カオスの狂気と銀の意志   作:やみすぴ

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03:今はそれだけで十分だった

(明智ハル視点)

 

翌朝、早起きして事務所のリビングに行くと、みくるが一人でソファに座っていた。

 

手には、温かいココア。

湯気がゆらゆらと揺れている。

 

「おはよう、ハルくん」

 

みくるは、いつもの落ち着いた声でそう言った。

でも、その目の奥に、ほんの少しだけ疲れが滲んでいる気がした。

 

「みくる。昨日のことなんだけど……」

 

みくるは、ココアのカップをそっと置いて、俺の方を向いた。

 

「……あんなと、付き合うことになった」

 

その瞬間、みくるのまつげがわずかに震えた。

ほんの一瞬だけ、息を呑むような沈黙が落ちる。

 

「そっか」

 

みくるは、すぐにいつもの表情に戻った。

落ち着いていて、強くて、優しい顔。

 

「よかったね。あんな、ずっとハルくんのこと大事に思ってたから」

 

声は穏やかだった。

でも、その穏やかさの奥に、かすかな揺れがあった。

 

俺は、みくるの目を見た。

 

「みくる……昨日、背中を押してくれてありがとう」

 

みくるは、ふっと微笑んだ。

その笑顔は優しくて、だけど少しだけ寂しそうに見えた。

 

「ううん。あんなが幸せなら、それでいいんだよ。ハルくんが幸せなら、なおさらね」

 

みくるはココアのカップを持ち直しながら、ほんの少しだけ視線を落とした。

 

「だから、ハルくん。あんなのこと、ちゃんと幸せにしてあげて」

 

その声は少しだけ震えていた。

 

「もちろんだ」

 

俺は、深くうなずいた。

 

「……よし。じゃあ、今日も一日がんばろっか」

 

その言葉は、いつものみくるの声だった。

 

 

しばらくして、あんなが事務所のリビングにやってくる。

 

「お、おはよう……ハルくん」

 

声が、ほんの少しだけ高い。

そして、俺の方を見たあと、慌てて視線をそらす。

 

「おはよう、あんな」

 

いつも通りの朝のはずなのに、どこかそわそわしているように見える。

 

「え、えっと……昨日のこと、夢じゃないよね?」

 

「ああ、夢じゃない。昨日のことは全部本当だ」

 

そう言うと、あんなは顔を真っ赤にして「そっか~……えへへ」と嬉しそうに笑った。

その笑顔は、昨日の夜の涙が嘘だったかのように明るくて、朝の光を受けてきらきらと輝いている。

俺もつられて笑みを返した。

 

朝食を済ませ、あんなとみくるが学校へ行く支度を整えるのを、俺はリビングのソファから眺めていた。

 

「じゃあ、行ってくるね、ハルくん」

 

あんなは玄関で振り返り、小さく手を振った。

その仕草が、ほんの少しだけぎこちない。

付き合い始めたばかりの照れだろうか。

 

みくるはそんなあんなの隣で、いつも通りの落ち着いた表情で「行ってきます」と言って、静かに頭を下げた。

 

「ああ、行ってらっしゃい。気をつけてな」

 

二人の背中がドアの向こうに消えると、事務所の中はしんと静かになった。

 

俺は、いつものようにプリティホリックの手伝いに向かった。

 

手際よく商品を仕分けし、棚に並べていく。

手を動かしながら、頭の片隅では別のことを考えている。

 

(恋人、か……)

 

昨日、あんなに「俺と付き合ってくれ」と言ったのは、紛れもない本心だった。

あんなの涙を見て、いてもたってもいられなくなって……気づいたら抱き寄せていた。

 

あの時の決断に後悔はない。

 

だが、具体的に何をするべきなのか。

恋人として、俺はこれからどうすればいいのか。

 

仕事を終えて昼過ぎに事務所へ戻ると、特に急ぎの依頼もなかった。

 

俺は掃除機をかけ、窓を拭き、書類を整理する。

普段なら何も考えずにこなせる雑用も、今日はどこか上の空だった。

 

掃除を終えてソファに腰を下ろすと、静かな部屋の中で、昨日の自分の言葉が頭の中で繰り返される。

 

「あんなにも後悔はさせない。俺と付き合ってよかったって、二人で一緒にいてよかったって……絶対に思わせてみせる」

 

そう宣言したのはいい。

だが、具体的な行動は何も決めていなかった。

 

恋人といえば……やはりデートだろうか。

世間一般の恋人たちは、休日にどこかへ出かけたり、食事をしたりするものだと聞く。

 

みくるが貸してくれた恋愛小説や、あんなから借りた漫画に、そんな場面がいくつかあった。

 

主人公が相手を公園に誘い、一緒に歩きながらアイスを食べる。

単純だが、そういう積み重ねが大切なのだと書いてあった気がする。

 

だが、どこへ行けばあんなは喜んでくれるだろうか。

 

頭の中であんなの好きなものを思い浮かべてみる。

 

甘いもの、パフェ、ケーキ、特にブルーベリータルト。

 

だけど、俺はパティスリーチュチュのような店をほとんど知らない。

遊園地や水族館も、小説や漫画にはよく出てくるが、この街にあるのかどうかさえわからない。

 

記憶喪失の身では、この街をどれだけ理解しているのかも怪しいものだった。

 

(これじゃあ、彼氏失格だな……)

 

小さくため息をつく。

 

窓の外では、午後の陽射しが柔らかく街を照らしている。

散歩がてら、デートスポットを探してみるのも手かもしれない。

 

その時、ふと頭の中にみくるの言葉がよぎった。

 

『ハルくんにしか話せないこと、あるんじゃないかな』

 

みくるは、そう言って俺の背中を押してくれた。

その結果、あんなと付き合うことになった。

 

ならば今度も、誰かに相談するのが正しいのかもしれない。

 

相談するとしたら、みくるかくれあさんの二人だ。

だけど……この件を二人に相談するのは違う気がする。

 

はっきりと理由は説明することはできないが、それはやめたほうがいいと俺の直感が言っている。

 

(ならば、誰に聞くでもなく……自分で決めるしかない)

 

だが、その「自分で決める」ための材料が、俺にはあまりにも少なすぎる。

 

俺は、自分の携帯を取り出し、連絡先を眺めた。

四人の名前が並んでいる。

 

あんな、みくる、ジェット先輩、くれあさん。

 

いや、待て。

一番正確な情報を持っているのは誰か……。

 

それは、あんな自身だ。

 

彼女が何を好きで、何をしたいと思っているのか。

俺が憶測を重ねるよりも、本人に聞くのが一番確実だ。

 

(そうだ。難しく考える必要はない)

 

素直に話そう。

あんななら、きっと相談に乗ってくれるはずだ。

 

それが、彼氏としての正しい第一歩なのかどうかはわからない。

だけど……昨日の夜にみくるが教えてくれたように、本当のことをちゃんと話すことが大切なのだと思う。

 

 

夕方、学校からあんなが帰ってくる。

 

制服のまま、冷蔵庫から麦茶を取り出している。

その背中に声をかける。

 

「あんな、少し話があるんだ」

 

あんなは、振り返って麦茶を持ったまま小首をかしげた。

 

「うん、なに?」

 

「ちょっと外を歩かないか。二人で話したいことがあるんだ」

 

「散歩? いいよ。ちょっと待ってて、着替えてくるね」

 

あんなは麦茶を冷蔵庫に戻すと、ぱたぱたと階段を上がっていった。

 

事務所を出ると、夕方の風が頬を撫でた。

俺たちは並んでいつもの公園へと歩き出した。

 

隣を歩くあんなとの距離は手が触れそうで触れない、微妙な距離だった。

 

彼氏として手を繋ぐべきなんだろうか?

 

いや、それよりもまずはやるべきことがある。

 

公園に着くと、噴水広場のベンチに並んで座った。

夕陽が噴水の水をオレンジ色に染めている。

 

「えーと……あんな」

 

「うん」

 

あんなは俺の方を見て、静かに返事をした。

その目はまっすぐで、少しだけ緊張しているようにも見える。

 

「俺、実は昨日からずっと考えてたんだ。付き合うって決めたのはいいけど……具体的に何をすればいいのか、よくわからなくて」

 

「え?」

 

「恋人として、何をするべきなのか。デートとかそういうのはわかるんだが、何をすればあんなが喜んでくれるのか、どこに連れて行けばいいのか……」

 

俺は少しだけ言葉を探す。

 

「俺は記憶喪失で、この街のこともよく知らないし、恋愛の経験もない。だから……正直、どうしていいかわからないんだ」

 

あんなは、しばらく黙って俺の言葉を聞いていた。

それから、ふっと小さく笑った。

 

「それ、私も同じだよ」

 

「えっ?……あんなも?」

 

「うん……私だって、付き合うのは初めてだよ。漫画とかドラマで見たことはあっても、実際にどうすればいいかなんて、わかんない」

 

あんなは、少しだけ照れくさそうにスカートの裾をいじりながらそう言った。

その言葉に、俺はなんだか急に肩の力が抜けた。

 

「そうか……あんなも同じなんだな」

 

「うん。だから、ハルくんだけがわからないとか、そういうのじゃないんだよ。二人で一緒に考えていけばいいんだよ」

 

あんなは、そう言って、俺の顔を覗き込むように笑った。

その表情はいつもの明るさに満ちていた。

でもその奥に、ほんの少しだけ大人びた優しさが混ざっている気がした。

 

「じゃあ、まずは……あんなの行きたい場所とか、やりたいことを教えてくれないか」

 

「私の?」

 

「ああ。俺が勝手に考えて、的外れなことをするより、あんなが何をしたいか聞いた方が確実だと思うんだ」

 

あんなは、少しだけ考え込むように視線を噴水の方へ向けた。

夕陽が、彼女の横顔を照らしている。

 

「行きたい場所……たくさんあるよ」

 

あんなは、ゆっくりと話し始めた。

 

「水族館とか、遊園地とか、動物園とか映画館とか……あと、一緒にパフェを食べたり、美味しいものもいっぱい食べたいな。チュチュみたいなスイーツのお店に行くのもいいし、商店街のたい焼き屋さんに行くのもいいかも」

 

あんなは、指を折りながら次々と行きたい場所を挙げていく。

その顔は、さっきまでの照れが嘘みたいに、わくわくとした輝きに満ちていた。

 

「あとね、この前テレビで見たんだけど、駅の近くに新しいクレープ屋さんができたらしいの。それも行ってみたいし、それから……」

 

「そんなにたくさんあるのか」

 

「うん。だって、ハルくんと一緒に行きたい場所ずっと考えてたんだもん」

 

あんなは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。

その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

「それで、ハルくんは? ハルくんの行きたい場所は?」

 

「俺の?」

 

「うん。私だけじゃなくて、ハルくんの行きたいところに私も行きたいんだ」

 

あんなは、まっすぐに俺を見てそう言った。

俺は少しだけ考えて、それから正直な気持ちを口にした。

 

「俺は……あんなと一緒に、この街のいろんな場所に行きたい」

 

「この街?」

 

「ああ。俺は記憶喪失で、この街のことをよく知らないんだ。でもあんなと一緒なら、この街のことをもっと知りたいと思える。この公園も、商店街も駅の向こう側も……あんなと一緒に歩いて、一緒に見て、一緒に知っていきたいんだ」

 

あんなは、しばらく黙って俺の言葉を聞いていた。

それから、ゆっくりとほんの少しだけ目を細めた。

 

「それ、すごくいいね」

 

「そうか?」

 

「うん。だって、それって、ハルくんが私と一緒にいたいって思ってくれてるってことだよね」

 

「……まあ、そうなるな」

 

「えへへ、嬉しいな」

 

あんなは、そう言って、ベンチの上で小さく体を揺らした。

その仕草が、なんだか子供みたいで可愛らしかった。

 

それから、俺たちは日が沈むまでずっと話し続けた。

 

行きたい場所の話。

 

やりたいことの話。

 

あんなが好きな食べ物の話。

 

俺が興味を持ち始めた絵に関する話。

 

図書館で見つけた本の話。

 

話題は尽きなくて、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。

 

「あ、もうこんな時間」

 

あんなが、携帯で時間を確認して少しだけ慌てたように立ち上がった。

 

「そろそろ帰らないと、みくるが心配する」

 

「そうだな」

 

俺は、立ち上がって二人で公園を後にする。

 

帰り道も、さっきと同じ手が触れそうで触れない距離だった。

でも、行きとは違って、その距離がなんだか心地よかった。

 

事務所の前に着くとあんなは玄関のドアに手をかけて、それからくるりと俺の方を振り返った。

 

「ハルくん、今日は話してくれてありがとう」

 

「俺の方こそ、聞いてくれてありがとう」

 

「うん。あのね、ハルくん」

 

「なんだ?」

 

「これからも、たくさん話そうね。行きたい場所もやりたいことも、二人で決めていこう」

 

あんなは、そう言って、にっこりと笑った。

その笑顔は夕闇の中でも、はっきりと見えた。

 

「ああ、そうだな」

 

俺がうなずくと、あんなは満足そうにドアを開けて中に入っていった。

 

「おかえりなさい、二人とも」

 

リビングからみくるの落ち着いた声が聞こえた。

 

「「ただいま」」

 

俺とあんなは、揃ってそう答えた。

それから顔を見合わせて、少しだけ笑った。

 

今日は、まだ手も繋がなかった。

でも、あんなとたくさんの話ができた。

 

今はそれだけで十分だった。

 

明日は、何の話をしようか。

 

そんなことを考えながら、俺は自分の部屋へと向かった。

胸の奥が静かに温かかった。

 

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