(明智ハル視点)
休日の午後、俺とあんなは駅前の映画館に来ていた。
平日の昼間ということもあって、ロビーは思っていたよりも空いている。
ポップコーンの甘い匂いがふわりと漂い、壁一面に貼られた映画ポスターが色鮮やかに並んでいた。
「ハルくん、何見る?」
あんなはポスターの前で首を傾げながら俺に尋ねた。
「俺はなんでもいいけど……あんなは何が見たいんだ?」
「えっとね、私これがいいな」
あんなが指差したのは、今話題の恋愛映画だった。
綺麗な花畑を背景に、男女が寄り添うポスター。
キャッチコピーには『運命の恋が、今始まる』と書かれている。
「恋愛映画か……」
なんというか……大人向けな感じがする。
「でも、俺はこういうのもありだと思うんだ」
俺が指差したのは、向かい側のポスターだった。
『江戸川少年の事件簿 最後の推理』
俺が知っている探偵漫画のアニメ映画版だ。
推理ものとしてはなかなか本格派で俺も何度か読んだことがある。
「確かにおもしろそうだけど……デートなんだから、恋愛映画のほうがいいよ」
あんなは少しだけ頬を膨らませて、そう言った。
その仕草が可愛らしくて、俺はそれ以上反論する気にはなれなかった。
「……わかった。じゃあ、恋愛映画にしよう」
「うん!!」
あんなは、ぱっと顔を輝かせてチケット売り場へと歩いていく。
その足取りは弾んでいて、スカートの裾がふわりと揺れていた。
チケットを買って、売店でポップコーンとジュースを買う。
あんなは「キャラメル味がいい」と言い、俺は塩味を選んだ。
二人で並んで席に向かう間も、あんなは嬉しそうにずっと笑っていた。
席は真ん中の方で、スクリーンが見やすい位置だった。
予告編がいくつか流れた後、本編が始まる。
恋愛映画は、思っていたよりも面白かった。
主人公の女性が、仕事に疲れて故郷に帰り幼馴染の男性と再会する。
そこから始まる、ゆっくりとした恋の物語。
派手な展開はないけれど、二人の距離が少しずつ縮まっていく様子が丁寧に描かれていて、見ていて心地よかった。
(こっちを見て正解だったな)
俺は密かにそう思っていた。
隣のあんなも、真剣な表情でスクリーンを見つめている。
時折、小さく笑ったり、ハンカチで目元を拭ったりしている。
その横顔を見るたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
物語は中盤に差し掛かり、主人公たちはついに互いの気持ちを確かめ合う。
主人公の男女が見つめ合う。
主人公の男性が、そっと女性の頬に手を添えた。
音楽が静かに流れる。
そして――
画面は二人がベッドで抱き合うシーンに切り替わった。
「——っ」
隣から、息を呑む気配がした。
あんなの方を見ると……。
あんなは、画面を見たまま完全に硬直していた。
顔は真っ赤で耳まで熟したトマトのように染まっている。
両手はぎゅっと膝の上で握りしめられ、まるで石像のように微動だにしない。
「……あんな、大丈夫か?」
俺が小さく声をかけると、あんなはびくりと肩を震わせた。
だが、まだ画面から目を離せないでいる。
やがて、そのシーンが終わり物語は再び穏やかな流れに戻った。
あんなもようやく肩の力を抜いたが、それでも顔の赤みはなかなか引かなかった。
映画が終わり、エンドロールが流れる。
照明が明るくなり観客たちがぞろぞろと席を立つ中、あんなはまだ座ったままだった。
「あんな、終わったぞ」
「……うん」
あんなは小さく返事をして、ゆっくりと立ち上がった。
その顔はまだ少し赤い。
シアターから廊下に出ると、あんなはぽつりと呟いた。
「……やっぱり、アニメ映画のほうにすればよかった」
「え?」
「だって……ああいうシーンがあるなんて、思わなかったんだもん」
あんなは俯いて、スカートの裾をいじりながら言う。
その声は、なんだか消え入りそうだった。
「私、恋愛映画って、もっとこう……手を繋いだり、キスしたりするくらいだと思ってたのに……まさか……」
そこで言葉が止まる。
「まあ……そういう映画もあるからな」
俺は正直にそう答えた。
実際、俺もあのシーンには驚いた。
デートで見るには、少し刺激が強い映画だったと思う。
「ハルくんの言う通り、探偵ものにすればよかった。そっちのほうが、ハルくんも楽しめたよね」
あんなは、しょんぼりと肩を落としている。
その姿を見て、俺は自然と手を伸ばしていた。
「あんな」
「……なに?」
俺は、あんなの頭にそっと手を置いた。
そのまま、ゆっくりと髪を撫でる。
「俺は、あんなと一緒に映画を見られただけで十分楽しかったよ」
「でも……」
「それに、映画自体は面白かった。あのシーンがあってもなくても、俺はあの話が好きだ」
あんなは、ゆっくりと顔を上げた。
まだ少し赤い顔で、俺を見つめている。
「ほんと?」
「ああ。それに……ああいうシーンで照れてるあんなも、可愛かったしな」
「っ!!」
あんなの顔が、一瞬で真っ赤になった。
さっきまで引いていた赤みが、また一気に戻ってくる。
「も、もう!! ハルくんのバカバカ!!」
あんなは俺の胸をぽかぽかと叩いてきた。
その力は全然痛くなくて、むしろくすぐったい。
俺はされるがままに小さく笑った。
「ごめん、でも本当のことだから」
「うう……ハルくんは、たまにすごく意地悪になる」
あんなはそう言いながらも、その口元は少しだけ緩んでいた。
まだ照れているけれど、さっきまでの落ち込みはもう消えているようだった。
その時、離れた別のシアターの扉から、見覚えのある人物が出てくるのが見えた。
長い黒髪、銀縁のメガネ、背筋を伸ばした品のある立ち姿。
トゥルピスだった。
彼女は俺たちに気づいていないようで、手に持った小さなパンフレットを眺めながら、そのまま出口へと歩いていった。
その表情は、いつもの人を小馬鹿にした笑みではなく、なんだか少しだけ満足そうで……それでいて、どこか寂しそうにも見えた。
「今の人……」
あんなも気づいたようで、俺の袖を掴んで小声で言う。
「ああ、トゥルピスだ。でも俺たちには気づいていないみたいだな」
「どうする? 追いかける?」
あんなの問いに、俺は少しだけ考えた。
今のトゥルピスを捕まえたところで、何かが解決するとは思えない。
それに……さっき見た彼女の表情が、妙に頭に残っていた。
「いや、やめておこう。今はあんなとの時間を優先したい」
「……うん」
あんなは、少しだけ安心したように頷いた。
「あっ……でも何の映画を見ていたかは、ちょっと気になるな」
「じゃあ調べてみる?」
俺はトゥルピスが出て来たシアターの番号を確認して、何が上映していたか調べる。
『パン戦士ブレッドマン 勇気の木と悪の帝国』
――パン戦士?
トゥルピスのイメージとまったく合わない子供向けのアニメ映画だった。
どうやらパンをモチーフにした正義のヒーローが、悪の帝国と戦うというシンプルなストーリーのようだ。
本当にトゥルピスがこの映画を見たのだろうか?
いや……邪神教団カオスの神子が、こんな子供向け映画を見ている姿は想像しにくかった。
きっと見間違いか、あるいは別の用事でここに来たのだろう。
「えっ? このパン戦士って……」
「知ってるのか?」
「うん、知ってる!! 子供にめちゃくちゃ人気なんだよ!! 私の時代でも、ずっと続いてるんだからすごいよね!!」
「あんなの時代でも?」
「うん!! パン戦士は、もう何十年も愛されてる国民的ヒーローなんだよ。お腹を空いてる人に自分のパンを食べさせたり、悪を倒すためにパンの力で戦うの。シンプルだけどすごく熱い話なんだ」
あんなは、まるで自分のことのように誇らしげにそう言った。
「だから、トゥルピスが好きでもおかしくないよ。もしかしたら、子供の頃からファンなのかもね」
「……そういうものなのか?」
記憶喪失の俺には、パン戦士がどれだけ偉大なのか正直ピンとこなかった。
だが、あんながそう言うのなら、そうなのかもしれない。
トゥルピスにも子供の頃があって――
もしかしたら、パン戦士を見て育ったのかもしれない。
そう考えると、さっきの彼女の横顔が少しだけ違って見えた。
「まあ、今は深く考えるのはやめておこう」
「そうだね……それじゃあ次の場所に行こっか」
俺とあんなは手を繋ぎ、商店街にある写真屋へと向かった。
「写真、できてるかな?」
「ああ、そろそろ出来上がっているはずだ」
実は映画の前に、この写真屋に使い捨てカメラを預けていたのだ。
商店街で買ったあのカメラには、あんなと付き合うことになってから撮った写真が詰まっている。
写真屋のカウンターで受け取った封筒には、ずっしりとした重みがあった。
「けっこう撮ったね」
あんなが、封筒を覗き込みながら嬉しそうに言う。
「ああ。見るのが楽しみだ」
事務所に戻ると、俺たちは早速あんなの部屋で写真を広げることにした。
ベッドの上に封筒の中身を出すと、色とりどりの写真が次々と現れる。
「わあ……懐かしい」
あんなが、一枚の写真を手に取った。
そこには、商店街のたいやき屋の前でたいやきを頬張るあんなの姿が写っている。
口の端に、あんこが少しだけついている。
あの日、帰り際に撮った写真だ。
「これ、たいやき屋さんのだよね。前にハルくんが撮ってくれたやつ」
「ああ。たいやきを食べるあんながかわいくて、思わず撮ってしまった」
「……私、すごい顔してる」
「そんなことない。かわいいと思う」
俺がそう言うとあんなは「もう」と言いながらも、その写真を大事そうに胸に抱えた。
次の写真は、水族館のトンネル水槽で撮ったものだ。
大きなエイが頭の上を泳いでいて、その下で俺とあんなが並んで立っている。
あんなは俺の肩に手を置いて、少しだけ背伸びをしている。
その表情はとても幸せそうだった。
「この時、ハルくんが写真を撮ろうって言ってくれたんだよね」
「ああ。あの時は、この景色をあんなと一緒に残しておきたいと思ったんだ」
「えへへ……水族館のデート、すごく楽しかったね」
あんなは、しみじみとした口調でそう言った。
写真は、まだ何枚もあった。
公園の噴水の前で撮ったもの、事務所のソファでみくるが映り込んだもの、商店街の看板の前で撮ったもの――
どれも、ささやかな日常の一場面だ。
使い捨てカメラを買ってから、俺は時々こうして何気ない瞬間を撮るようになっていた。
でも、その一枚一枚に、確かな時間が刻まれている。
「ねえ、ハルくん」
あんなが、一枚の写真を手に取って俺に見せた。
それは、トゥルピスに撮ってもらった写真だった。
俺とあんなが並んで立っている、商店街の看板の前での一枚。
「この写真……トゥルピスが撮ってくれたんだよね」
「ああ、そうだな」
「なんだか……不思議だね。あの人に撮ってもらった写真が、今、私たちの大事な思い出の一つになってる」
あんなは、その写真をじっと見つめていた。
その目は、なんだか少しだけ遠くを見ているようだった。
あの時、トゥルピスは確かに俺たちをからかうように写真を撮った。
でも、その写真は、俺とあんなの大切な瞬間をちゃんと写している。
「もしかしたら、トゥルピスは……」
あんながそこまで言いかけて、首を振った。
「ううん、なんでもない。ただこの写真は、これからも大事にしようね」
「ああ……」
俺は、あんなの頭にそっと手を置いた。
そのまま、ゆっくりと髪を撫でる。
「これからも、たくさん写真を撮ろう。あんなとの思い出を、もっともっと残していきたいから」
「……うん」
あんなは、俺の手に頭を預けながら小さく頷いた。
その表情は、さっきまでの照れや後悔ではなく静かな幸せに満ちていた。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
部屋の中に、オレンジ色の光が差し込んで写真の上に柔らかな影を落としていた。
俺は、あんなの頭を撫でながら静かに思う。
今日の映画のことも。
これまで撮った写真のことも。
全部いつか思い出になる。
それでも……今この瞬間だけは、確かな幸せに包まれていた。