彼女は永遠に彼に追いつけない   作:ドラ麦茶

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1.アンダンテ(歩くような速さで)

 もし、過去にメッセージを送ることができたとしたら、いつ、誰に、どういうメッセージを送るだろうか?

 

 これまで、彼女には人生の分岐点と言えるものがいくつもあった。その、どこかにメッセージを送り、違う選択をするようアドバイスできたなら、きっと、今とは違う人生があったはずだ。

 

 では、どこにメッセージを送る?

 

 例えば二十年前──彼女が五歳の誕生日を迎えた日。

 

 大好きな祖父母からプレゼントを買ってもらえることになり、ショッピングモールのおもちゃ売り場へ出かけた。そして、お絵かきのおもちゃとピアノのおもちゃのふたつで迷い、ピアノのおもちゃを選んだ。

 

 もし、このときの自分、あるいは祖父母に、ピアノのおもちゃではなくお絵かきのおもちゃを選ぶようメッセージを送ることができたら、その後の人生はどう変わっただろうか。

 

 あるいは、その二年後──七歳のとき。

 

 そのピアノのおもちゃを気に入り、ずっと遊んでいる彼女を、母がピアノ教室の体験レッスンへ連れて行ってくれた。レッスンは彼女にとって非常に楽しいもので、終了後、「ピアノ、習いたい?」と訊かれ、「うん!」と迷いなく答えた。

 

 もし、このときの自分、あるいは母に、他の習い事を選ぶようメッセージを送れば、ピアノを習うことはなかっただろうか。

 

 それとも、十七歳の春、高校の進路希望調査のプリントに『イザベラ音楽大学』と書いたときか。はたまた、十八歳の春、大学合格後に一人暮らしを始め、バイトアプリで学校から徒歩一〇分の場所にある楽器店のアルバイト募集広告を見つけたときか。もしくは、二十二歳の冬、大学卒業後も就職せず同じ店でフルタイムのアルバイトを続けると決めたときか。

 

 ──いや。

 

 そんな昔の選択なんて、今はどうでもいい。

 

 そんなことよりも、今はとにかく、三時間前の自分に、こうメッセージを送りたい。

 

【そのミズサワフルート創業三十周年記念モデルは売っちゃダメ!】と──。

 

 

 

     ☆

 

 

 

「──本当に、申し訳ありません!!」

 

 鍵盤楽器や管楽器・弦楽器など、多数の楽器が並ぶフロアのお客様対応カウンターで、接客スタッフの木崎(きざき)(れい)は、カウンター前に座る女性客に対して深く頭を下げた。十歳くらいの男の子をつれた母親だった。細長の三角形につり上がったメガネにグレーのレディーススーツ姿。メガネに負けないくらいつり上がった目で玲を睨みつけ、腕を組み、せわしなく右の人差し指をトントンと動かす様子は、いかにも神経質な教育ママいった雰囲気である。

 

「謝られても何も解決しないでしょう? どうするのかと訊いているのです」

 

 女性客は玲に詰め寄るように言う。玲は用意してあったフルートのカタログを開いた。

 

「それでは、同じミズサワフルート製の、『モデル27』はいかがでしょう? 三十周年記念モデルに近いタイプで、お値段はお安くなっております。もちろん、こちらの不手際ですから、価格はさらに引かせていただきますので……」

 

 相手の様子を伺いつつ、玲は恐る恐る商品の説明をする。だが、女性客はチラッとカタログを見ただけで、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「そのような既製品では意味がないでしょう! あたしは限定モデルを予約したのです! 予約した商品を売る、こんな当たり前のこともできないなんて、この店はどうなっているのですか!?」

 

 フルートを使うのはこの女性客ではなく、その隣ですっかり萎縮して座っている男の子のはずだ。その子の意見は聞こうともしない。恐らく楽器の性能や使用者との相性などこの母親にとってはどうでもよく、欲しいのは『限定モデル』という名称なのであろう。それって母親のエゴですよね? などと玲が言えるはずもなく。

 

「はい! 本当に、申し訳ありません!!」

 

 玲はまた深々と頭を下げた。

 

 ことの起こりは三時間前。開店直後にやってきた男性客が、「ミズサワフルート創業三十周年記念モデルはありませんか?」と、玲に声をかけたことだ。価格は約三十三万円。玲が勤めている楽器店の販売員には、一人一人その日の売上目標が設定される。玲の今日の目標額は十七万円だった。開店直後に一撃達成、それどころかダブルスコアも狙える額である。このところの玲は目標額を大きく下回る売り上げしかなく、後ろめたい思いで退社していたので、これを逃すテはない。ただ、販売できるかどうかは在庫次第だ。限定モデルということはかなり希少であると思われる。玲は男性客を対応カウンターに案内し、パソコンで店内在庫を調べてみた。すると、ちょうどその日の朝の入荷分に一本あるではないか。これ幸いとばかりに、玲は即座に販売した。見事、この日の売上目標を達成。これで今日は胸を張って堂々と帰れる──と、思っていたのは午前中だけだった。

 

 お昼過ぎ。休憩を終えてフロアに戻ったとき、トラブルが発覚した。玲が販売したその記念モデルは、別の客──いま玲が接客している女性客だ──が予約し、取り寄せた商品だったのである。

 

 つまり、玲は予約商品を違う客に売ってしまったのだ。

 

 通常ならば、このようなことは起こらない。本来は予約商品の取り寄せをした段階で該当客に紐付け処理をするか、最低でも到着した時点で紐付け処理され、パソコン上の在庫はゼロになる。なので、間違って売ることはない。

 

 だが、この時は取り寄せ時の紐付けがされておらず、また、開店して間もない時間だったためか到着時の紐付け処理もされていなかったのだ。

 

 玲のミスかどうかは微妙なところではある。限定商品がひとつだけあるという状態を怪しむべきだったかもしれない。インカムを通じて販売スタッフ全員に確認すれば済んだ話で、玲がそれを怠ったのは間違いない。いや、やはり最初に紐付け処理しておくべきだろう、とも思う。

 

 何にしても、店側の不手際で本来予約した客に商品をお渡しできなくなってしまったのは事実である。在庫はもう無い。購入履歴から最初の男性客に連絡して事情を説明し、返品をお願いしてみたものの受け入れてもらえず、こちらのミスなので強くも言えない。返品してもらうのは諦め、女性客に代替え商品を提案してみたのだが、予約した限定品でなければダメだと言う。

 

「あたしたち、今日の夜七時から大事な発表会があるんですよ!? 肝心のフルートがないと、発表会に出られないではありませんか! どう責任を取るつもりです!?」

 

 大事な発表会に使い慣れたものはなく今日買って初めて触れるもので挑むのはいかがでしょう……と言えるはずもなく、玲はまた「本当に本当に、申し訳ありません」と頭を下げる。

 

「あなたでは話になりません。責任者を呼んでちょうだい」

 

 女性客は顎をしゃくって命令するように言った。ここで対応を店長に交代できれば、玲としても助かるのだが……。

 

 玲は、対応カウンターの隣にある販売レジの方を見た。玲と同年代のレジ担当の女性スタッフが気付いたが、申し訳なさそうな顔で首を横に振った。店長は対応しない、ということである。クレーム対応中、客が「責任者を出せ!」というのは、よくあることだ。いちいち応じているとキリがないので、店長が対応することはまず無いのである。ただ、言いがかりも甚だしいクソみたいなクレーム客ならともかく(「責任者を出せ!」と言ってくる客は概ねコレだ)、今回は一〇〇パーセントこちらに非があるので、さすがに対応してくれてもよさそうなものだ。

 

「あいにく、いま席を外しておりまして……」

 

 精一杯申し訳なさを表しつつ伝えるも、もちろん受け入れてもらえることはなく、女性客は「他に誰かいないの!」と声を上げた。カウンターから見える範囲に責任者と言えるような人は誰もいない。接客中なのかもしれないが、恐らく厄介ごとに関わりたくないのだろう。こういった事態で役職者が対応することで収まる場合もあるにはあるが、最初から事情を説明しなければならないなど余計な手間もかかるため、逆効果になることも多い。こういった問題を一人で対応し、解決してこそ一人前の販売員なのであろうが、玲は所詮アルバイトスタッフである。ハッキリ言って責任のある立場ではないので、さすがに誰か代わってよ、とも思う。

 

 こういうとき、涙を流して泣き崩れたりすれば、客は冷静さを取り戻すし、男性スタッフが慌てて駆けつけてきたりもする(実際、他の女性スタッフではまれにある)。しかし、幼い頃からピアノを習い、時にレッスンやコンクールで厳しい言葉を浴びせられることもある玲はすっかり根性が据わっており、この程度で泣くなんてありえなかった。もちろん、根性だけでどうにかなる問題ではないので、どうすればいいのか判らず、いっそ過去にメッセージを送れたら……などと、現実逃避してしまうのだ。

 

 すっかり困り果てた玲は、いよいよ泣く演技でもしようか、などと不純なことを思い始めたとき、ようやく救いの手が差し伸べられた。

 

「──お待たせしました。わたくし、木崎の上司の七森(ななもり)と申します」

 

 レジ奥のスタッフルームからさっそうと現れた男性が、女性客のそばに膝をつき、七森(りょう)と書かれた名刺を差し出した。七森は休憩時間中のはずだが、事態を察して出てきてくれたのかもしれない。

 

 女性客は、つり上がった目を丸くし、はっとして口を開け、そして頬を紅潮させた。七森は女性客よりも一回り年下で、イケメンと言って差し支えない顔だ。この客のような四十代前後の女性からの人気が高く、名指しで接客を希望してくる客も多い。その人気の高さから店の看板娘ならぬ看板店員として活躍しており、店のホームページではトップページにバイオリンを持ってほほ笑む画像が掲載され、テレビや雑誌などで店が取材される時も概ね彼が対応する。見た目だけでなく接客スキルも優れている。今はクレーム対応なので笑顔は封印し神妙な顔をしているが、通常の接客ならば少しほほ笑むだけで女性客はホイホイ商品を買ってしまう──というのも決して大げさな話ではなく、個人売上額は常に店内上位を維持している。そして、ほとんどのスタッフが他人のトラブルに関わりたがらないこの店では数少ない救いの手を差し伸べてくれる人で、玲が最も頼りにしている先輩である。

 

 女性客から簡単に事情を聞いた七森は、「このたびはご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません」と改めて頭を下げ、そして続ける。「他店の在庫状況を調べてみますので、少しお時間をください」

 

 そう言うと、さっきまで玲に詰め寄っていたときの勢いはどこへやら、女性客は「え……ええ……お願いします」と、うっとりとした目で頷いた。まるでホストクラブで甘い言葉をかけられたかのようである。

 

 七森は立ち上がると、カウンターの後ろにあるパソコンへ向かった。玲はお客さんに「失礼します」と頭を下げ、席を立って七森のそばへ行く。

 

「いつもすみません七森さん。助かります」

 

 玲はお礼を言い、改めてここまでの経緯を説明した。

 

 今回の対応でまず玲が行ったのは、メーカーへの在庫の問い合わせだった。残念ながら限定モデルだけあって、在庫はもう無いとのことだった。もっとも、メーカーからの取り寄せでは入荷まで数日かかるので、仮に在庫があったとしても今日お渡しすることはできない。それでは客は納得しないだろう。

 

 次に玲は他の店舗の在庫を調べた。玲が勤めるこの楽器店は全国に展開するチェーン店だ。市内にはもう一店舗あり、パソコンを使えばその店の在庫状況も調べることができる。市内ならすぐに取り寄せることができるし、今すぐに欲しいということであれば、客の手を煩わせることになるが直接取りに行ってもらうこともできる。しかし、残念ながらその店にも在庫は無かった。

 

 仕方なく、玲は代替え商品を提案していたところだったのである。

 

「そうか。じゃあ、他の店を調べてみよう」

 

 そう言うと、七森はパソコンのキーボードを叩き、在庫検索を市内の店舗から全国の店舗に広げた。すると、いくつかの店舗に在庫が見つかった。これなら取り寄せることは可能だが、問題は時間である。運送のシステム上、どんなに近い店舗でもこの店に届くのは翌日の朝になり、遠い店舗からだとさらに日数を要する。今回の客は今日の夜七時に必要としている。到底間に合わない。

 

「……一番近いのは、岡広(おかひろ)店か」

 

 七森は画面を指さして言った。岡広店は、隣の県である。

 

「とにかく、電話してみよう」

 

 七森は携帯電話を取り出し、岡広店へかけた。フルート売り場の担当者に事情を説明すると、ちょうどキャンセルが出たところなので予約はなく、譲っても構わないとのことだった。

 

「でも、岡広店だと、届くのは明日の朝ですよね……」

 

 電話を切った七森に、玲は心配して言う。今晩の発表会には間に合わないのでは、客は納得しないだろう。

 

「大丈夫だよ」と、七森は笑みを浮かべて言った。「僕が、今から取りに行くから」

 

「え? 七森さんが?」

 

「ああ。岡広なら、よほど道が混んでなければ間に合うからね」

 

 驚く玲にもう一度ほほ笑むと、七森は女性客の元へ戻った。玲も後ろに控える。

 

「大変お待たせしました。岡広店に、在庫が一本ありました。今から私が取りに行き、六時までには、発表会の会場へお届けします。それで間に合いますでしょうか?」

 

 女性客は「あら」と口に手を当てた。「六時でしたら間に合いますけど、岡広って、隣の県ですよね? 遠いでしょうに、よろしいのですか?」

 

「こちらの不手際でご迷惑をおかけしたのですから、当然です」

 

「そうですか。なんだか無理を言ったみたいで申し訳ないですわね。では、それでお願いします」

 

 女性客は納得し、会場の住所と連絡先を告げ、ひとまず帰って行った。

 

 女性客と男の子を見送った後、玲は七森に改めてお礼を言った。

 

「ありがとうございます、七森さん。でも、本当にいいんですか?」

 

 取りに行っている間、七森は接客をすることができない。売上目標は当然七森にもあるが、この後六時まで売上ゼロになってしまう。

 

 それでも七森は、「かまわないよ、責任者っていうのは、こういうときのために動くものさ」と、なんでもないような顔で答える。

 

 女性客には「木崎の上司」と名乗った七森だが、彼と玲は担当するコーナーが違うため、厳密に言えば上司ではない。玲の担当コーナーの責任者は別の人で、上司というならその人の方だ。しかし、こういうトラブルで助けてくれるのは、いつも七森の方だった。

 

「本当にすみません。本来なら、あたしが取りに行くべきなんでしょうけど……」

 

 残念ながら会社の決まりでアルバイトは社用車を使えないし、そもそも玲は車の運転免許を持っていなかった。

 

「気にしないでいいよ。それより、よく泣かずに頑張ったね」

 

 そう言って、七森は、ぽんぽん、と玲の頭に手を添える。ともすれば近年はセクハラとなりかねない行為ではあるが、玲はイヤな気はしない。むしろ、きゅん、と、胸が締まるような感じがした。顔が紅潮してくるのが判る。それを隠すため、また頭を下げた。

 

 七森は店長に事情を告げると、すぐに岡広店へ出かけて行った。

 

 

 

 

 

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