(明智ハル視点)
あんなの部屋のドアが少しだけ開いていた。
隙間から差し込む午後の光が細く廊下に伸びていて、いつもならぴょんぴょん跳ね回っているポチタンの声も今日は聞こえない。
異様に静かな空気に少しだけ胸がざわついて、俺は控えめにドアをノックした。
「あんな、いるか?お茶でもどうかと思って紅茶を淹れてきたんだが」
「ハルくん、いいよ入って」
いつもよりずっと小さな声が返ってきた。
元気いっぱいの彼女にしては珍しく、その声にはいつもの跳ねるような勢いがない。
俺は片手にトレイを抱えてそっとドアを押し開けた。
部屋に入ると、あんなはベッドの上で膝を抱えて座っていた。
制服から着替えた私服姿で薄いピンクのカーディガンを羽織り、膝の上にちょこんと顎を乗せている。
大きな瞳はぼんやりと窓の外を眺めていて、俺が入ってきてもすぐには顔を向けなかった。
ポチタンはあんなの枕元で丸くなって寝息を立てている。
「あんな、どうしたんだ。なんだか元気がないように見えるけど……」
俺はトレイを机の上に置いてからベッドの端に腰を下ろした。
あんなはしばらく黙っていたけれど、やがて観念したように小さく息を吐いてぽつりぽつりと話し始める。
「今日ね、学校で同じクラスの男の子にバカにされちゃったの。私服が小学生みたいで子供っぽいって。別に悪気があったわけじゃないのかもしれないけど、なんだか気になっちゃって……」
あんなの声には、いつもの明るさがすっかり影をひそめていた。
彼女は膝を抱える腕にぎゅっと力を込めてうつむいてしまう。
その細い肩がほんの少しだけ震えているような気がした。
胸がきゅっと締めつけられる思いで、俺は彼女の次の言葉を待った。
「実はね、未来にいたときも同じようなこと言われたことがあるの。あんなは子供っぽいって。その言葉がずっと胸の奥に残ってて、今日また言われて、なんだか全部思い出しちゃったんだ」
あんなが膝に顎を押し付けたまま、自嘲するように小さく笑った。
その笑みがあまりにも痛々しくて、普段あれだけ明るく笑っている彼女が心の奥にこんな棘をしまい込んでいたのかと思うと、胸の奥がぎゅっと軋むようだった。
俺は彼女のその痛みを受け止めたくて、言葉を選ぶ間もなく口を開いていた。
「あんな、俺はお前の服、すごく可愛いと思う」
俺の言葉を聞いた瞬間、あんなの顔がぼっ、と音が出そうなくらい一気に赤く染まった。
さっきまで沈んでいた瞳がまんまるに見開かれて閉じていた口がぱくぱくと開閉を繰り返す。
耳の先までもう真っ赤で、まるで茹で上がった小さなエビみたいだ。
「か、可愛いって……」
「あんなの選ぶ服はいつも優しい色合いで、見ているだけであったかい気持ちになれる。まるで着ている人の人柄がそのまま表れたみたいな服だと思う」
あんなはもう言葉にならない声をあげて両手で顔を覆ってしまった。
指の隙間からは赤くなった頬がはみ出していて、ポチタンがその騒ぎで目を覚まし「ポチッ?」と首をかしげている。
俺は少しだけ笑みを深くしてから、そっと手を伸ばしてあんなの頭に触れた。
あんなの頭を撫でながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
「他の誰が子供っぽいって言っても、そんなことはどうだっていい。俺は今のあんなが素敵だと思っているし、あんながまとっているその優しい雰囲気は、子供っぽさなんかじゃなくて、あんなにしか出せない魅力だよ」
俺は指先であんなの柔らかな髪をそっと梳きながら、できるだけ穏やかな声で言葉を紡いでいった。
あんなは顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろして、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
その目にはもうさっきまでの沈んだ色はなくて、恥ずかしさと嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざり合った光がきらきらと揺れていた。
「ハルくん、ありがとう。私そう言ってもらえて本当に嬉しいよ」
あんなは小さく鼻をすすりながら照れくさそうに笑った。
その笑顔はさっきの痛々しい自嘲とはまるで違う、心の底からぽっと灯りがともったような温かい笑みだった。
彼女は俺の手のひらの下でそっと目を細めるとくすぐったそうに身をよじりながら、まるで秘密を打ち明けるみたいに小さな声で言った。
「あのね、私、ハルくんになでなでされるの好きかも」
あんなはそこまで言うと、また顔を赤くしてうつむいてしまう。
でも今度のうつむき方は、さっきとは違って恥ずかしさの中にも確かな甘えが滲んでいた。
彼女は膝の上で両手をもじもじと絡めながら、ちらりと俺を上目遣いで見てくる。
「だからその、もう少しだけ頭撫でてほしいな。私が満足するまででいいから」
「もちろんだ。あんなが満足するまで、いくらでも撫でてやるよ。むしろ俺の方からもっと撫でさせてほしいくらいだ」
俺はそう言ってあんなの頭をゆっくりと優しく撫で続けた。
指の腹で前髪をそっとかき上げて、耳の後ろをくすぐるようになでると、あんなはくすぐったそうに肩をすくめながらも気持ちよさそうに目を細める。
時々「えへへ」と小さく笑う声が漏れて、そのたびに俺の胸の中もぽかぽかと温かくなっていった。
陽が傾いて窓から差し込む光がオレンジ色に変わるまで、俺はあんなの頭を撫で続けた。
ポチタンはいつの間にか、また丸くなって寝息を立てていて部屋の中には静かで優しい時間だけが流れている。
あんなは完全に力を抜いて俺の手に頭を預け、時折「ハルくんの手、やっぱり気持ちいいなあ」と夢見心地で呟いた。
「あんな、そろそろ陽が暮れるけど……」
「もうちょっとだけ、もうちょっとだけでいいから。あと一分いや三十秒でも」
「三十秒で満足できるのか?」
「ううん、無理。やっぱりあと一分」
そんな他愛ないやりとりを繰り返し、あんながようやく顔を上げたときには、その表情からはもうすっかり落ち込みの影が消え去っていた。
代わりに浮かんでいるのは、くすぐったさと幸福感が混ざり合った、ゆるゆるの笑顔だ。
「ハルくん、本当にありがとう。おかげで元気出たよ」
「それはよかった。次に誰かに何か言われたら、すぐに俺に教えてほしい。そしたらまたこうして頭を撫でてやるからな」
「じゃあ、その時は遠慮なくハルくんを呼んで……ってダメダメ!!私はハルくんのお姉さんなんだから!!」
あんなはベッドからぴょんと飛び降りると、伸びをしてから部屋の鏡をちらりと見た。
鏡に映る自分の姿をじっと見つめてそれから振り返って俺に笑いかける。
「私ね、自分の服、実はけっこう気に入ってるんだ。だからハルくんに可愛いって言ってもらえてすごく自信になったよ。明日からは胸を張って、この服を着ていけると思う」
「それがいい。俺が保証する、その服はあんなによく似合っている」
俺がそう言うとあんなは照れくさそうに、えへへと笑ってから、「ありがとう」と小さく口にした。
その笑顔を見られただけで今日一日がとても意味のあるものになったような気がした。