聞き終えた俺たちは、さっそくラッキーが最後に目撃されたという公園へと向かった。
住宅街の一角にある小さな公園で、ブランコと滑り台それから古びたベンチが二つ並んでいるだけの静かな場所だ。
夕方には近所の子供たちが集まってくるのだろうけれど、今はまだ昼下がりで人の姿はまばらだった。
「ラッキーはこの公園のベンチのそばで、リードを外した途端に走り出して見失ったそうです。小型犬だから、あまり遠くには行っていないと思うんだけど」
みくるがメモを見ながらそう説明する。
あんなは手をかざして公園全体を見回しながら、眉をひそめて考え込んでいた。
「うーん、でも昨日からずっと見つかってないってことは、どこかに閉じ込められちゃってるのかな。それとも誰かが保護してくれてるとか」
俺は二人の会話を聞きながら、静かに目を閉じて意識を耳に集中させた。
あんなとみくるの声、遠くで遊ぶ子供たちの笑い声、風に揺れる木々のざわめき。
それらの音の層をひとつひとつ丁寧に剥がしていくと、風の音に紛れて、草むらの方からかすかに震えるような鳴き声が混じって聞こえた。
俺はゆっくりと目を開けると、公園の隅にある茂みの方へと歩き出した。
足元の草をかき分けながら慎重に進んでいくと、背の高い雑草に覆われた場所で立ち止まる。
「ハルくん、どうしたの? 何かあった?」
後ろからあんなが駆け寄ってきて、不思議そうに俺の顔を覗き込む。
みくるも小走りで近づいてきて俺が見つめている茂みをじっと観察した。
「声が聞こえるんだ。とても小さな声だけど……犬の鳴き声だと思う」
俺がそう説明するとあんなとみくるは顔を見合わせてから、すぐに茂みの中を探り始めた。
あんなが雑草をかき分け、みくるがその奥を慎重に覗き込む。
「あっ、こんな所に穴がある!!」
あんなの声に駆け寄ると茂みの奥に深い穴がぽっかりと口を開けていた。
しかもかなり深い。
底の方からは、かすかにクンクンという弱々しい鳴き声が聞こえてくる。
「ラッキーだ!! きっとここに落ちちゃったんだね」
「でも、こんな穴、前はなかったはずだよ。誰かが掘ったのかな?」
みくるの言葉に、俺は掘られた穴を観察する。
いたずらにしてはあまりにも深すぎるし、罠だったとしてもこの場所は不自然だ。
穴の内側には、細い筋が何本も走っている。
まるで何かが地中をうねりながら押し広げたような跡で、土の表面はところどころ湿って黒く光っていた。
人の手で掘られた穴とは明らかに違う“生き物の通った痕跡”めいた気配が、微かに残っている。
なんだか嫌な予感が胸をよぎった。
けれど今はとにかく犬を助け出すことが先決だ。
「俺が穴に入って助け出すよ。二人は上から周囲を警戒していてくれ」
「でもハルくん、危なくない?この穴すごく深いし崩れたりしたら」
あんなが心配そうに俺の腕を掴む。
その手は少し震えていたけれど、俺は安心させるように穏やかな笑みを浮かべる。
「心配するな、体を動かすのは得意なんだ。それに、助けを待っている命があるんだから、放っておくわけにはいかないだろ」
俺は穴の縁に手をかけ、ゆっくりと体を滑り込ませていった。
慎重に降りていくと、底の方で小さな影が震えているのが見えた。
茶色と白のまだら模様の小型犬が泥だらけになってうずくまっている。
「ラッキー、大丈夫だ。もう怖くないからな」
俺はできるだけ優しい声で話しかけながら、そっと両手を差し伸べた。
ラッキーは最初こそ警戒して小さく唸ったけれど、俺の手のひらの温もりに触れると安心したように体を預けてきてくれた。
俺はラッキーを胸に抱きかかえ、慎重に穴を登り始める。
「ハルくん、ロープを垂らすよ!!」
上からみくるの声がして、太めのロープが下りてきた。
近くの工事現場から借りてきたのだろう、みくるの機転の良さには感心させられる。
「助かるよ、ありがとう」
俺はラッキーを片腕でしっかりと抱えたまま、もう一方の手でロープを掴んだ。
あんなとみくるが力を合わせて引っ張り上げてくれる。
地上に顔を出した瞬間、まぶしい日差しとともに二人の笑顔が飛び込んできた。
「やった!!無事だね、ラッキーちゃん!!」
あんながぴょんぴょん跳ねながら喜びを爆発させている。
みくるもほっと胸をなでおろしながら、ラッキーの体についた泥をハンカチで拭いてやっていた。
俺たちは公園を後にして、依頼人の家へと急いだ。
インターホンを押すと女性は飛ぶように玄関から出てきて、俺の腕の中にいるラッキーを見た瞬間その場に崩れ落ちそうになった。
「ラッキー!! ああ、本当によかった、無事でよかったあ!!」
女性はラッキーを抱きしめて、子どものようにわんわんと泣き出した。
ラッキーもまた飼い主の顔をぺろぺろと舐めながらしっぽを千切れんばかりに振っている。
その姿を見ているうちに、俺の胸の奥がじんわりと熱くなった。
何かがつかえたような、それでいて心地よい感覚が広がっていく。
「本当にありがとうございます、なんてお礼を言えばいいのかしら。探偵さんに頼んで本当によかった」
「ラッキーちゃんが無事で本当によかったです」
あんながそう言って笑うとみくるも静かにうなずいた。俺もまた、言葉にはできなかったけれど同じ気持ちだった。
「ハルくん、どうしたの? なんだかぼーっとしてるけど」
あんなが首をかしげて俺の顔をのぞき込んでくる。
俺は自分がどんな表情をしているのかわからなかったけれど、自然と口元が緩んでいるのを感じた。
「いや、なんだか不思議な気持ちだなと思って。誰かの役に立てることがこんなにも嬉しいものなんだな」
俺が正直な気持ちを伝えるとあんなは、ぱあっと顔を輝かせて、俺の手をぎゅっと握ってきた。
「それってすごく大事なことだよ!! ハルくんはちゃんと、誰かのためにがんばれる人なんだね。はなまるだよ!」
「あんなの言う通りよ。ハルくんは今日、立派に探偵助手として仕事を果たしたんだから」
みくるもにっこりと微笑んでくれる。
ラッキーを抱きしめて泣き続ける依頼人の姿を見つめながら、俺は胸に手を当ててそっと深呼吸をした。
自分が何者かはまだわからない。
過去も記憶もないままだけれど、こうして誰かのために動いて誰かの笑顔を作れるのなら、それはきっと意味のあることだと思えた。