(明智ハル視点)
夜の静けさが事務所全体を包み込む中、俺は二階の廊下に立っていた。
手には新品のノートと鉛筆を握りしめている。
みくるの部屋のドアをそっとノックした。
コンコンという控えめな音が、静かな廊下にやけに大きく響く。
「はーい、誰?」
ドアの向こうから聞こえてくるみくるの声はいつも通り落ち着いていて、それでいてどこか柔らかい。
「俺だ、ハルだよ。少し話があって来たんだが、今は大丈夫か?」
ドアが開いてパジャマ姿のみくるが顔をのぞかせる。
髪が肩にさらりとかかっていて、部屋の中からは勉強机のスタンドの灯りが漏れていた。
どうやらまだ起きて本でも読んでいたらしい。
彼女は俺の手に握られたノートと鉛筆を見ると何かを察したように軽くうなずいた。
「ハルくんがこんな時間に私の部屋に来るなんて珍しいね。どうぞ、中に入って。今ちょうど読み終わったところだったから」
部屋の中は相変わらずきちんと片付いていて、本棚にはみくるお気に入りの探偵小説や参考書がぎっしりと並んでいる。
彼女はベッドの端に座ると、手で勉強机の前の椅子を示して俺に座るよう促した。
俺は椅子に腰を下ろして膝の上にノートを置き、それから真正面からみくるの顔を見つめた。
「みくるにお願いがあって来たんだ。俺に勉強を教えてほしい。自分がどこまで理解できているのかもわからないし、せめて最低限の知識は身につけておきたいと思って」
俺の言葉を聞いたみくるは、一瞬息を飲んでから、ふわりと顔全体が花の咲くように明るくなった。
彼女は両手を膝の上でちょんと揃えて、少しだけ身を乗り出してくる。
その瞳には純粋な喜びの光が輝いていて、俺の頼みが彼女にとって嬉しいことなのが、ありありと伝わってきた。
「ハルくんが私を頼ってくれて、すごく嬉しいよ。もちろん喜んで教えるね」
みくるはそう言うと、勉強机の引き出しから教科書や問題集を取り出し始めた。
てきぱきと動きながらも、時折俺の方をちらりと見ては柔らかく微笑む。
そんなみくるの様子を見て、お願いしに来て本当によかったと心から思えた。
「ねえ、ハルくん、どうしてあんなじゃなくて私のところに来たの?」
みくるが教科書をめくりながら何気ない調子でそう尋ねてきた。
俺は少しだけ言葉を選んでから、正直に答えることにした。
「まず、あんなは直感型だから説明が時に飛躍することがある。それにあんなに勉強を頼むと途中で『もうおやつにしようよ』ってなりかねない。逆にみくるは論理的で段階を踏んで教えてくれるし、集中力も高い。性格的に考えても勉強を教わる相手としては、みくるの方が適任だと判断したんだ」
「……ハルくんって、そういうところ本当に冷静だよね」
みくるは苦笑を浮かべながらも、どこか照れたように目尻を下げた。
「今の話、あんなには言わないでおくね」
「そうしてもらえると助かる」
俺たちは小さく笑い合ってから、早速勉強に取りかかることにした。
「じゃあまずは簡単な問題からやってみようか。これは小学校五年生レベルの問題だから、ハルくんがどのくらい解けるかを見せてほしいな」
みくるは国語・算数・理科・社会の問題が一枚ずつ印刷されたプリントを机の上に広げた。
俺は鉛筆を握り直し、まずは国語の問題から取りかかる。
文章を読んで設問に答えるという形式で、読み取りの力が試される内容だったがこれはすんなりと解けた。
次は算数。
分数の計算や図形の面積を求める問題で、これもなぜか手が自然に動いていく。
理科も生き物の分類や簡単な物理の知識を問うもので、ほとんど間違えずに答えを書き込めた。
ところが最後の社会、特に歴史の問題になった途端に、俺の手はぴたりと止まってしまった。
「戦国時代の主な武将を三人答えよ。江戸幕府を開いた人物は……これがまったくわからないんだ」
俺は正直に白旗をあげて、みくるにプリントを差し出した。
みくるはプリントを受け取ると、丹念に答えをチェックしていく。
彼女は国語、算数、理科の欄に目を通すたびに満足そうにうなずいていたが、社会の欄に来たところで少し眉をひそめて、それからふっと優しく息を吐いた。
「なるほどね、国語と算数と理科はほぼ完璧だよ。でも社会、その中でも特に歴史だけがまったく手つかずだったね。暗記が必要な知識がすっぽり抜け落ちている感じがする。もしかしたら記憶喪失と関係があるのかもしれないけど、でもこれはあまり心配しなくていいと思うよ」
「そうなのか?自分でもここまでできないとは思わなくて、正直少し落ち込んでるんだが」
俺がそう打ち明けると、みくるはプリントを机の上に置いてゆっくりと俺の方へ体を向けた。
彼女はまるで大切なことを伝える時のように、目をしっかりと俺に合わせてから言葉を紡ぎ始める。
「知識がないのは記憶がないからで、頭の良さとはまた別の話だからね。ハルくんは教えればすぐに覚えるから学習能力はすごく高いと思うよ。さっきも理科の説明をしたら、すぐに応用問題を解けるようになったし、一度理解したことはちゃんと自分のものにできている。それはすごく大事な能力なんだよ」
みくるの言葉が、胸の奥の空白にそっと触れた気がした。
自分がどれだけ無知なのかを知るのは正直怖かったけれど、彼女は俺のできないことを責めるのではなく、できることに目を向けてくれたのだ。
その優しさが胸の真ん中にすとんと落ちてきて、じんわりと広がっていく。
「ありがとう。みくるにそう言ってもらえると自信が持てるよ。でも、それはみくるの教え方が上手いからだと思うんだ。説明が簡潔でしかも相手のわからないところをちゃんと見つけてくれる。学校の先生よりもずっとわかりやすいよ」
俺が心からそう伝えると、みくるは耳まで赤くして、照れくさそうに前髪を指先でいじり始めた。
彼女はそういうストレートな褒め言葉に慣れていないらしく、視線をあちこちに泳がせてからようやく口を開いた。
「そ、そんなに褒められるとこっちが照れちゃうよ。でもハルくんにそう言ってもらえるなら、教えた甲斐があったかな。えっと……それでね、私からハルくんに一つアドバイスがあるんだ」
みくるはそう前置きしてから立ち上がり本棚の方へと歩いていった。
彼女は背表紙を指先でなぞりながら何冊かを選び取ると、腕に抱えて戻ってきて机の上にそっと積み上げる。
歴史漫画のシリーズや写真が豊富な図鑑、それから読みやすそうな小説が数冊。
どれも初心者の俺でも取っ付きやすそうなものばかりで、彼女が俺のレベルをちゃんと考えて選んでくれたことがよくわかった。
「これからは少しずつ本を読んで知識をつけていくといいと思うよ。勉強は机に向かうだけじゃなくて、いろんな本に触れることで自然と身につくこともたくさんあるから。特に歴史は物語として読むと頭に入りやすいし、図鑑なら視覚的にも覚えやすいんだ」
みくるは選んだ本の表紙を一枚一枚見せながらそれぞれの特徴を丁寧に説明してくれた。
俺は一冊ずつ手に取ってページをめくり、その読みやすさや面白さをじかに確かめていく。
どれもこれもが新鮮で、まるで新しい世界の地図を手渡されたような高揚感があった。
「ありがとう、みくる。これで少しは勉強になりそうだ。でも俺はやっぱりみくるに教えてもらうのが一番わかりやすい。だから、これからも自習は続けるけど、またみくるの時間のある時に勉強を教えてもらってもいいだろうか?」
俺がそう尋ねると、みくるは机の上に広げられた本やプリントをゆっくりと片付けながら、柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
スタンドの灯りが彼女の髪に淡く反射してその表情をいっそう優しく見せている。
「もちろんいいよ。いつでも私を頼ってほしい。ハルくんに教えるの、私もすごく楽しいから。誰かに教えることで自分の勉強にもなるしね」
みくるは机の上を整えながら、ふと手を止めて俺の方へ視線を向けた。
「それに……ハルくんと一緒に勉強する時間って、なんだか落ち着くんだ」
その言葉が静かな夜気の中で俺の胸に染み込んでいく。
「今日は本当にありがとう。みくるのおかげで、勉強に対して前向きになれたよ。次はもっと難しい問題にも挑戦してみたいと思う」
「その意気込み、すごくいいと思うよ。じゃあまた明日から一緒に頑張ろうね。時間はたっぷりあるし少しずつ焦らずに進んでいけば大丈夫だから」
俺は椅子から立ち上がり、ノートと借りた本を抱えて部屋の出口へと向かった。
ドアノブに手をかけたところで、もう一度だけ振り返ってみくるの顔を見る。
彼女は勉強机のスタンドの灯りを消そうと手を伸ばしたまま、俺に向かって小さく手を振ってくれていた。
その姿に俺は胸の奥がふわりと温かくなるのを感じながら、静かにドアを閉めた。