(明智ハル視点)
翌朝、早起きして事務所のリビングに行くと、みくるが一人でソファに座っていた。
手には、温かいココア。
湯気がゆらゆらと揺れている。
「おはよう、ハルくん」
みくるは、いつもの落ち着いた声でそう言った。
でも、その目の奥に、ほんの少しだけ疲れが滲んでいる気がした。
「みくる。昨日のことなんだけど……」
みくるは、ココアのカップをそっと置いて、俺の方を向いた。
「……あんなと、付き合うことになった」
その瞬間、みくるのまつげがわずかに震えた。
ほんの一瞬だけ、息を呑むような沈黙が落ちる。
「そっか」
みくるは、すぐにいつもの表情に戻った。
落ち着いていて、強くて、優しい顔。
「よかったね。あんな、ずっとハルくんのこと大事に思ってたから」
声は穏やかだった。
でも、その穏やかさの奥に、かすかな揺れがあった。
俺は、みくるの目を見た。
「みくる……昨日、背中を押してくれてありがとう」
みくるは、ふっと微笑んだ。
その笑顔は優しくて、だけど少しだけ寂しそうに見えた。
「ううん。あんなが幸せなら、それでいいんだよ。ハルくんが幸せなら、なおさらね」
みくるはココアのカップを持ち直しながら、ほんの少しだけ視線を落とした。
「だから、ハルくん。あんなのこと、ちゃんと幸せにしてあげて」
その声は少しだけ震えていた。
「もちろんだ」
俺は、深くうなずいた。
「……よし。じゃあ、今日も一日がんばろっか」
その言葉は、いつものみくるの声だった。
しばらくして、あんなが事務所のリビングにやってくる。
「お、おはよう……ハルくん」
声が、ほんの少しだけ高い。
そして、俺の方を見たあと、慌てて視線をそらす。
「おはよう、あんな」
いつも通りの朝のはずなのに、どこかそわそわしているように見える。
「え、えっと……昨日のこと、夢じゃないよね?」
「ああ、夢じゃない。昨日のことは全部本当だ」
そう言うと、あんなは顔を真っ赤にして「そっか~……えへへ」と嬉しそうに笑った。
その笑顔は、昨日の夜の涙が嘘だったかのように明るくて、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
俺もつられて笑みを返した。
朝食を済ませ、あんなとみくるが学校へ行く支度を整えるのを、俺はリビングのソファから眺めていた。
「じゃあ、行ってくるね、ハルくん」
あんなは玄関で振り返り、小さく手を振った。
その仕草が、ほんの少しだけぎこちない。
付き合い始めたばかりの照れだろうか。
みくるはそんなあんなの隣で、いつも通りの落ち着いた表情で「行ってきます」と言って、静かに頭を下げた。
「ああ、行ってらっしゃい。気をつけてな」
二人の背中がドアの向こうに消えると、事務所の中はしんと静かになった。
俺は、いつものようにプリティホリックの手伝いに向かった。
手際よく商品を仕分けし、棚に並べていく。
手を動かしながら、頭の片隅では別のことを考えている。
(恋人、か……)
昨日、あんなに「俺と付き合ってくれ」と言ったのは、紛れもない本心だった。
あんなの涙を見て、いてもたってもいられなくなって……気づいたら抱き寄せていた。
あの時の決断に後悔はない。
だが、具体的に何をするべきなのか。
恋人として、俺はこれからどうすればいいのか。
仕事を終えて昼過ぎに事務所へ戻ると、特に急ぎの依頼もなかった。
俺は掃除機をかけ、窓を拭き、書類を整理する。
普段なら何も考えずにこなせる雑用も、今日はどこか上の空だった。
掃除を終えてソファに腰を下ろすと、静かな部屋の中で、昨日の自分の言葉が頭の中で繰り返される。
「あんなにも後悔はさせない。俺と付き合ってよかったって、二人で一緒にいてよかったって……絶対に思わせてみせる」
そう宣言したのはいい。
だが、具体的な行動は何も決めていなかった。
恋人といえば……やはりデートだろうか。
世間一般の恋人たちは、休日にどこかへ出かけたり、食事をしたりするものだと聞く。
みくるが貸してくれた恋愛小説や、あんなから借りた漫画に、そんな場面がいくつかあった。
主人公が相手を公園に誘い、一緒に歩きながらアイスを食べる。
単純だが、そういう積み重ねが大切なのだと書いてあった気がする。
だが、どこへ行けばあんなは喜んでくれるだろうか。
頭の中であんなの好きなものを思い浮かべてみる。
甘いもの、パフェ、ケーキ、特にブルーベリータルト。
だけど、俺はパティスリーチュチュのような店をほとんど知らない。
遊園地や水族館も、小説や漫画にはよく出てくるが、この街にあるのかどうかさえわからない。
記憶喪失の身では、この街をどれだけ理解しているのかも怪しいものだった。
(これじゃあ、彼氏失格だな……)
小さくため息をつく。
窓の外では、午後の陽射しが柔らかく街を照らしている。
散歩がてら、デートスポットを探してみるのも手かもしれない。
その時、ふと頭の中にみくるの言葉がよぎった。
『ハルくんにしか話せないこと、あるんじゃないかな』
みくるは、そう言って俺の背中を押してくれた。
その結果、あんなと付き合うことになった。
ならば今度も、誰かに相談するのが正しいのかもしれない。
相談するとしたら、みくるかくれあさんの二人だ。
だけど……この件を二人に相談するのは違う気がする。
はっきりと理由は説明することはできないが、それはやめたほうがいいと俺の直感が言っている。
(ならば、誰に聞くでもなく……自分で決めるしかない)
だが、その「自分で決める」ための材料が、俺にはあまりにも少なすぎる。
俺は、自分の携帯を取り出し、連絡先を眺めた。
四人の名前が並んでいる。
あんな、みくる、ジェット先輩、くれあさん。
いや、待て。
一番正確な情報を持っているのは誰か……。
それは、あんな自身だ。
彼女が何を好きで、何をしたいと思っているのか。
俺が憶測を重ねるよりも、本人に聞くのが一番確実だ。
(そうだ。難しく考える必要はない)
素直に話そう。
あんななら、きっと相談に乗ってくれるはずだ。
それが、彼氏としての正しい第一歩なのかどうかはわからない。
だけど……昨日の夜にみくるが教えてくれたように、本当のことをちゃんと話すことが大切なのだと思う。
夕方、学校からあんなが帰ってくる。
制服のまま、冷蔵庫から麦茶を取り出している。
その背中に声をかける。
「あんな、少し話があるんだ」
あんなは、振り返って麦茶を持ったまま小首をかしげた。
「うん、なに?」
「ちょっと外を歩かないか。二人で話したいことがあるんだ」
「散歩? いいよ。ちょっと待ってて、着替えてくるね」
あんなは麦茶を冷蔵庫に戻すと、ぱたぱたと階段を上がっていった。
事務所を出ると、夕方の風が頬を撫でた。
俺たちは並んでいつもの公園へと歩き出した。
隣を歩くあんなとの距離は手が触れそうで触れない、微妙な距離だった。
彼氏として手を繋ぐべきなんだろうか?
いや、それよりもまずはやるべきことがある。
公園に着くと、噴水広場のベンチに並んで座った。
夕陽が噴水の水をオレンジ色に染めている。
「えーと……あんな」
「うん」
あんなは俺の方を見て、静かに返事をした。
その目はまっすぐで、少しだけ緊張しているようにも見える。
「俺、実は昨日からずっと考えてたんだ。付き合うって決めたのはいいけど……具体的に何をすればいいのか、よくわからなくて」
「え?」
「恋人として、何をするべきなのか。デートとかそういうのはわかるんだが、何をすればあんなが喜んでくれるのか、どこに連れて行けばいいのか……」
俺は少しだけ言葉を探す。
「俺は記憶喪失で、この街のこともよく知らないし、恋愛の経験もない。だから……正直、どうしていいかわからないんだ」
あんなは、しばらく黙って俺の言葉を聞いていた。
それから、ふっと小さく笑った。
「それ、私も同じだよ」
「えっ?……あんなも?」
「うん……私だって、付き合うのは初めてだよ。漫画とかドラマで見たことはあっても、実際にどうすればいいかなんて、わかんない」
あんなは、少しだけ照れくさそうにスカートの裾をいじりながらそう言った。
その言葉に、俺はなんだか急に肩の力が抜けた。
「そうか……あんなも同じなんだな」
「うん。だから、ハルくんだけがわからないとか、そういうのじゃないんだよ。二人で一緒に考えていけばいいんだよ」
あんなは、そう言って、俺の顔を覗き込むように笑った。
その表情はいつもの明るさに満ちていた。
でもその奥に、ほんの少しだけ大人びた優しさが混ざっている気がした。
「じゃあ、まずは……あんなの行きたい場所とか、やりたいことを教えてくれないか」
「私の?」
「ああ。俺が勝手に考えて、的外れなことをするより、あんなが何をしたいか聞いた方が確実だと思うんだ」
あんなは、少しだけ考え込むように視線を噴水の方へ向けた。
夕陽が、彼女の横顔を照らしている。
「行きたい場所……たくさんあるよ」
あんなは、ゆっくりと話し始めた。
「水族館とか、遊園地とか、動物園とか映画館とか……あと、一緒にパフェを食べたり、美味しいものもいっぱい食べたいな。チュチュみたいなスイーツのお店に行くのもいいし、商店街のたい焼き屋さんに行くのもいいかも」
あんなは、指を折りながら次々と行きたい場所を挙げていく。
その顔は、さっきまでの照れが嘘みたいに、わくわくとした輝きに満ちていた。
「あとね、この前テレビで見たんだけど、駅の近くに新しいクレープ屋さんができたらしいの。それも行ってみたいし、それから……」
「そんなにたくさんあるのか」
「うん。だって、ハルくんと一緒に行きたい場所ずっと考えてたんだもん」
あんなは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「それで、ハルくんは? ハルくんの行きたい場所は?」
「俺の?」
「うん。私だけじゃなくて、ハルくんの行きたいところに私も行きたいんだ」
あんなは、まっすぐに俺を見てそう言った。
俺は少しだけ考えて、それから正直な気持ちを口にした。
「俺は……あんなと一緒に、この街のいろんな場所に行きたい」
「この街?」
「ああ。俺は記憶喪失で、この街のことをよく知らないんだ。でもあんなと一緒なら、この街のことをもっと知りたいと思える。この公園も、商店街も駅の向こう側も……あんなと一緒に歩いて、一緒に見て、一緒に知っていきたいんだ」
あんなは、しばらく黙って俺の言葉を聞いていた。
それから、ゆっくりとほんの少しだけ目を細めた。
「それ、すごくいいね」
「そうか?」
「うん。だって、それって、ハルくんが私と一緒にいたいって思ってくれてるってことだよね」
「……まあ、そうなるな」
「えへへ、嬉しいな」
あんなは、そう言って、ベンチの上で小さく体を揺らした。
その仕草が、なんだか子供みたいで可愛らしかった。
それから、俺たちは日が沈むまでずっと話し続けた。
行きたい場所の話。
やりたいことの話。
あんなが好きな食べ物の話。
俺が興味を持ち始めた絵に関する話。
図書館で見つけた本の話。
話題は尽きなくて、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。
「あ、もうこんな時間」
あんなが、携帯で時間を確認して少しだけ慌てたように立ち上がった。
「そろそろ帰らないと、みくるが心配する」
「そうだな」
俺は、立ち上がって二人で公園を後にする。
帰り道も、さっきと同じ手が触れそうで触れない距離だった。
でも、行きとは違って、その距離がなんだか心地よかった。
事務所の前に着くとあんなは玄関のドアに手をかけて、それからくるりと俺の方を振り返った。
「ハルくん、今日は話してくれてありがとう」
「俺の方こそ、聞いてくれてありがとう」
「うん。あのね、ハルくん」
「なんだ?」
「これからも、たくさん話そうね。行きたい場所もやりたいことも、二人で決めていこう」
あんなは、そう言って、にっこりと笑った。
その笑顔は夕闇の中でも、はっきりと見えた。
「ああ、そうだな」
俺がうなずくと、あんなは満足そうにドアを開けて中に入っていった。
「おかえりなさい、二人とも」
リビングからみくるの落ち着いた声が聞こえた。
「「ただいま」」
俺とあんなは、揃ってそう答えた。
それから顔を見合わせて、少しだけ笑った。
今日は、まだ手も繋がなかった。
でも、あんなとたくさんの話ができた。
今はそれだけで十分だった。
明日は、何の話をしようか。
そんなことを考えながら、俺は自分の部屋へと向かった。
胸の奥が静かに温かかった。