会場の準備が整い、コンサートが始まるまでの間、玲は理央からHARUのことを聞いた。
七年前に病気が発覚し、治療に専念するためにこの店を辞め、実家に帰った──そこまでは、玲の記憶と同じであった。
変わったのは、病気のことを七森に告げたことだった。余計な心配をかけさせたくない──彼女は、その考えを改めたのだ。
その結果、七森も一緒に、HARUの故郷へ向かうことになった。七森は、HARUにプロポーズしたのだ。
HARUは、初めは受け入れなかったという。HARUの病状は深刻で、治る見込みは低く、そんな自分と一緒になることはない、そう言ったそうだ。しかし、七森の決意は固かった。HARUは七森のプロポーズを受け入れ、二人は結婚した。
こうして、二人の闘病生活が始まった。
二人はHARUの故郷の町に住むことになったため、そこから二年間のことは、理央も詳しくは判らないと言う。時々ライーンや電話で連絡を取るくらいだったが、HARUは日に日に元気になっているように思えたそうだ。
HARUから退院の報せが届いたのは、闘病から二年後のことだった。再発の見込みも無いわけではないが、それでも、日常生活を送るには充分なまでに回復した。
そこからは、闘病生活に代わり、二人が夢を取り戻すための戦いが始まった。
お局さんから聞いた通り、七森はその年の新日本弦楽器コンクールのバイオリン一般アマチュア部門で見事優勝し、念願のプロデビューを果たした。その後は日本から世界へ羽ばたき、先月のイザベラ王妃国際音楽コンクールで日本人初の優勝という快挙を成し遂げ、誰もが認める国際的バイオリニストとなった。
退院したHARUも、チェリストの夢をもう一度追いかけはじめた。闘病による長いブランクがあったためかなり苦戦したようだが、七森のプロデビューから二年後、つまり今から三年前、新日本弦楽器コンクールのチェロ一般アマチュア部門で優勝し、彼女もまたプロへの扉を開いた。病気のことがあるので、七森のように海外のコンクールに挑戦したり、長いコンサートに出演したりはできないが、それでも、七森のパートナーにふさわしい立派なチェロ演奏者になったという。
「──お待たせしました、それでは『七森亮バイオリンコンサート』の開演です!」
理央から話を聞き終えたとほぼ同時に、ステージ上で司会の女性が言った。会場内の観客から拍手がわき上がる。いまや七森亮はケンミン文化センターどころか都市部のスーパーアリーナさえ満席にできるほどの音楽家だが、この音楽サロンは椅子を詰めに詰めてようやく五十席だ。チケットの倍率はウン千倍ウン万倍とも言われ、会場に入れたのは抽選で選ばれた強運の持ち主だけだ。そんな中、玲は会場内で客を誘導する係として会場内に留まることができた。一応コンサートスタッフという形ではあるが、コンサートが始まれば特にすることはなくなるので、立ち見ながらタダで鑑賞させてもらうようなものである。恐らく店長となった理央の計らいであろう。
七森とHARUが現れた。五十人の観客とスタッフが盛大な拍手で迎える。二人はステージに登壇し、一礼した。そして、七森はバイオリンを、HARUは椅子に腰かけチェロを構える。拍手が治まり、観客は静かに始まりの時を待つ。
今回のミニコンサートは、途中二人のトークを挟んで全三曲、一時間程度を予定している。一曲目は、音楽の父・バッハ作曲の『G線上のアリア』だ。
七森がバイオリンの弓を引くと同時に、サロン内の静寂の中に花が咲いた。世界の頂点に立った音色の花。左手の指の動きに合わせて音が変わると、別の花が咲く。また音が変わり、また花が咲く。会場内は、音色の花に包まれてゆく。
HARUは、七森の音に合わせ、弓ではなく指で弦をはじき、音を刻む。バイオリンとは対照的な低音が、断続的に続く。それは、土の中から花へ栄養を届けるような音色だった。HARUの音が、七森のバイオリンから花を咲かせている。
ゆったりとしたテンポで曲は進む。その中に、時おり不安定な音が鳴る。一輪の花がしぼみ、枯れたような音。もちろん、それは演奏ミスではない。この曲は、あえて不協和音を使用することで、悲しみや寂しさを連想させるようになっているのだ。
華やかさと悲しみが混じる曲調が続いたが、後半に差し掛かると、音は少しずつ温もりを増す。陽が昇り、朝日を浴びたかのような旋律。最後の花が開こうとしている。七森も、最後の音を奏でる。同時に、それまで指で弦をはじいていたHARUが、弦に弓を添えた。そして、七森に寄り添うように、ゆっくりと引く。バイオリンの高音と、チェロの低音が重なり合い、最後の花を咲かせる。七森が弦から弓を離し、HARUも弓を弾き切った。バイオリンの音色の花は姿を消し、変わって、二人の演奏を讃える拍手の花が咲き乱れる。
「素晴らしいわ」玲の隣で、理央がうんうん唸りながら言う。「あえて不協和を使用することで生み出される独特の寂しさ、G線だけで奏でられる重厚な音色……バッハとヴェルヘルミ、二人の天才が生み出した傑作よ」
「え? 理央ちゃん詳しいね」驚く玲。玲が知る理央は、楽器店で働いていながら音楽はアニソンかゲーム音楽くらいしか知らなかったはずだ。
「当たり前でしょ? だてに店長してないわよ」理央はドヤ顔で言った。
理央の言う通り、『G線上のアリア』は、バッハが一七世紀に作曲した『管弦楽組曲第3番』の中の一曲『アリア』を、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて活躍したドイツのバイオリニスト・ヴェルヘルミがバイオリンとピアノのために編曲したものである。その名が示す通り、バイオリンの最低音域の弦であるG線だけで演奏できるようになっているのが特徴だ。A線やD線で弾ける音域を、あえてG線のハイポジションで弾くことで、独特の重厚な音色が生み出されるのだ。
七森とHARUは観客の拍手に深く礼をして応える。しばらくして、司会者が再び壇上に現れた。
「改めまして、イザベラ王妃国際音楽コンクール・日本人初優勝・七森亮さん。そして、新日本弦楽器コンクール・チェロ一般アマチュア部門優勝・七森香さんです!」
司会者が改めて紹介し、会場内はまた拍手に包まれる。七森がマイクを持った。
「ご来場ありがとうございます、七森亮です。今日は、僕たちの音楽の原点でもあるこの町の、このお店でコンサートを開くことができて、本当に嬉しく思います」
再び拍手が贈られる。続いて、HARUがマイクを持った。
「ご来場ありがとうございます、七森香です。妻という立場を利用して、僭越ながら世界一のバイオリニストと共演させてもらっています」
HARUのジョークに、会場内は笑いに包まれる。七森も苦笑いしている。まあ、確かに肩書きで言えばHARUは七森より劣るかもしれないが、新日本弦楽器コンクールのチェロ一般アマチュア部門だって日本最高レベルのコンクールだ。それに優勝したならば、演奏のレベルは決して劣ってはいないであろう。
HARUは続ける。「亮とあたしは、この町で音楽を学び、このお店に支えられて、音楽家の道を歩み始めました。その恩返しとして、こうして二人でコンサートを開くことができ、音楽家としてこれ以上の喜びはありません。短い時間ではございますが、どうぞ最後まで楽しんでいってください」
二人の紹介とあいさつが終わり、次の曲の演奏となる。二曲目は、ヴィヴァルディの『四季』より『夏』第3楽章だ。
一曲目から一転、荒々しい演奏がはじまる。ヴィヴァルディがこの『夏』第3楽章で表現したのは嵐だ。雷鳴が鳴り響き、
高速で巧みな演奏。それを的確に奏でながら、二人は時折目を合わせてはほほ笑む。いま、二人はこの難しい演奏を楽しんでいる。自分が奏でる音に酔う──音楽家の特権だ。
約三分に渡る荒々しい演奏が終わった。会場内は、音楽の嵐にも負けない拍手の嵐が巻き起こった。
HARUは拍手に応えながら、安堵の表情を浮かべた。演奏に集中していて気付かなかったが、HARUは全身汗だくだった。あれほど激しい楽曲を全力で奏でたのだから、無理もない。
再び司会者がステージに上がった。「ありがとうございました。それではここで、少しお時間を頂き、お二人にお話を伺いたいと思います」
ここからは一〇分程度のトークショーとなる。七森とHARUは一度楽器を横に置き、椅子に座ってマイクを持った。司会者が、コンクールを受けた時の心境や、受賞の喜び、久しぶりに帰ってきた町の様子などを質問し、七森が回答する。HARUに話が振られることもあるが、トークの中心は七森だ。国際コンクール優勝直後なので当然であろう。また、これはHARUの体調面を考慮した休憩時間でもある。HARUは七森の話を聞きながら、ハンカチで汗をぬぐい、呼吸を整えている。
七森がコンクールの感想や町の思い出などをひと通り語り終えると、司会者は「さて」と言って、観客の方を見た。「本日ご来場いただいたお客様の中にも、お二人にお聞きしたいことがあるかと思います。せっかくなので、質問コーナーとしましょうか」
この音楽サロンは通常のコンサート会場とは比べ物にならないくらい狭いが、その分、ステージと客席が近く、このような観客からの質問形式でのトークも行えるのは大きな利点であろう。
「では、お二人に何か質問がある方は、手を挙げてください」
司会者が観客に向かってそう言うと。
「はい! はいはい! はーい!!」と、真っ先に手を挙げたのは理央だった。そして、司会者から指されるのも待たず、「香さんは、どうやって病気を克服したんですか?」と質問する。
HARUは驚いたような呆れたような顔でマイクを持った。「これだけお客さんがいるのに、店長が一番に質問するんですか? しかも、彼じゃなくてあたしに?」
「いいじゃないですか」と、理央は気にしたふうもない。「たぶん、みんなも聞きたいと思いますよ?」
そう言うと、観客から同意する拍手が鳴った。理央の言う通り、みんなも聞きたいようだ。七森も、いいじゃないかという風に手をかざし、話を促す。
「えー、困ったな」
HARUは照れたように首を傾けると、「そうですねぇ」と、言葉をひとつひとつ選ぶようにして、話し始めた。
「病気が発覚した時、あたしは、亮を始め、誰にも伝えず一人で頑張ろうと思っていました。『これはあたし一人の問題だ、みんなを心配させちゃいけない』って、自分に言い聞かせ続けました。でもそれは、一人で病気を戦う決意をした、というわけじゃなくて、ただ話す勇気が無かったんです。でも、ある人から貰ったメッセージが、あたしに勇気をくれました」
HARUは、会場の奥にいる玲に視線を向けた。
「【やれることはすべてやりなさい。そうじゃないと、いつかきっと後悔するから。】──そのメッセージが、あたしを変えてくれたんです」
あたしのメッセージだ──玲はそう思った。
「おかげで、あたしは亮に病気のことを伝えることができました。あの頃、亮は大切なコンクールを控えていたのに、それを諦め、闘病するあたしを支えてくれました」
帰郷したHARUと、それに寄り添う七森。二人の闘病生活が始まった。手術や抗がん剤治療に加え、免疫療法や遺伝子治療などの新たな治療法も検討され、HARUの病状に合わせた様々な治療が試みられた。
そして、二年後。HARUは奇跡的に回復した。
「闘病生活は、あたしが考えていたよりもずっとつらく苦しいものでした。あたし一人では、とてもじゃないけど頑張れなかったと思います。でも、彼がそばにいてくれたから頑張れました。あたしのせいでコンクールを諦めた彼に、もう一度プロを目指してもらうため──そして、あたし自身、彼を支えられる音楽家になりたくて、病気と闘うことができたんです。亮には、今でも本当に感謝しています」
会場内から涙混じりの拍手が贈られる。玲も、二人の絆に拍手を贈った。
「──そして」
二人の絆を示して話は終わると思いきや、HARUはさらに言葉を継いだ。「あたしに勇気をくれたあのメッセージを送ってくれた方、実は今日この会場にいらっしゃるんです」
HARUは、玲に向かって手をかざした。会場内の観客の視線が、後方の玲に注がれる。
「メッセージを貰ったのは七年も前なんですが、直接お会いするのは今日が初めてなんです。ちょっとこの場をお借りして、お礼を言わせてください」
HARUは椅子から立ち上がると、真っ直ぐに玲を見た。
「玲ちゃん。今日、あたしがこのステージに立って、亮と二人、こうして音楽を奏でられるのは、すべて、玲ちゃんのおかげです。この七年間、本当に逢いたかった。あの時、あたしに勇気をくれたこと、本当に感謝しています。ありがとうございました」
HARUは、深く、静かに、頭を下げた。
トークが終わり、コンサート再開となる。三曲目は、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』だ。ドドソソララソ、ファファミミレレド──小学生でも知っているおなじみの音階が、世界一のバイオリニストから奏でられる。『きらきら星』は、かなり初心者向けの曲だ。バイオリンを習い始めた人が初めに習う曲であることも多く、早い人なら一日で弾けるようになる。
『きらきら星変奏曲』は、そんな馴染みのある名曲を、十八世紀を代表する天才音楽家にして音楽界一の変人・モーツァルトが十二の変奏曲として作曲したピアノ曲だ。おなじみのメロディーが、音の速さ、音域、リズムを変え、十二の異なる姿に変わるのである。七森たちが演奏しているのは、バイオリンとチェロの二重奏用に、七森が独自にさらなるアレンジを加えたものもある。二奏目、三奏目と、形を変え、姿を変え、変奏曲は続く。HARUのチェロは七森の演奏に寄り添い続ける。だが、最後の十二変奏目、HARUのチェロがきらきら星を奏で、七森のバイオリンが寄り添う形となった。チェロの低音が奏でるきらきら星の旋律が、会場内を包み込む。心地よい星空の下、十二の変奏は終わった。
そして、それは今日のコンサートで予定していたプログラムの終了でもある。演奏を終えた二人に拍手が贈られる。七森とHARUは手を振って応える。拍手は鳴りやまない。これは、クラシックコンサートにおけるアンコールだ。通常ならば、もう一曲追加で演奏される。演奏者も概ねアンコール用の曲を準備しているものだ。だが、今回のコンサートは、少し事情が異なる。
七森がマイクを持った。「申し訳ありません。妻の体調のこともあり、今回アンコールはありません。ご了承ください」
謝罪する七森。HARUの病気は完治したわけではない。音楽の演奏はスポーツにも負けないくらい体力を消耗する。HARUの体調面を考慮すれば、アンコール無しは仕方のないことだろう。観客も、本当にアンコールを期待していた訳ではないはずだ。コンサートを聴き終えた礼儀として送っただけだ。
だがHARUは、「あら、あたしなら、大丈夫よ」と、なんでもないような口調で言った。「むしろもっと演奏したいし、やろうよ」
再び拍手が沸き起こる。「大丈夫か?」と、心配そうに問う七森に、HARUは笑顔を返す。七森が了承した。ただ、事前にアンコールを予定していなかったため、なにを演奏するかは決めていないはずだ。何を演奏するのだろう。二人はステージの奥で客に聞こえない声で話し合う。HARUが何か告げ、七森がうなずいた。曲が決まったようだ。
二人が演奏する場所に戻った。マイクを持ったのはHARUの方だった。
「これはあたしたちがこのお店で働いていた頃、よく勤務後の屋上で演奏していた曲です」
その言葉に、はっとする玲。勤務後の屋上──玲と、そしてHARUが、ずっとお気に入りだった場所。あの、夕日の屋上。
二人がそれぞれの楽器を構える。目を合わせ、頷いた。七森が弓を引いた。あの日聴いた奇跡の音色が、再び玲の前で奏でられる。音色は緩やかな階段を下りるように、ゆっくりと音階を下げ、やがて上がり、また下りる。二小節八音の演奏が終わると、それに続くようにHARUが演奏を始める。七森と同じ演奏を、チェロの低音が奏でる。同じメロディーが、高さを変え、二回繰り返される。観客もすぐに気が付いた。
『パッヘルベルのカノン』
あの日、あの夕陽の屋上で、玲の心を激しく揺さぶった曲。同時に、七森にどうしようもない孤独を感じた曲。
七森がHARUを見つめる。HARUも七森を見つめ返す。二人の視線が合い、ほほ笑み合う。二人が息を合わせ、音を合わせ、より大きなハーモニーを生み出す。
そして、演奏はこの曲で最も有名なパートへ進む。音が弾む。川面に降り立ってステップを踏む妖精のような、弾む演奏。そこに、妖精がもう一人降り立った。あの時は一人しかいなかった妖精が、今日は二人。あの日は追い掛けて来る人がいなかった孤独な追いかけっこが、今日は彼のパートナーが追いかけて来てくれる。あの日、彼がずっと求めていた人が、今日はそばにいる。
──でも。
まだ、足りない。
カノンは三重奏だ。追いかけてくる人が、もう一人必要だ。
不意に。
HARUの視線が、玲に向けられた。
あたしを求めている──玲はそう感じた。
その瞬間。
二人しかいないはずのステージの奥に、もう一人の姿が浮かび上がった。グランドピアノを奏で、二人を追いかける玲。
だが、それはただの幻で、そこに玲はいない。玲はまだ、そこには立てない。この狭い会場内の最も離れた場所から、二人の演奏を見守るしかない。
それは、HARUから玲に送られたメッセージだった。
──待ってるからね。
演奏が終わり、観客からは盛大な拍手が贈られる。理央も拍手を贈る。二人の演奏をたたえる拍手が、会場を包み込む。玲は拍手できなかった。泣いていた。二人の演奏に感動した涙……ではない。悔し涙だった。今日、あのステージで、二人を追いかけることができなかった自分。ただステージから離れた場所で見守るしかなかった自分。その悔しさが、玲に、拍手ではなく、涙を流させる。
でも。
今日、この涙を流せることを、嬉しくも思う。悔しいのは、自分も演奏したいと思ったからだ。二人と一緒にピアノを弾きたいと思ったからだ。この悔しさがあれば、玲はまた、ピアノと向き合える。音楽を続けられる。
──やれることはすべてやりなさい。そうじゃないと、いつかきっと後悔するから。
七年前の自分に向けようとした言葉が、七年前のHARUに送った言葉が、二時間ほど前、自分の胸に刻みつけた言葉が、玲の胸の内の、消えかけていた情熱を、再び燃え上がらせた。
──あたしだって!
玲は顔を上げ、ようやく、ステージ上の二人に拍手を贈ることができた。