七森から無事フルートを届けることができたと連絡があったのは、夕方の六時前だった。
《母親も息子さんも喜んでたよ。これで今晩の発表会はバッチリだ、って。木崎にもお礼を言ってた》
電話で七森はそう話した。あの母親が七森だけでなく玲にまでお礼を言うのは考えづらい。恐らく彼の気遣いだろう。玲は「そうですか。間に合って、本当に良かったです」と言って、改めてお礼を言った。これで、ひとまず一件落着と言っていいだろう。
七森は三十分ほどで帰るという。電話を切り、腕時計を見る。玲の勤務は六時までなので、そろそろ退勤時間だ。大きなトラブルになったものの、一応玲が今日三十三万円のフルートを販売したことにはなるので、売上目標は達成している。しかし、さすがにそのまま帰るわけにはいかない。玲はタイムカードを切った後、七森の帰りを待つことにした。
バックヤードからスタッフ専用の階段を上がり、屋上へ向かう。玲がアルバイトをしているこの楽器店は、市街地の大通りに面した五階建てビルの大型店だ。玲たちが担当しているのは一階の鍵盤楽器や弦楽器などを販売するフロアで、その他にも、ギター専門のフロア、音楽書籍や楽譜などを扱うフロア、さらには、子どもの習い事からプロを目指す若者・中高年の趣味まで幅広いコースがある音楽教室や、ちょっとしたコンサートも行える音楽サロンまで備えた、地域最大級の楽器店である。働いているスタッフも多く、屋上は休憩などに使えるようスタッフ専用に解放されている。
出入口のドアを開けると、車や路面電車の走行音とともに、温かな風が吹き込んできた。季節は初夏。爽やかな風に吹かれながら眺める景色は抜群……と言いたいところだが、周囲には十階建て以上のビルが立ち並んでいるため、吹き付ける風は生ぬるいビル風で、見えるのもビル群だけだ。正面には大通りに沿って内科クリニックや進学塾などが入った雑居ビルが立ち並び、その向こうに老舗のデパートがある。そこからまた雑居ビルが並び、さらにその向こうには五年前に建てられた県内最高層のタワーマンションがそびえ建っている。周囲に高いビルが建ち並ぶと妙な圧迫感があるため爽快とは言い難いが、それでも、もう少しすれば日の入り時間となり、夕陽に染まる真っ赤なビル群を眺めることができる。
屋上には玲以外誰もいなかった。スタッフに解放されているとはいっても、そのほとんどを空調設備や貯水タンクが占めているのでかなり狭い。エレベーターもないため、わざわざ階段を上がってここまで来る人は少ないのだ。だからこそ、玲はこの屋上が好きだった。特に今日のように大きなミスをしていろんな人に迷惑をかけてしまった日は肩身が狭いため、ひと目を気にしないでいられるのがありがたい。
出入口の裏に回り、貯水タンクへ上がる階段に腰を下ろす。ここが玲のお気に入りの場所だ。スマホを取り出して電源を入れる。電話もメッセージも届いていなかったので、ツブヤイターのアプリを開いた。ツブヤキと呼ばれる最大一四〇文字の短い文章を投稿する、世界中で人気のSNSである。高校三年生の頃から利用しており、ピアニストやバイオリニストなどの音楽家を中心にフォローしていた。それらのツブヤキをチェックし、いくつかにイイネを押した後、自分のプロフィールページを開く。Reiというユーザ名と、ピアノの鍵盤をアップで映したアイコン、簡単な自己紹介の下に、最新のツブヤキが表示される。
【今日こその売上目標達成しないと店長からイヤミを言われそう……憂鬱】
今朝、ご飯を食べながら投稿したツブヤキだ。玲はSNSでリアルな知り合いと繋がるのを避けており、フォロワーに会社の人はいない。そのためこういった仕事の愚痴を投稿できる。
この投稿をしたときは、なんとか売上目標を達成したいという気持ちがあった。だから、開店直後に三十三万円のフルート販売というおいしい話に飛びついてしまったのだ。その結果、予約の確認を怠り、大きなトラブルになった。
玲はスマホを操作し、今朝のツブヤキに対して【限定フルートは予約品だから売っちゃダメ!】とリプライを投稿した。リプライがスレッドになって表示される。その画面を眺めながら、なんだか虚しい気持ちになり、玲は大きくため息をついた。お昼に女性客の対応をしているとき、玲は『過去にメッセージを送れたら……』などと考えた。今のリプライが本当に過去の自分に届けば、客に迷惑をかけることもなく、玲も怒られることもなく、七森に余計な手間をかけさせることもなかったのだが、現実にはそんなことは不可能だ。
玲はしばらく画面を眺めた。今のリプライに対して、誰からもリプライやイイネは来ない。玲のフォロワーは五十人ほどだが、みんな玲のツブヤキには見向きもせず、それぞれ自分のツブヤキをしている。朝のツブヤキにも反応はない。玲は画面をスクロールさせ、自分のツブヤキを見返す。
【今日も目標達成ならず、ていうか額が高すぎる。平日の昼間にそんなにお金を使う客なんてそうそう来ないよ】
【お客さんに言いがかりに近いクレームを付けられた、ムカツク!】
【大きな販売が決まって売上目標達成できたと思ったのに、さっきキャンセルされた! ショック!!】
……など、仕事の愚痴ばかりが並ぶ。最近はすっかり愚痴アカウントと化している。フォロワーからの反応も無く、完全にひとり言だ。今日だけでなく、もうずっとこんな状態である。元々フォロワーが少ないというのもあるが、愚痴アカウントは嫌われる傾向にあるため、ツブヤキが表示されないようミュートされているのかもしれない。玲もフォロワーに見てもらいたくて投稿しているわけではない。行き場のないもやもやした日々の気持ちを吐き出す場所として使っているだけだ。少なからずストレス解消になるし、まれに誰かからイイネやリプライを貰うこともある。そんな時は、こんなツブヤキでも誰かに共感してもらえることもあるんだな、と思えるのだ。
──昔はこんなんじゃなかったんだけどな……いつからこんな愚痴アカウントになったんだろ。
玲がツブヤイターを始めたのは七年前だ。初めて投稿したときのことは今でも覚えている。そのツブヤキはブックマーク登録しており、今もすぐ見ることができる。玲は、ブックマークを開き、初めてのツブヤキを表示した。
【音大に合格したよ! ピアニストになる夢に一歩近づいた! これからもがんばる!!】
高校三年の冬、地方では有数の音楽大学・イザベラ音楽大学に合格した記念に投稿したものだ。始めたばかりでまだフォロワーがいなかったにもかかわらず、祝福のリプライやイイネをたくさん貰った。まだ、玲の心が夢や希望にあふれていた頃──ピアノへの情熱が最も燃え上がっていたときだ。それが今はどうだ。音大を卒業して三年。プロのピアニストどころか、楽器店の店員としても半人前だ。夢や希望はすっかり枯渇し、あれほど燃え上っていたピアノへの情熱もしっかり下火となって、鎮火寸前である。
玲がピアノを習い始めたのは七歳のときだ。プロを目指すには少々遅いと言える歳だったが、それなりに才能を発揮し、発表会ではまずまず評価された。中学三年生の時には県のコンクールで銀賞を取ったこともある。プロのピアニストを夢見るようになったのはその頃だ。だが、残念ながら玲の地元には音楽科がある高校は無く、地元を離れる決心もつかなかったので、高校は普通科を選んだ。合唱部に所属してピアノ伴奏をしながら三年間過ごし、隣の県にあるイザベラ音楽大学に見事合格したのである。
その後、親元を離れて一人暮らしを始めた玲は、ほどなくこの音楽店でのアルバイトを始めた。勤務時間は夜の六時から十時までの四時間、最初はレジ担当だった。昼は大学で授業やレッスンに励み、夜は楽器店でバイトをしながら、プロのピアニストを目指した。
通常、プロの音楽家を目指す者は、大学在籍中からコンクールやオーディションに挑戦する。そこで良い結果を残すことができればプロデビューの道が開けるのだ。玲は多くのコンクールに挑戦したが、残念ながら良い結果を残すことはできなかった。もっとも、これは玲が落ちこぼれだったという訳ではない。ピアノに限らずプロの音楽家の門は極めて狭い。同学年のほとんどの者が玲と同じく結果を出せていなかった。やがて卒業が近づき、多くの者はプロへの道を諦め、就職活動を始めた。玲も就職すべきかとさんざん迷ったが、夢を諦めることはできず、大学卒業後もバイトを続けながらプロを目指すことにした。
大学を卒業したので、勤務時間を夜の四時間から昼のフルタイムに変更してもらい、さらに、ピアノをはじめとした楽器の知識は豊富なので、より給料が良い販売員に配置換えしてもらった。それからも練習を続けながらコンクールやオーディションに挑戦したが、やはり良い結果を残すことはできず、プロの道は見えてこない。音楽だけでなく、仕事の方もうまく行っていない。楽器に関する知識はあっても、販売するにはまた別のスキルが必要なのだ。売上目標を達成できる日はほとんどなく、今日のような大きなミスをしてしまうことも少なくない。ピアノの演奏はメンタル面に大きく影響されるため、落ち込んでいる日は良い演奏などできない。最近は練習もさぼりがちだ。現在二十五歳。就職した同級生のほとんどは昇進や転職など順調にキャリアを積んでいる。プロの音楽家になった者もごく少数いるが、ソロコンサートを開いたりオーケストラのメインを務めたりするほどの有名人になった者は皆無で、テレビの音楽番組の後ろで演奏するか、動画配信サイトでそこそこのインフルエンサーになっているくらい。それも決して充分な収入ではないので、指導者など別の道を選択する者がほとんどである。玲も、いい加減プロになるのを諦め、地元に戻ってちゃんと就職するべきか、と思い始めているところだった。
改めて初めてのツブヤキを見る。将来プロのピアニストになれると信じて疑わない投稿だ。音大に合格すればそれだけでプロの音楽家になれると心のどこかで思っていたのだ。いま思えば、大学在籍中は、練習も、勉強も、精一杯やったとは言えない。もっとやれたはずだ、と思うところは、たくさんある。
玲はスマホを操作し、リプライを書く。あの頃の自分に伝えたい言葉を、思いつくままに書き綴った。
【音大に入学しただけでプロになれるほど音楽の世界は甘くないの。浮かれてないで、もっと現実を見て。あなたがこれから進む道は、今あなたが考えているより何倍も厳しい。練習も、勉強も、今あなたが考えている分の何十倍も必要になる。人生の全てをピアノに奉げる覚悟がないと、その夢は叶わない。やれることはすべてやりなさい。そうじゃないと、いつかきっと後悔するから。】
もし、このメッセージを、本当にあの頃の自分に送ることができたら、どうなるだろう。心を入れ替えいっそう練習と勉強に励むだろうか。それとも、早々に諦めて就職する道を選ぶだろうか。あるいは、今と変わらないだろうか。判らないが、今より悪くなることはないように思う。
玲はリプライを投稿しようとしたが、残念ながら一四〇文字の制限を大きく超えてしまっており、エラーになってしまった。投稿するには、文字数を削るか、二つに分割しないといけない。
──って、あたし、何やってんだろ。
不意に我に返り、自嘲して小さく笑う。過去にメッセージを届けるなんて、できるはずがない。こんなことをしてもなにも変わらない。玲はそのリプライを消そうとした。
その時、ポコ、っと、通知を告げる音が鳴った。誰かが玲のツブヤキに反応したようだ。珍しいな、と思いつつ、玲は投稿前のツブヤキを一旦下書きフォルダに保存し、通知を見た。
【HARU さんがあなたのツブヤキにイイネしました】
HARU……知らない人だった。フォロワーではないだろう。通知メッセージの下にはイイネされたツブヤキが表示されている。それは今朝の愚痴ツブヤキやそれに対するおふざけリプライではなく、初めて投稿した音大合格を喜ぶツブヤキだった。
──七年も前のツブヤキに、知らない人がイイネ?
首をかしげる玲。ツブヤイターは短文投稿である為、ツブヤキは日々流れていくのが特徴だ。注目されるのは常に新しいツブヤキであり、過去のツブヤキが注目されることはあまりない。検索機能は充実しているので、見ようと思えばどんなに過去のツブヤキでも見ることはできるが、芸能人やスポーツ選手など有名人のツブヤキならともかく、玲のような一般人(それもフォロワー五十人程度のアカウント)の過去のツブヤキを、検索してまで見る人はまずいないだろう。
不思議がっていると、また通知が鳴った。今度は、同じツブヤキにリプライがされたようだ。
【フォロー外から失礼します。音大合格おめでとう! 頑張って夢を叶えてね♪】
フォロー外から、ということは、やはりフォロワーではないようだ。では、どうして七年も前のツブヤキに反応してくれたのだろう。
玲はHARUの名前をタップし、プロフィールを表示させた。弦楽器の弦と弓がアップで映ったアイコンの下に、簡単なプロフィールがある。音大卒業後、アルバイトをしながらプロのチェリストを目指している女性らしい。玲とほとんど同じ境遇である。違うのは楽器だ。
──チェリスト……チェロの演奏者なんだ。
チェロはバイオリン属の弦楽器のひとつである。バイオリンをそのまま大きくしたような形で、低音を奏でるのが特徴だ。玲が卒業した音大でも専攻した者は多い。
玲はHARUのプロフィールページをスクロールしてツブヤキを見る。日々の練習の様子や、好きな曲のこと、コンサートに行った感想、あるいは音楽だけでなく、今日食べたご飯やちょっとした出来事まで、ポジティブな話題が並んでいる。
最初は不審に思ったが、相手が自分と同じく音大出身でアルバイトをしながらプロを目指していると知り、親近感がわいてきた。七年前のこととはいえ、大学合格のお祝いメッセージをくれたことも嬉しい。玲はリプライを打つことにした。
【お祝いメッセージありがとうございます! すごく嬉しいです! でもごめんなさい。そのツブヤキ、もう七年も前のものなんです。今はもう大学を卒業しちゃって、楽器店でアルバイトをしています。でもまだプロになる夢は諦めていません!】
最後の一文は付けるかどうか少し迷ったが、嬉しくてテンションが上がっていたので、そのまま送信した。
しばらくして、リプライが帰ってきた。
【そうなんですか? ごめんなさい。普通にタイムラインに流れてきたから、今のツブヤキかと思っちゃいました】
ツブヤイターは、フォローしてない人のツブヤキも『オススメ』としてタイムラインに表示される。多くはその人のツブヤキ内容に合わせて興味がありそうなものが選ばれる。玲とHARUは音楽面での共通点が多いので、その影響で表示されたのだろう。ただ、それでも七年も前のツブヤキが表示されるのはおかしい。そう思っていると、さらにリプライが送られてきた。
【最近のバグが多いから、その影響だったのかも】
ツブヤイターは少し前にある企業家に買収されて以降、ツブヤキが消えたり、通知が全然機能しなかったり、何もしてないのにいきなりアカウントが凍結されたりといったバグが多発している。その企業家がやりたい放題仕様を変更しているのが原因ではないかと噂されている。
【そうかも。でも、なんにしても嬉しいです!】
そうリプライを打った後、玲はHARUをフォローするボタンを押した。すると、すぐに相手からもフォローされた旨の通知が届いた。さらに、【フォローありがとう! これからよろしくね!】とのメッセージが届く。玲も、【こちらこそよろしく!】と返した。そして、これからは愚痴ツブヤキを控えないといけないな、と、苦笑いを浮かべた。