(明智ハル視点)
その日の午後は特に当てもなく街をぶらぶらと歩いていた。
あんなとみくるは学校で、事務所にはジェット先輩とポチタンが留守番をしている。
一人で歩く街並みも悪くない。
商店街のアーケードを抜けて、少し洒落たカフェやブティックが並ぶ通りへと歩いていると……。
パティスリーチュチュの帆羽くれあさんが、二人の男に行く手を塞がれていた。
水色のワンピースが夕陽を受けて淡く光り、その静かな佇まいとは裏腹に、彼女の瞳だけがはっきりとした拒絶の色を宿している。
「だから、そういうの本当に困るんです」
いつも穏やかな声が、今日は少しだけ硬い。
茶髪の男が肩に触れようとし、もう一人は壁にもたれて、にやにやと眺めていた。
「お断りしています。道を空けてください」
丁寧な言葉なのに、くれあさんの目は一切笑っていない。
それでも男たちは引かず、むしろその拒絶を面白がっているようだった。
俺は考えるより先に足を踏み出していた。
「その人、嫌がってるだろ。やめろ」
男たちがこちらを振り返る。
くれあさんは驚いたように目を見開き、すぐに心配そうな表情に変わった。
「ハルくん……危ないから、来ちゃダメ!!」
小さく首を振るその仕草は、俺を守ろうとする優しさそのものだった。
だが、俺は止まらなかった。
茶髪の男が胸倉を掴もうと手を伸ばす。
俺はその手首を軽く固定した。力は入れていない。ただ動けなくしただけだ。
「もう一度だけ言う。その人を困らせるのはやめろ」
平坦な声で告げると、男は一瞬ひるんだ。
だが仲間の手前、引けないらしい。
「てめえ、ガキが調子に乗ってんじゃねえぞ!」
左拳を振りかぶる、大振りで軌道は丸見えだ。
俺は手首にほんの少しだけ圧をかけた。
「いっ……てええっ!!」
悲鳴が路地に響く。
もう一人の男もぎょっとして壁から離れた。
「なんなんだよ……こいつ握力おかしいだろ!」
俺はゆっくり手を離す。
男たちは捨て台詞を吐きながら逃げていった。
静かになった路地で、くれあさんが胸に手を当ててほっと息をついた。
「ハルくん……ありがとう。本当に助かったよ」
そう言うと、くれあさんはそっと俺の方へ歩み寄り、ためらいがちに俺の右手を取った。
指先を包み込むようにして、ゆっくりと手のひらを確かめる。
「……手、痛くない?大丈夫?」
触れ方は驚くほど優しくて、壊れ物を扱うみたいだった。
その温度がじんわりと伝わってきて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「大丈夫だよ。怪我はしてない」
俺がそう答えると、くれあさんはほっとしたように微笑んだ。
指先が離れる瞬間まで、彼女の手は温かかった。
だが、すぐに眉が少しだけ寄り、俺の方へ一歩近づいた。
「でもね、ああいう危ないことはダメだよ。ハルくんが怪我したら……あんなちゃんもみくるちゃんも、私だって悲しいの」
叱るのではなく、ただ心から心配してくれている声だった。
その優しさが胸にじんわりと染みた。
「わかった、心配かけてすまなかった。でも困っていたくれあさんを放っておくわけには、いかなかったんだ」
俺が正直にそう言うと、くれあさんは少しだけ目を丸くして、それからふわりと表情をほどいた。
まるで春の日差しが雲間から差し込んだような、そんな柔らかな笑顔だった。
「正義感が強くて優しい子なんだね。あんなちゃんとみくるちゃんが、ハルくんのことをいつも自慢げに話してる理由がよくわかったよ」
自慢げに話しているというのは初耳だった。
あの二人が俺のことをそんなふうに思っていてくれているのかと思うと、照れくささと同時に胸のあたりが温かくなるのを感じる。
「ねえ、お礼にスイーツを奢ってあげる。実はこのすぐ近くに新しいお店ができたんだよ。カップケーキの専門店で、ずっと行ってみたいと思ってたの。今日はそのお店に向かう途中だったんだ」
くれあさんは、小さなバッグを胸の前で抱えながら嬉しそうにそう提案してくれた。
パティシエである彼女が気になるというスイーツ店だ。
きっと相当な実力のある店なのだろう。
「でも、奢ってもらうのは悪いよ。俺はただ当然のことをしただけで」
「それでもお礼がしたいの。それにね、ハルくんが隣にいてくれたら、さっきみたいな人にもう話しかけられなくて済むから、ちょうどよかったんだよね」
くれあさんは、ほんの少しだけ、いたずらっぽい光を瞳に宿してそんなことを言った。
なるほど、ただのお礼ではなく俺を用心棒代わりにしたいらしい。
それなら断る理由もないだろう。
「わかった……俺でよければ付き合うよ」
「ふふっ、それは頼もしいね」
俺たちは並んで歩き出した。
くれあさんは歩く速度がゆったりとしていて、道すがら目に入る花壇やショーウィンドウにさりげなく視線を向ける。
その仕草のひとつひとつがとても自然で品があって、この人の人柄をそのまま表しているように感じられた。
新しいカップケーキ専門店は、絵本のような可愛い外観だった。
扉を開けると甘い香りがふわりと広がり、
棚には宝石みたいに色とりどりのカップケーキが並んでいる。
「わあ……どれも綺麗」
くれあさんは目を輝かせて、ひとつひとつのカップケーキをじっくりと眺めている。
パティシエとしての目線で見てもこの店の品は相当に評価できるものらしい。
俺はというと、どれが美味しそうかよりも色の組み合わせや飾りの配置に見入ってしまう。
ついこの間、絵を描く楽しさに目覚めたばかりの身としては、こういう色彩のセンスにも自然と興味が湧くのだった。
結局、くれあさんはベリーのカップケーキ、俺も同じものを選んで、二人で窓際の小さなテーブルについた。
紅茶のサービスまでついていて、ポットから注がれる湯気が午後の陽射しに透けてきらきらと輝く。
「ハルくんって、あんなちゃんの弟なんだよね?」
くれあさんがカップケーキの紙を丁寧に剥がしながら何気ない調子でそう尋ねてきた。
やはり苗字が同じだから、姉弟だと思われているらしい。
無理もない。
あんなは俺のことを「ハルくん」と呼ぶし、俺も彼女を「あんな」と呼び捨てにしている。
傍から見れば年の近い姉弟にしか見えないだろう。
「まあ、親戚みたいなものかな。あと、どちらかというと、あんなは妹だと思ってる」
実際には血の繋がりなどないのだが、記憶喪失のことを話せばまた相手に心配をかけてしまう。
特にくれあさんは優しい人だから、よけいな気を遣わせるのは避けたかった。
親戚という言葉は、嘘ではない。
同じ苗字で、同じ屋根の下に暮らし、同じテーブルで食事をして、時に頭を撫でてやる。
血は繋がっていなくても、俺たちはもう立派な家族だった。
「妹なんだ……ふふっ、あんなちゃんはお姉さん気質な感じがするから、ちょっと意外かも」
くれあさんは口元に手を当ててくすくすと笑った。
品のある仕草なのに、笑い声は少女のように無邪気で、そのギャップが妙に印象に残る。
「確かに、あんなは自分をお姉さんだと思っている節がある。俺の世話を焼きたがるしな、でも、甘えてくることもあるし、頭を撫でられると嬉しそうにするから、俺にとっては妹みたいなものだと思う」
「ふふ……二人とも仲良しなんだね」
くれあさんはそう言って、また楽しそうに目を細めた。
この人と話していると、時間がゆったりと流れていくような心地になる。
喧騒とは無縁の静かで落ち着いた時間だ。
カップケーキは甘さ控えめで、ベリーの酸味がほどよく生地に絡んで、口の中で絶妙なバランスを奏でていた。
くれあさんも一口食べるごとに小さく頷いていて、その満足そうな表情を見ているだけで、こちらまで嬉しくなる。
「ところで、くれあさんはさっきみたいな男に、よく絡まれるのか?」
俺がそう尋ねると、くれあさんは紅茶のカップをソーサーに置いて少しだけ考えるように首をかしげた。
「たまにね。でも今日みたいにしつこいパターンは滅多にないの。いつもは『お茶でも』って声をかけられても、丁寧に断れば諦めてくれるから。今日の人たちは、たまたま運が悪かったみたい」
彼女はそう言って困ったような、でもどこか慣れっこになっているような微笑を浮かべた。
その笑みが俺にはほんの少し痛々しく感じられた。
「美人って、いろいろ大変なんだな」
俺は気取ることなく、思ったままを口にした。
事実を述べただけだ。
くれあさんが美人であることは、誰が見ても明らかで議論の余地すらない。
「び、美人だなんて……」
くれあさんは一瞬で頬を赤くし、困ったように胸元を押さえた。
大人びた雰囲気がふっと崩れて、どこか初々しい。
「いや、くれあさんは美人だと思う。ここに来るまでの間すれ違った男性のほとんどがくれあさんを見ていたし、その視線はただの物珍しさじゃなくて、純粋に見惚れている目だった。水色のワンピースが透明感のある肌に映えていて、歩く姿勢も綺麗だから遠くからでも目を引くんだろうな」
俺が淡々と事実を積み重ねていくと、くれあさんの顔はみるみるうちに赤みを増していった。
耳の先までほんのり染まっていて、さっきまでの落ち着いた大人の女性の雰囲気がどこか幼げな初々しさに変わっている。
「ハルくんって、そういうことを真顔で言うから余計にたちが悪いよ……もう」
彼女は両手で胸のあたりを押さえて、息を吐く。
困っているというより、どう対処していいかわからない様子だ。
その反応があまりにも素直で可愛らしくて、俺の口元も自然と緩んでしまった。
店を出て、夕暮れの街を並んで歩く。
くれあさんは小さな紙袋に包まれたカップケーキのお土産を大事そうに抱えていた。
パティスリーチュチュの仲間たちに持って帰るらしい。
「ねえ、ハルくんって女の子にモテるでしょ?」
くれあさんがふと思いついたようにそんなことを尋ねてきた。
夕陽を背に浴びた彼女の横顔は半分オレンジ色に染まっていて、とても綺麗だった。
俺はその質問に、反射的にこの間の出来事を思い出してしまった。
キュアアルカナ・シャドウ……森亜るるかの胸に手が当たってしまったあの瞬間。
そして去り際に彼女が残した、震えるような声。
俺は心の中で密かにため息をついた。
あれは完全に俺が悪い。
いや、バナナの皮を撒いたハンニンダーが悪いと言えなくもないが、結局触ってしまったのは俺の手だし、その前に「足が太い」なんて言って煽ったのも俺だ。
「そんなことはないと思う。この間も、女の子をものすごく怒らせて『絶対に許さない』って言われたばかりだ」
「えっ、そうなの!?」
くれあさんはぴたりと立ち止まってまんまるな目で俺を見つめた。
さっきまでの穏やかな表情が一変して、驚きと好奇心が半々に混ざったような顔になる。
どうやら彼女の中で俺のイメージと「女の子を怒らせる」という行為がうまく結びつかなかったらしい。
「ハルくんは優しいし、女の子に対しても丁寧だから怒らせるなんて、ちょっと想像できないかも。どうしてそんなことになったの?」
当然の疑問だった。
だが、これに正直に答えるわけにはいかない。
胸を触ったなどと言おうものなら、あの温厚なくれあさんがどんな顔をするか想像するだけで怖い。
それに、相手はプリキュアだ。
変身の秘密に関わることまで話すわけにはいかない。
「喧嘩になって、つい『足が太い』って言ってしまったんだ」
俺は真実の一部を切り取って、そう説明した。
足が太いと言ったのは事実だし、それで彼女が怒ったのも事実だ。
胸のことは伏せているが、嘘はついていない。
くれあさんは一瞬きょとんとした顔をして、それからふっと表情を曇らせた。
本気で心配している時の顔だった。
「それは……よくなかったね。体型のことを言われるのって、女の子にとってはすごくデリケートな問題なんだよ。たとえ喧嘩の勢いだったとしても、そういう言葉は心に棘みたいに残っちゃうものなの」
彼女の声はあくまでも優しかったが、その目は真剣だった。
叱っているのではなく、諭しているのだ。
同じ女性として、森亜るるかの傷ついた気持ちに寄り添おうとしているのだろう。
「ちゃんと謝った方がいいと私は思うよ。ハルくんが悪かったと思っているなら、なおさらね。謝るのは勇気がいることだけど、伝えないと相手には絶対に届かないから」
くれあさんはそう言って、そっと俺の目を見つめた。
その瞳には、迷いや曖昧さは微塵もなくて、ただ誠実な光だけが輝いている。
この人は本当に、誰かが傷つくのを放っておけない優しさを持っているんだなと思った。
「わかった。機会があれば、ちゃんと謝るよ」
俺が素直に頷くと、くれあさんはほっとしたように微笑んだ。
「うん、それがいいと思うよ。ハルくんが素直な子でよかった」
駅前で別れるまで、くれあさんはパティスリーチュチュの新作の話を楽しそうにしていた。
その横顔を見ながら、俺はこの人ともっと話してみたいと思った。