翌日の昼休み、玲は今日も屋上のいつもの場所でご飯を食べながらツブヤイターを確認していた。幸いHARUのアカウントはまだ削除はされていないが、更新もされていない。玲も、まだHARUに何らかのメッセージを送る決心はつかない。過去は変わるのか、変わらないのか。七森はいなくなるのか、いなくならないのか。いくら考えても結論は出ないであろう。だからこそ、玲にその決断はできなかった。
──なんだかあたし、自分のことしか考えてないよね。
不意に、そんな風に思った。結局自分は、七森がいなくなってしまうのがイヤなのだ。七森やHARUのことなど、何も考えていない。
もし、七森がこの状況を知ったとして、彼はどうしたいと思うだろうか?
七年前の七森には、プロのバイオリニストになるという夢があり、その夢が叶うのは目の前であった。だが、恋人の葉月が去ったことで、夢を叶えることはできなかった。七森としては、やはり葉月にはずっとそばにいてほしかっただろうし、夢を叶えたかっただろう。玲がメッセージを送ることで過去が変われば、それは七森にとっては望ましい結果のように思う。
では、HARUはどうだろうか? 玲としては、HARUには七森のそばにいてもらって、ずっと彼を支えてほしいという気持ちはある。しかし、HARUもHARUなりに考えて七森と別れる選択をしたのだろう。その結果、いま彼女は後悔していないのだろうか、それとも、後悔しているだろうか。判らないが、いまのHARUが幸せに暮らしている姿は、玲には思い描けない。
玲は、ツブヤイターにツブヤキを打ち込んだ。
【夢を諦めて、恋を諦めて、その後いったい、何が残るの?】
そのまま送信する。HARUへのリプライではない。相手は指定せず、そのままつぶやいたのだ。だがそれは、確実にHARUへ向けたメッセージでもあった。いわゆる『
──なにやってんだろ、あたし。
自分の行為がイヤになり、玲は投稿したばかりのそのツブヤキを削除した。相手に直接伝える勇気が無いから空リプするなんて卑怯だ、という気持ちもあるが、本音では、もしHARUが今のツブヤキを見て考えを改めたら過去が変わるかもしれない、と思ったからだった。
そんなことをしているうちに昼休憩が終わる時間が近づいてきた。玲はスマホをしまうと、屋上を後にした。
フロアに戻ると、レジから理央が手招きをしてきた。なんだろう? 玲は売り場を離れ、レジに入る。
「どうしたの? 理央ちゃん」
玲が訊くと、理央は声を潜めて話し始める。
「あたし、午前中、店長から頼まれて事務所で古い書類の処分をしてたんだけどね、その時、
たまたまのところだけやたらと強調する理央。確かに、午前中カウンターに理央の姿は無かった。客が少ない時間帯に店長から様々な仕事を任されることはよくあるので、特に気にしてはいなかった。
理央は話を続ける。「で、あたし、
「とっ、特殊能力!?」
「そう。目に映ったものを、カメラで撮影するみたいに、一瞬で記憶できるの」
「……結構長い付き合いだけど、初めて聞いたよ」
「そうね、あたしも初めて言った」
「でも、そんなの覚えて大丈夫なの? 個人情報だよ?」
「いや、しょうがないのよ。玲ちゃんの言う通り、履歴書なんて個人情報の塊だから、持ち帰ったり、書かれてあることもメモしたりするのは個人情報保護法に違反する。でも、一瞬で記憶できてしまうこの能力が悪いの。まあ、履歴書自体はちゃんと処分したし、メモしたんじゃなくて記憶に焼きついただけだし、黙ってればバレないと思うわ。でね、履歴書だから、当然葉月さんの実家の住所が書いてあったんだけど、バッチリ記憶したから、あたし、今度行ってみようと思うんだ」
「え? 葉月さんに会うの?」
「うん。このバイトはじめた頃、あたしホント葉月さんにお世話になったの。なのに突然やめちゃったから、全然お礼とか言えてないんだよね。いい機会だから行ってみる。良かったら、玲ちゃんも、一緒にどう?」
「ええ? なんであたしが?」
「いや、別に深い意味は無いんだけどさ」と、言いながらも、理央はどこか意味ありげな表情で続ける。「せっかくだから、玲ちゃんと二人で旅行に行こうかなーと思って。葉月さんの実家、高速バスで橋を渡って三時間くらいだから日帰りできるし、鯛めしとか、焼き鳥とか、焼豚玉子飯とか、おいしいものいっぱい食べられるよ? 玲ちゃんも、もし葉月さんに会ってみたいなら、会ってもいいと思うし」
あまりに突然の誘いだった。玲は葉月と一緒に仕事をしたことはないので、面識は無いと言っていい。しかし、葉月とHARUは同一人物でほぼ間違いないから、お互い知り合い同士ではある。突然会いに行ったりしたら向こうは驚くだろうが、良いアイデアのように思えた。過去にメッセージを送ると、過去が変わって七森がこの店からいなくなるか、最悪の場合全宇宙が滅びてしまうかもしれないが、これから会いに行くのであればその危険性は無い。今のHARUが後悔しているのか、していないのか……玲は、それを知りたい。
玲は、「うん、行く」と、答えた。
「やった。じゃあ、お仕事終わったら、計画立てなきゃね」
理央はぱちっとウインクをした。
ふたりは夕方六時に仕事を終え、休憩室で計画を練る。ちょうど一週間後に休みが合うので、その日に行くことにした。行き帰りのバスの時間を確認し、待ち合わせ場所を決める。
「……七森さんには言うの? 葉月さんに会うこと」
大まかな時間を決めた後、玲は理央に訊いてみた。ちなみに今日七森は休みで、店にはいない。
「うーん、今のところは言わないつもり。葉月さんに会ってから、七森さんに実家の住所を教えてもいいか訊いてみて、OKだったら話してみるよ」
玲としては、七森にはHARUと話し合ってもらいたいという気持ちもある。だが、それがどういう結果になるか判らないし、HARUの方は彼と会うことを望まないかもしれない。理央の言う通り、HARUに会ってから決めるのが一番だろう。
「じゃあ、とりあえずこの日に決定ね。鯛めしに焼き鳥に焼き豚玉子飯、楽しみだなぁ。お土産は鶏卵饅頭やうずしおパイなんかが有名らしいよ? おいしい店、探しておかないと。玲ちゃんも調べといてね? 他に行きたいところがあったら、遠慮なく言ってね」
ということで、二人は一週間後、葉月の実家がある町へ行くことになった。
一週間が経ち、中心街にあるバスターミナルで待ち合わせをした二人は、朝八時前の高速バスに乗り、いくつもの橋を渡って葉月の実家がある町へやって来た。時刻は昼の十一時前。まずは腹ごしらえと、理央がネットで見つけた海辺の和風料理店で鯛めしと天ぷらとお刺身がセットになった定食を食べ、その後葉月の家へ向かった。
路線バスをいくつか乗り継ぎ、二人が降りたのは、山と海に囲まれた小さな漁村だった。バス停の目の前は海だ。堤防に囲まれた漁港にいくつもの漁船が停泊しており、潮騒と共に爽やかな風が吹き渡る。海鳥の声も聞こえてくる。海鳥は堤防や漁船の上にとまり、羽を休めているのかと思いきや、なぜかとまったまま羽根をバサバサと羽ばたかせていた。
バスが行ってしまうと、大通りに車の姿は無くなった。人影もなく、実にのどかな雰囲気である。
「……えーっと、確かここらへんだと思うんだけど」
理央はスマホの地図アプリを頼りに葉月の家を探す。住所は特殊能力で覚えたんじゃないんかい……などとツッコむ余裕は、今の玲には無い。これから葉月──HARUに会う。彼女は喜ぶだろうか、それとも戸惑うだろうか。もしかしたら、会いたくないと言われるかもしれない。それでも、会わなくちゃいけない。聞きたいことは沢山ある。いま何をしているのか、夢を諦めたことや、七森と別れたことを、後悔していないのか。そもそもなぜ別れたのか。そして、伝えたい。七森は、今もいなくなった恋人のことを求めていると。願わくは、もう一度ちゃんと二人で話し合ってほしいとも思う。その結果どうなるかは玲にも判らない。ただ言えるのは、いま七森が抱えている孤独を取り除けるとしたら、それはHARUだけなのだ。
「あったあった。ここだ」
理央は大通りに面した家の前で立ち止まった。三角屋根の二階建て、ライトブルーの外壁が目を引く家だった。玄関へ回ると、理央はためらいなくドアホンを押した。彼女がいてくれて良かった。もし玲一人だったら、覚悟が決まらず家の前でうじうじしていたことだろう。
《──はい》
ブツッ、とノイズがした後、ドアホンから女性の声がした。年配の女性のようだ。
「すみません。こちらは、葉月香さんのおうちで間違いないでしょうか?」
《……そうですが》
理央の問いに、ドアホンからはどこか戸惑ったような声が返ってきた。
「突然で申し訳ありません。わたくし、大村理央と申します。以前、香さんと同じ職場で働いていまして、大変お世話になった者です」
《……香に?》
「はい。ご連絡も差し上げずにいきなり押しかけて本当に恐縮なのですが、香さんはいらっしゃいますか?」
《……お待ちください》
またブツッと音がして、ドアホンが切れる。しばらくして、玄関のドアが開いた。出てきたのは六十代くらいの女性だった。HARUの母親だろう。
「こんにちは、突然申し訳ありません」
理央がぺこりと頭を下げたので、玲もそれにならう。
「香の、昔の職場の方?」
母親の言葉に、理央は「そうです」と頷いた。「香さんが大学生の頃からアルバイトをしていた楽器店で、今も働いています。香さんと一緒だったのは、七年くらい前ですね。あたしはまだ高校生で、入ったばかりで何も判らないあたしを、優しく指導してくれました」
「そう……ですか」
母親の表情は暗い。どう見ても歓迎はされていないようだ。もちろん、最近は様々な特殊詐欺や、闇バイトによる強盗事件なんかもあるから、見ず知らずの人がいきなり訪ねてきて警戒する気持ちも判る。だが、母親の顔は訪問者を警戒するものではないように思えた。何かとても辛いことがあったような、そんな表情だ。
「香さんは……ご不在ですかね?」
理央が言った。本人ではなく母親が出てきたということは、そういうことかもしれない。まだお昼過ぎだから仕事中ということは充分あり得る。その場合は帰宅時間を訊き、近くのカフェか何かで時間をつぶすつもりだった。
だが。
母親は、玲たちが想像もしていなかったことを、告げた。
「香は……五年前に、
最初、玲はその意味が正しく理解できなかった。
「──えっ」
理央が、ピクリと身体を揺らした。何かに驚いたような反応。何にそんなに反応したのか、玲にはまだ判らない。
「
「はい。胃の、
「────」
理央が言葉を失った。玲も、ようやく、母親の言葉の意味を理解する。
──五年前に、
漁港の堤防から、海鳥たちが一斉に飛び立った。そのうちの一羽が鳴き声を上げる。それは海風とともに聞こえてくる爽やかな声ではなく、まるで暗い森の奥で響いているような不気味な声だった。