(明智ハル視点)
窓ガラスを丁寧に拭き上げていると、背後からみくるの声が聞こえてきた。
「ハルくんって、何か趣味とかないの?」
みくるは首をかしげながら、ゆっくりとそう尋ねてきた。
その目には何か考え込むような色が浮かんでいた。
突然の質問に俺は窓拭きの手を止めて少しだけ考える。
趣味……言われてみれば自分が何を好きで何を楽しいと思うのか、考えたことすらなかった。
「趣味と言われても、記憶がないからな。何かを好きだと思った記憶も何かに夢中になった記憶も、きれいさっぱり抜け落ちているんだ」
俺が正直にそう答えると、みくるは机の上で指を組みながら少し困ったような表情を浮かべた。
その隣では床に座ってあんながポチタンと遊んでいる。
「ハルくんって、いつも仕事やお手伝いばかりしてて、自分のために時間を使ってないんじゃないかな?」
みくるは言葉を選びながら優しい口調でそう言った。
彼女は俺のことを心配してくれているらしい。
確かに毎日掃除をして、品出しをして依頼があれば調査に出かけて、空いた時間は体を動かすために散歩をするか自分の部屋で勉強している。
それはそれで充実していると思っていたが、自分のためだけの時間というものを意識したことはなかった。
「たまに空いた時間は散歩してるぞ。街をぶらぶら歩くのは結構好きなんだ。後は、みくるから貸してもらった歴史の本を読んだりして勉強してる」
「それは趣味って言わないよ!!」
俺の言葉を遮るように、あんなが勢いよく立ち上がって大声をあげた。
ポチタンが驚いて「ポチッ!?」と飛び上がり、あんなの膝から転げ落ちる。
あんなは両手を腰に当てて、まるでダメ出しをするみたいに俺のことをじろりと睨みつけてきた。
「趣味ってね、時間を忘れて夢中になれることとか、やってると楽しくて仕方なくなっちゃうようなことを言うんだから!!」
あんなは力説しながら人差し指をぴんと立てて、説教を始めた。
そのあまりにも真剣な様子に、俺は思わず窓拭きの手を止めて彼女の話に聞き入ってしまう。
みくるも机に頬杖をつきながら、くすくすと笑いをこらえている。
「そう言われても、俺も何かしたいことがあるわけじゃないしな。今の生活に不満があるわけでもないし、こうして二人と一緒にいられるだけで十分楽しいと思っているんだが」
「それとこれとは話が別だよ!!」
あんなはぷんぷんと怒りながらも、その目はなぜか嬉しそうに輝いている。
「じゃあ決まりね、今日はハルくんが趣味として何か楽しめることを探す日にするよ!!みくるも協力してくれるよね?」
「もちろん。私もハルくんに何か夢中になれるものを見つけてほしいと思ってたから」
みくるは椅子から立ち上がり、推理ノートの新しいページを開いてペンを構えた。
彼女は真剣な表情で「ハルくん趣味探索計画」と几帳面な文字でタイトルを書き込む。
こうして俺の趣味探しが本格的に始まることになった。
「まずはね、ハルくんくらいの年齢の男の子が好きなことと言ったら、ゲームとか漫画だよね!!」
あんなは自分の意見に自信があるのか、胸を張ってうんうんと頷いていた。
「キュアット探偵事務所にゲームなんてないと思うけど……」
みくるの言う通り、この探偵事務所でゲーム機なんて見たことがない。
「そっか、じゃあ私の漫画を貸してあげるね。すごく面白いんだよ!!」
あんなは自分の部屋に駆け込むと、何冊か漫画を抱えて戻ってきた。
タイトルを見ると、学園ものや冒険もの、恋愛ものまでバラエティ豊かだ。
彼女はその中から一冊を選んで、自信満々に俺に差し出してくる。
「これ、大人気の漫画なんだよ!!主人公が仲間と一緒に世界を救う話で……読んでると、すごく勇気がもらえるの!!」
「それじゃあ私は推理小説を貸してあげるね。私が好きな作家の作品で、伏線が見事で何度読んでも新しい発見があるんだ」
みくるは自分の本棚から一冊の文庫本を取り出して、大切そうに俺に手渡してくれた。
表紙には古びた洋館のイラストが描かれていて、いかにも彼女が好きそうな雰囲気の本だ。
「二人ともありがとう。大切に読ませてもらうよ」
俺が礼を言うと、あんなは嬉しそうに笑い、みくるは照れくさそうに微笑んだ。
本を受け取った手にずっしりと重みを感じる。
これはただの紙の重さではなくて、二人の気持ちが詰まった重さなのだと思うと胸の奥がじんわりと温かくなった。
「あとはスポーツかな、体を動かすのも趣味としてすごくいいと思うんだよね。公園でサッカーとかバドミントンとか」
あんなが元気よく提案するが、隣に立つみくるの顔が一瞬で曇った。
みくるは気まずそうに指をもじもじと絡めながら、小さな声で呟いた。
「スポーツか……私ちょっと体力には自信がなくて」
「待ってくれ、俺の身体能力でスポーツをしたら相手を怪我させてしまうかもしれない」
俺が真剣な口調でそう言うと、あんなはハッとしたように目を丸くした。
彼女はこの前の怪物との戦いで俺が見せた蹴りを思い出したのだろう、こくこくと何度も頷いている。
「あっ、そっか。あの怪物を吹き飛ばすくらいの力があるんだもんね」
「ああ、常にあの力が出せるわけじゃないが、手加減しながらスポーツをしても楽しめない気がするし、相手にも失礼だと思う」
「じゃあ音楽とか絵とか、芸術方面はどうかな?体を動かさなくても楽しめるし、創造力も養えると思うよ」
みくるが新たな提案をしてくれた。
彼女は推理ノートに「芸術系」と書き込みながら、俺の反応を待っている。
「音楽はさっぱりわからないんだが……」
「ハルくんは手先がすごく器用だし、絵なら描けるんじゃないかな?この前も商品の陳列をすごく綺麗に並べてたし!!」
あんなが両手を合わせて、ぱあっと顔を輝かせた。
みくるも「確かに」と納得したように頷いてくれた。
「じゃあ、あんなとみくるを描いてみるよ。せっかくだから最初の絵は二人の姿にしたいんだ」
「「えっ!?」」
二人は同時に声をあげて、お互いの顔を見合わせた。
あんなの頬はほんのりと赤くなっていて、みくるは耳まで真っ赤にしてあわあわと手を振っている。
「わ、私を描くなんて、そんな恥ずかしいよ。もっと描きやすいものから始めたほうがいいんじゃないかな」
みくるはもじもじとスカートの裾をいじりながら上目遣いで俺を見てくる。
彼女の声はどんどん小さくなっていって、最後の方はもう消え入りそうだった。
「大丈夫だ、みくる。お前は十分綺麗だから描きがいがある」
「き、綺麗だなんて、そんなこと言われたの初めてで、ど、ど、どう反応すればいいのか」
みくるは両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んでしまった。
指の隙間からは真っ赤になった耳がのぞいていて、彼女の動揺が手に取るように伝わってくる。
あんなはそんなみくるの肩をぽんぽんと叩きながら、にこにこと笑っていた。
「ハルくん、私も私も!!私のことも描いてくれるんだよね?」
「もちろんだ。あんなのこともちゃんと描くよ。二人並んでいる姿を描きたいんだ」
「えへへ、楽しみだなあ。ハルくんが描く私どんな風になるんだろう♪」
あんなは自分の両手を胸の前で組んで、期待に胸を膨らませている。
彼女の目はきらきらと輝いていて、その無邪気な笑顔を見ているだけで描く前から、もう完成図が頭の中に浮かんでくるようだった。
俺はみくるからスケッチブックと鉛筆を借りて窓際の椅子に腰を下ろした。
午後の柔らかな日差しが差し込むその場所は、絵を描くのに最適な明るさだ。
あんなとみくるは少し照れながらも、窓辺に並んで立ってくれた。
「二人とも、そんなに緊張しなくていいぞ。普段通りの自然な姿が一番描きやすいから」
「普段通りって言われても、意識しちゃうよ。ハルくんにじっと見られてると思うと、なんだかむずむずするし」
あんなはそう言いながらも、いつもの明るい笑顔を浮かべてくれた。
隣に立つみくるは緊張で少し硬い表情だったが、あんなが何か耳打ちすると、ふっと力が抜けて柔らかな微笑みに変わる。
二人が並んで立つ姿は、まるで一枚の絵画のように美しかった。
俺は鉛筆を握りしめ、スケッチブックに線を走らせ始める。
部屋の中は静かで、鉛筆が紙を擦る音だけが響いている。
時折あんながくすぐったそうに身じろぎしたり、みくるが恥ずかしそうに視線をそらしたりする。
その一瞬一瞬の表情を逃すまいと俺は集中して手を動かし続けた。
「ハルくん、すごく真剣な顔してるね。集中してる時の顔もなかなか様になってるよ」
「ああ、今はお前たちを描くことに夢中だからな。もう少しだけ待っていてくれ」
「うん、全然待てるよ。ハルくんが楽しそうに絵を描いてるのを見てると私まで嬉しくなってくるし」
あんなのその言葉に、俺は自分が楽しんでいることに初めて気がついた。
記憶を失ってから、誰かのために何かをするのは嬉しかったが、自分のために何かをするというのは、これが初めてかもしれない。
鉛筆を動かすこの時間が、こんなにも充実しているなんて思いもしなかった。
これが趣味というものなのだろうか?
鉛筆を走らせて、約一時間。
窓の外では午後の陽射しが少しだけ傾き始めている。
スケッチブックの上には、窓辺に並んで立つあんなとみくるの姿がモノクロの線で再現されていた。
俺は最後にみくるの髪の影を少しだけ濃く描き足してから、鉛筆を机の上に置いた。
「一応これで完成かな。初めてだから上手く描けているかわからないが、精一杯描いてみたんだ」
俺はスケッチブックを二人の方に向けて、おそるおそる差し出した。
胸の奥が妙にそわそわして、落ち着かない。
自分の絵を誰かに見せるのが、こんなに緊張するとは思わなかった。
心臓がいつもより速く鼓動を打っていて、手のひらにはうっすらと汗が滲んでいる。
あんなは絵を見た瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「これ本当に初めて描いたの!? 初めてとは思えないくらい上手いね!!」
みくるは絵を見ながら、そっと胸の前で指を組んでいた。
照れを隠そうとしている仕草が、逆に可愛らしかった。
「本当ね、ハルくんは才能があるんじゃない?人物画ってバランスを取るのが一番難しいはずなのに、二人の立ち姿がとても自然に描けてる。特に目の描き方が丁寧で、見ているだけで、その人の性格が伝わってくるような気がする」
みくるはスケッチブックをまじまじと見つめながら、感心したように何度も頷いている。
彼女は指でそっと絵の輪郭をなぞりながら細かい部分までしっかりと観察していた。
「二人にそう言ってもらえると、描いた甲斐があったよ。でも才能というほどのものじゃないさ、ただモデルが良かっただけだ」
あんなの明るさも、みくるの落ち着いた雰囲気も、俺はただ紙の上に写し取っただけだ。
二人の魅力が、そのまま絵に出てくれたから上手く見えるんだろう。
「ねえねえ、ハルくん、この絵、私がもらっていい?」
あんながスケッチブックを胸に抱えたまま、上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
その大きな瞳は期待にきらきらと輝いていて、まるで子犬がおやつをおねだりするときのような無邪気さがあった。
「俺は別に構わないけど、こんな拙い絵をもらってどうするんだ?」
「決まってるでしょ、私の部屋に飾るんだよ!!ベッドの正面の壁に貼って、毎朝起きたら一番にこの絵を見るの、そうしたら一日中元気でいられると思うんだよね!!」
「そ、それはちょっと……自分の描いた絵がそんなふうに飾られると思うと、さすがに恥ずかしいんだが」
俺は思わず顔を背けて、手のひらで口元を覆った。
耳の先が熱くなっているのが自分でもわかる。
「えー、なんで恥ずかしがるの?ハルくんがせっかく描いてくれたんだから、大切にしたいって思うのは当たり前だよ!!それとも私の部屋に飾られるのがそんなに嫌?」
「わ、わかった……好きにしてくれ」
「じゃあ決まりね、この絵は今日から私の宝物だよ!!ハルくん、本当にありがとう!!」
あんなはスケッチブックを抱きしめながら、その場でくるりと一回転した。
その姿があまりにも愛らしくて、俺は照れくささを吹き飛ばされて、つい笑みをこぼしてしまった。
「ふふっ、二人とも本当に仲がいいよね」
みくるが口元に手を当てて、くすくすと笑い声を漏らした。
彼女は俺とあんなのやりとりを、まるで微笑ましいものを見るような優しい目で見つめている。
「ハルくん、別に今すぐに趣味を決める必要はないからね。今日は絵を描いてみたけど、明日はまた別のことを試してみてもいいし、もっといろんなことに挑戦してみて、自分にとってこれだって思えるものを見つけましょう」
みくるはそう言うと、机の上に置いてあった推理ノートを手に取って「ハルくん趣味探索計画」のページに何やら書き足した。
彼女の横顔はどこか大人びていて、その落ち着いた物腰はまるで弟を見守る姉のようだった。
「なんだか、みくるがお姉さんっぽいね」
「だって私はハルくんの名づけ親だからね。名前をつけた責任として、ハルくんが素敵な趣味を見つけられるように最後まで面倒を見るつもりよ」
みくるはそう言って、いたずらっぽくウインクをしながらにこっと笑った。
彼女のお茶目な表情を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまうのだった。