コンサートデートから三日が過ぎた。理央の励ましのおかげで少しは気が楽になったが、これから七森に対してどう接していいか判らず、玲は相変わらずもやもやした気持ちが続いていた。
七森の方は、一見すると普段と変わらない。相変わらず楽器売り場の看板店員として売上額上位をキープしているし、玲が接客で困っているとすぐに駆けつけてくれる。
ただ、あの日以降、ふとした瞬間に彼の孤独を感じる。
例えば、休憩室にいるとき。あるいは、弦楽器のフロアでチェロの接客をしているとき。そして、夕陽の屋上に、彼が一人でたたずんでいるとき。
彼はいつも、いなくなった恋人のことを求めている──そう思えて仕方がなかった。理央は「まだ望みはある」と言っていたが、果たしてそうだろうか? 彼の心の中には突然いなくなった元恋人の葉月香しかおらず、そこに玲が入り込む余地なんて無いように思える。
HARUのツブヤイターは、あの日以降更新されていない。彼氏がコンクールの本選を控えており、レッスンに忙しいのかもしれない。玲も、あの日以降ツブヤキを投稿していない。HARUが葉月香であることはほぼ間違いなく、なにを話していいのか判らない。
そして。
玲の胸の内には、悪い予感もあったから。
その日の昼休みも、玲はいつものように屋上で過ごしていた。お昼ご飯を食べながらスマホのツブヤイターアプリを開く。タイムラインが表示され、玲は「あ──」と声を上げた。HARUがツブヤキを投稿していたのだ。
その内容を読んで、玲は言葉を失った。
【フォロワーの皆様へ。いつも応援ありがとうございます。このたびわたくしHARUは、一身上の都合により実家へ帰ることにしました。プロのチェロ演奏家を夢見て自分なりに努力してきましたが、いまだその道は見えて来ず、この辺りが潮時だと思うに至った次第です。】
悪い予感が当たった。三日前の夜、バスの中で理央から聞いた話では、葉月香は七年前のある日、突然プロになる夢を諦めて実家に帰ったとのことだった。葉月とHARUが同一人物なら、当然こうなる。
そのツブヤキはスレッドになっており、下に次のツブヤキが表示されていた。
【なんかちょっと固いかな?(笑)そんなワケで、プロの夢は今日限りですっぱり諦めます。この先どうするかはまだ決めていませんが、しばらくは実家でゆっくりしながら考えようと思っています。このアカウントは数日中に削除しますので、どうかご了承ください。】
こうなる予感はしていた。しかし、納得はできない。なぜ、夢を諦めるのだろう? なぜ、一人実家に帰るのだろう? なぜ──彼の前から去ってしまうのだろう?
ガマンできず、玲はリプライを打った。
【HARUちゃんなんで!? なんで突然夢を諦めちゃうの!?】
HARUからのリプライは、すぐに返ってきた。
【Reiちゃん、お返事ありがとう。心配かけてゴメンね。実はずっと前から考えていたことなの。今年のコンクールもミスばっかりでダメだったし、これ以上続けてもムリだって、判ったから。】
玲はさらにリプライを打つ。
【でも、彼氏さんはどうするの? 彼を支えるって、HARUちゃん言ってたよね?】
HARUからの答えは、すぐに返ってくる。
【彼なら、あたしの支えがなくても大丈夫。1人でもちゃんとプロになれるはず。】
そんな……それは違う。そう打とうとしたが、先にHARUからツブヤキが届いた。
【ねえReiちゃん、Reiちゃんが憧れてる先輩って、七森君のことだよね?】
息を飲んだ。考えてみれば、玲の方がHARUの恋人が七森だと気付いたのだから、HARUの方も玲の憧れの先輩が七森だと気付いてもおかしくは無い。
戸惑いながらも、玲は【……うん。】と、リプライを送った。
【そっか。やっぱりね。】
【でも、ただ憧れてるってだけで、付き合ってるとか、そんなんじゃないの。だから、怒らないで。】
【ううん、別に怒ってないよ。それはいいの。ただ、七森君、7年後もまだこのお店で働いてるんだ、って思っただけ。それって、プロになる夢は叶わなかったってことだよね。】
何と返事をしていいか、玲は迷う。確かにその通りなのだ。彼がコンクールの本選に合格し、夢を叶えていたなら、この店で働いているはずはない。
HARUの方から次のツブヤキが届いた。
【あたしがいると、彼は音楽に集中できないと思うの。あたしじゃ、彼にふさわしくない。】
それは違う。HARUがいるから音楽に集中できないんじゃない。HARUがいなくなったことで彼は傷つき、コンクールを落選し、そして、夢を諦めたのだ。
そうリプライを送ろうとしたが、できなかった。また、悪い予感がしたから。
七森はコンクール本選でも合格間違いなしと目されていた。しかし、恋人である葉月が突然別れを告げていなくなってしまったことで落選し、夢を諦めた。
もし、ここで、玲が【彼のそばにいて、彼を支えてあげて】というメッセージを送り、HARUが考えを改め、彼のそばにいて彼を支える決意をすると、どうなるのだろう? 過去が変わってしまうのだろうか? HARUは七森のそばで彼を支え、彼はコンクールに合格し、夢を叶えるのだろうか?
だが、そうなると。
七年後の現在、彼はこの店にいなくなってしまうのではないだろうか。玲の前からいなくなってしまうのではないだろうか。
そう考えると、メッセージを送る決心はつかない。
迷っている内に、HARUからツブヤキが届いた。
【Reiちゃんは、ガンバって夢を叶えてね。じゃあ、さよなら。】
玲は、【待って! HARUちゃん!】とリプライを送ったが、HARUからの反応は無かった。
休憩時間が終わり、フロアに戻っても、玲はHARUのことばかり考えていた。
玲が過去にメッセージを送ったことでHARUが七森と別れなければ、彼はきっとプロのバイオリニストになる夢を叶えるだろう。しかし、そうなると過去が変わってしまうことになり、七森はこの店にいなくなってしまうかもしれない。メッセージを送らなければ、きっと何も変わらない。だがそれだと七森は突然いなくなった恋人のことを忘れられないままだ。過去は変わるのか、変わらないのか。そして、玲にとって、どちらが良い結果となるのか……考えても、答えは出ない。
この日も平日で、音楽教室がにぎわい始める夕方まではほとんど客は来ない。レジを見ると、理央は品出しのため商品の準備をしていた。玲は売り場を離れてレジに入ると「売り場、暇だから手伝うよ」と言って、理央の隣で作業を手伝い始めた。
ピアノやバイオリンをはじめ、様々な楽器用の小物に値段を書いたシールを貼り、物によっては防犯用のタグを貼り付けていく。玲も昔レジ担当だった時によくやっていた作業なので、手慣れたものである。
作業を進めながら、玲は「ねえ理央ちゃん。変なこと訊くけど……」と、慎重に言葉を選びながら理央に話しかけた。「もしも、だよ? もしも、過去になんらかの情報を送って、過去の行動を変えたとしたら、今のあたしたちは、どうなるの?」
理央は作業の手を止め、「え? 何、突然」と、目を丸くした。
「あ、ちょっと、昨日映画で観た話なんだけど」と、玲はごまかし、そして続ける。「例えば、少し前に、あたし、予約品のフルートを別のお客さんに売って、クレームになったことがあったじゃない? もしあの時、フルートを売る前のあたしに『そのフルートは予約品だから売っちゃダメ』みたいなメッセージを送ることができたら、どうなるのかな? 過去が変わるの?」
玲は、あのフルート事件の時に現実逃避で考えていたことを思い出しながら、理央に説明した。理央はマンガ家志望で、様々なジャンルの作品を描いているようだ。こういったSFの話にも詳しいだろう。
理央は、突然深刻な表情になり、重い声で言う。「その場合、全宇宙が消滅してしまうわね」
「……そんなすごいことになるの?」予想を大きく上回る壮大な話に、玲は戸惑う。
「ええ。玲ちゃんは、『因果律』って言葉、知ってる?」
「なんか聞いたことはあるような気がするけど、詳しくはわかんない」
「因果律とは、『すべての事象には必ず原因があり、原因無しには何も起こりえない』という哲学的考え方のことなの。例えば、あたしは三日前にギョーザを食べた、すると、ギョーザクサくなった。これが因果律よ。この場合、『ギョーザクサくなった』という事象の前には『ギョーザを食べた』という原因があり、もし『ギョーザを食べた』という原因が無かったら『ギョーザクサくなった』という事象も起こらない、ってワケ」
理央は、商品準備の作業を中断し、身振り手振りを交えて説明する。ギョーザを食べたらギョーザクサくなり、ギョーザを食べなければギョーザクサくならない……そんなの当り前、というような気もするが、理央は哲学の話だと言っていた。玲にとっては完全に専門外の分野だが、哲学なんてそんなものかもしれない。
理央はさらに話を続ける。「ここでもし、あたしがギョーザクサくなった後、ライーンかなにかで、過去に【ギョーザを食べるな】というメッセージを送って、過去のあたしがギョーザを食べなかったとする。すると、どうなると思う?」
理央は挑戦的な視線を送って来た。謎かけを楽しんでいるような目だ。玲は今の理央の話を元に考える。『ギョーザを食べた』という原因があるから『ギョーザクサくなった』という事象がある。しかし、過去にメッセージを送ったことで、『ギョーザを食べた』という原因が無くなれば、当然『ギョーザクサくなった』という事象も無くなってしまうのではないだろうか?
「……たぶん、だけど、理央ちゃんはギョーザを食べなかったんだから、ギョーザクサくならないんじゃないかな」
「その通り。『ギョーザを食べた』という原因が無くなってしまうから、当然『ギョーザクサくなった』という事象も無くなってしまうの。でも、『ギョーザクサくなった』という事象が存在しないなら、あたしはなぜ【ギョーザを食べるな】というメッセージを送ったの? そのメッセージは、どこから来たの?」
「それは……」と言った後、続ける言葉に迷う玲。ギョーザを食べなかったらギョーザクサくならないから、ギョーザクサい理央は存在しなくなる。しかし、そうなると『ギョーザを食べるな』というメッセージを送る人がいなくなる。どう考えても、矛盾が生じる。
「判らないでしょ?」と、理央は玲の思考を読んだように言う。「これは、『ギョーザクサさのパラドックス』という、世界的に有名なパラドックスよ」
「……絶対違うでしょ?」
「まあね。ホントは、『親殺しのパラドックス』とか『時計のパラドックス』辺りが有名だね。でも、理屈は同じ。過去にメッセージを送ったり、あるいは過去に時間移動したりして、過去の出来事を改変すると、どうしても矛盾が生じてしまう。因果律が崩壊してしまうの。これは、世界にとってはとても致命的なもの。結果、全宇宙が消滅してしまうのよ」
「ギョーザを食べなかっただけで、そんな恐ろしいことが起こるんだね」
「そうなの。でも安心して。実際は、そんな恐ろしいことが起こらないよう、この世界を観測する神様、いえ、神よりも上位の者がいて、矛盾が生じそうになったら、強制的に時間を戻してしまうの」
「え? 時間が戻る?」
「ええ。この場合は、『ギョーザを食べるな』というメッセージが届いて、あたしがギョーザを食べなかったとしても、時間が戻ってやり直しになる。そして、届いたメッセージを無視してあたしがギョーザを食べるまで、何度でもやり直しさせられてしまうのよ」
理央の元に『ギョーザを食べるな』というメッセージが届いても、それを無視してギョーザを食べれば、世界に矛盾は生じない。ギョーザを食べるまで何度もやり直しさせられるのなら、それはつまり、過去を変えることはできない、ということになる。
理央はさらに話す。「これだと全宇宙が消滅することはないけど、ギョーザを食べるまで同じ時間を繰り返すことになってしまう。場合によっては、永遠にその時間から抜け出せなくなってしまうこともあるの。ハッキリ言ってこれは、『どうあがいても絶望』な、極めて凶悪な呪いね」
「でも、理央ちゃんなら、誰に何と言われようとギョーザを食べそうだから、安心だね」
「まあね」と言った後、理央は指を一本立てた。「もっとも、これはあくまでも解釈のひとつ。これとは違う解釈もあるの」
「どんなの?」
「同じように、あたしが『ギョーザを食べた』から『ギョーザクサくなった』として、過去に【ギョーザを食べるな】というメッセージを送り、過去のあたしはそのメッセージを見て『ギョーザを食べない』という選択をしたとする。これは、『ギョーザを食べた』という原因が、『ギョーザを食べない』という原因に置き換わったことになる。結果、『ギョーザクサくならない』という新たな事象が発生するの。つまり、『ギョーザを食べたらギョーザクサくなった』という世界の他に、『ギョーザを食べないからギョーザクサくならない』という、新しい世界が生まれるのよ。並行世界とか、パラレルワールドとかいうヤツね」
「ふたつの世界が同時に存在するってことね。そうなると、矛盾は生じないから、全宇宙が消滅することはないの?」
「そうとも限らないの。こういったことが繰り返されると、並行世界が増えすぎてしまうことになる。ギョーザだけでなく、あんかけ焼きそばを食べないという世界が生まれたり、カニチャーハンを食べる世界なんかも生まれるかもしれない。フカヒレと北京ダックをお腹いっぱい食べる世界なんてのもいいわね。こうなってくると、収拾がつかなくなるでしょ?」
「確かに。理央ちゃんいっぱい食べそうだもんね」
「だから、そうならないように、さっき言った、この世界を観測する神よりも上位の者は、異界ジェノサイダーを送り込んで、氾濫する並行世界を粛正していくの」
「しゅ、粛正!?」
「ええ。世界は生まれては消されてゆく。そして、最終的にはひとつの世界を残して他の世界は消滅するのよ。どの世界が残るのかは、まさに神よりも上位の者のみぞ知る、ってところね」
玲は、うーん、と唸りながら考える。永遠にやり直しさせられる世界と、永遠に増えては消され続ける世界……どちらも良い結果とは思えない
「なんだか、難しいけど……過去は変えない方が無難なのかな」考えた末、玲はそう言った。
「うーん、どうだろ?」と、理央は首を傾ける。「いま説明したのは、時間のパラドックスに対する解釈の一例で、あたしが好きなゲームの設定なの。時間のパラドックスに対しては、他にもいろいろな解釈がある。過去を変えようとしたその行動も歴史には織り込み済みで結局は何も変わらなかった、ということもあるし、過去が変わった瞬間歴史が上書きされて変えた本人も含めて誰も歴史が変わったことに気づかない、ってこともあるし、過去が変わったように見えて実は違う並行世界に移動していた、なんてのもある。この辺は、作品の設定によってまちまちだよ。ちなみに玲ちゃんが観た映画って、なんてタイトル?」
「え? あ、うん、えーっと……」そう言えば、この話は玲が昨日見た映画の話ということにしたんだった。もちろん、そんな映画は観ていないし、タイトルまで考えていなかった。「なんてタイトルだったかな? 忘れちゃった。あはは」
ちょうどお客さんが来たので、玲は商品準備の作業を中断し、「理央ちゃん、ありがと」と告げ、フロアに戻った。客は目的のものを買うとすぐに帰ってしまったので、接客することはなかった。
また仕事が暇になったので、玲は考える。さっきの理央の話では、過去が変わるにしろ変わらないにしろ、あまり良い結果にはならないように思う。
そして、もし過去を変えられたとしても、七森が夢を叶えたら、彼はこの店からいなくなってしまうのだ。
その結末を受け入れる覚悟は、今の玲にはできそうにない。