久しぶりにツブヤイターでやりとりをし、玲が嬉しい気持ちになっていると、がちゃり、と、出入口のドアが開く音がした。屋上に玲以外の人が来るのは珍しい。誰だろう、と思って貯水タンクの陰から顔を出して覗くと、七森の姿があった。
──あ、七森さん、帰ってきたんだ。
玲はスマホの電源を切ってポケットにしまい、七森に声をかけようとした。
────。
ハッと息を飲んだ。七森は、左手にバイオリンのケースを持っていた。その姿が、ちょうどビル群の間から射した夕陽に赤く染まり、すごく綺麗に見えたのだ。
玲が思わず見とれていると、七森はケースからバイオリンを取り出した。左肩に乗せ、顎で挟み、左手をバイオリンの
──七森さん、バイオリン
そんなことを思った。玲たちが働く楽器店はワンフロアに様々な楽器が置いてある為、基本的には全ての楽器で接客をする。それでも一応各員担当が決められており、玲はピアノなどの鍵盤楽器、七森はバイオリンなどの弦楽器だ。販売員は担当する楽器には詳しいが、だからといってその楽器を演奏できるとは限らない。販売員にとって重要なのは販売スキルであり、演奏スキルはそこまで重要ではない。玲のようなアルバイトならともかく、正社員は様々な部署に配属されるため、むしろ担当楽器を弾ける人の方が少ないだろう。玲が他の販売員の演奏を見るのは初めてだった。これは、ぜひ聴いてみたい。
七森は弦に弓を当てた後、静かに目を閉じた。そのまま動かなくなる。弾きはじめのタイミングを伺っている……というよりは、始まりの音がどこにあるのか、その場所を探っているかのように思えた。玲は息をするのも忘れて見つめる。彼が奏でる音の始まりを聞き逃すまいと、じっと待つ。屋上に動くものは無い。まるで時が止まったかのような感覚。ビルの下から聞こえる街の喧騒と、沈みゆく夕陽だけが、時を刻む。
やがて弓が動いた。七森と玲の時が動き始めた。弓と弦の摩擦で生じた振動がバイオリンの内部に伝わり、内側の空洞で共鳴することで増幅され、外側へ放出される。それはまるで赤ちゃんの産声のようだった。神に祝福された、奇跡の音色。
弓の動きに合わせ、ネックに添えた左手の指も動く。指先の小刻みな震えは音色の波となる。それは本当にわずかな波だ。しかし、その小さな波が、聴く者の感情を大きく揺さぶる。
バイオリンから生まれた音色は、緩やかな階段を降りるかのように、ゆっくりと音階を下げていく。やがて上がり、また下りる。わずか八音、楽譜にすると二小節の演奏だが、それだけで、玲には演奏されている曲が何か判った。
それは、『パッヘルベルのカノン』だった。結婚式や卒業式などでよく流れている曲で、クラシック音楽に興味のない人でも一度は耳にしたことがある有名な曲である。
第三小節に入ると、音は先ほどより少し低くなり、また滑らかに階段を下りてゆく。同じメロディーが、高さを変え、二回繰り返される。
ここで、玲は演奏に小さな違和感を覚えた。しかし、音色の美しさがその違和感を消し去り、ただ聴き入る。
二度目の階段を下りた音色は、次のパートへと進む。緩やかだった音の階段が少し急になり、アップダウンの間隔も短くなる。そして、もう一度音階を変え、同じように繰り返された後、次のパートへ。それまで滑らかに流れていた音が弾むようになった。演奏が進むにつれ、音色の弾みはより強くなる。初めはわずかだった波が、岸に近づくにつれ大きなうねりになるかのように。
そして、玲が覚えた小さな違和感も、少しずつ大きくなる。彼の演奏が『パッヘルベルのカノン』であると気付いた時から、その違和感はあった。
『パッヘルベルのカノン』という名で知られるこの曲は、正式名称を『三つのバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグニ長調』という。その名が示す通り、本来はバイオリンの三重奏で行われる曲だ。
『カノン』とは音楽用語のひとつで、複数の演奏者が異なるタイミングで開始して演奏する方式だ。日本語では『輪唱』と訳されることが多く、『カエルの歌』や『静かな湖畔の森の影から』あたりが有名であろう。それは「曲の追っかけっこ」と言っていい。
『パッヘルベルのカノン』では、三つのバイオリンがこの「追っかけっこ」を繰り広げる。第一バイオリンが演奏を始めた後、二小節遅れて第二バイオリンが同じ演奏を始め、さらに二小節遅れて第三バイオリンがまた同じ演奏を始める。第一バイオリンと同じメロディーを、二小節ずつ遅れて第二第三バイオリンが追いかけるのだ。この追いかけっこが、豊かなハーモニーを生み出す。曲が進むに従い、追いかけっこが生み出すハーモニーはより壮大になってゆく。これが、この曲最大の魅力と言っていい。
しかし、いまの七森の演奏は、ひとつのバイオリンのみである。長年愛されている曲なので様々なアレンジがされており、二つもしくは四つ以上のバイオリンで演奏されたり、あるいはバイオリンの代わりにチェロやピアノで演奏されたりもするが、バイオリンひとつで演奏されることはあまりない。追いかけっこというこの曲最大の特徴が無くなってしまうからだ。ソロ演奏用にアレンジされたものもあるが、いま七森が演奏しているのは、そういったアレンジが施されていない、完全に第一バイオリンのみでの演奏なのである。言わば、ひとり追いかけっこ。追いかけて来る人がいない、孤独な演奏である。
それでも、その音色の美しさは確かだ。違和感こそあるものの、玲はそのまま音色に身を委ねる。
演奏はさらに次のパートへすすんだ。恐らくこの曲の最も有名なパートだ。音の弾みは最高潮となる。それと同時に、沈みゆく太陽と七森が重なった。玲には、七森が光の中に溶け込んだように見えた。音と光がひとつになったように感じた。
音が弾む。それはまるで、川面で妖精が踊っているかのようだ。時に水面を滑り、時に弾み、時にくるりと回転し、妖精は軽やかにステップを踏む。
しかし……そこに、妖精は一人しかいない。本来は遅れて川面に降り立つはずのもう一人の妖精は、決して追いかけてこない。
そして、誰も追いかけてこないまま、演奏は次のパートへ進んだ。妖精は孤独な演舞を終え、川面を離れて岸辺で羽を休める。乱れた呼吸を整えるかのような短い音が、断続的に続く。陽はさらに沈み、光の中に溶け込んでいた七森が、また姿を現した。
しばらく羽を休めた妖精が、また飛び立つ。また、階段を弾むように、上がっては下がる。今度は細く急な階段だ。少しでも足を滑らせれば転落してしまいそうな場所を、軽やかに跳ねながら進む。一度落ち着いていた曲調が、また少しずつ勢いを増してゆく。この曲の、クライマックスへ向けて。七森の肩と腕と弓が、様々な角度を刻む。それに合わせて音が変化する。七森が、音を自在に操っている。そして、その音に酔いしれる──チープな言い方だがこれほど的確な言葉はない。音楽家は、誰しも自分の奏でる音に酔う。そのために、音楽を奏でる。
夕陽が射す。神々しい。夕陽のステージから、音が溢れ出す。
演奏中、七森は、時々少し離れた場所を見つめる。譜面があるわけではない。何も無い場所。そこを見つめ、わずかに微笑み、頷く。まるで、そこに誰かがいるかのように。
元々この曲は三重奏だ。本来ならば自分以外の誰かと演奏する。そして、そういった複数人で演奏する場合、演奏者たちはときどき目を合わせて意思疎通を図るものだ。いま七森がしているのはまさにそれであった。もちろん、そこには誰もいない。演奏者は彼一人だけだ。それでも彼は何度も同じ場所を見つめる。目を合わせ、ほほ笑み、頷く。彼にしか見えない誰かがそこにいる──の、だろうか。
いや──違う。
不意に、玲はそう思った。
そのとき彼が浮かべる笑顔は、どこか寂しい。
彼の見つめる場所には誰もいない。本来は追い掛けてくるはずの人が、今はいない。彼は、追いかけてくれる人を求めている。そこにいてほしい誰かの姿を、思い描いている──玲には、そんなふうに見えた。
やがて、演奏は最後のパートへ到達する。それまでの階段を弾むような曲調から一転し、緩やかな坂道をゆっくりとした足取りで進むような曲調になる。陽が沈む。街並みを燃やす赤が、少しずつ、闇に隠されてゆく。七森が、最後の音の群れを解き放つ。
最後の一小節。七森は、別れを惜しむかのように、ゆっくりと弓を動かす。一音一音を愛でるかのように、弾き続ける。
そして、最後の一音を弾き終えた。弦から弓を離す。最後に解き放たれた音が、ゆっくりと、闇に溶けていった。
夕陽はビル群に沈み、それまで姿を消していた街の喧騒が、戻ってきた。
玲は、ただその場に立ちつくしていた。いつの間にか、涙が溢れていた。彼の奏でる音色に心を打たれた──それもあるが、悲しみから溢れ出した涙でもあった。いまの彼が、とても孤独に思えたから。
「──木崎?」
涙を流しながら立ち尽くしていた玲は、七森の声で我に返る。演奏を終え、バイオリンを片づけようとした七森が、こちらに気づいたのだ。
玲は慌てて涙を拭った。
「すみません、声をかけようと思ったんですけど、演奏の邪魔しちゃ悪いと思って」
そして──少し迷ったが、拍手をした。
「すごく素敵な演奏でした。感動して、涙が出ちゃいました」
七森は、「聴かれてたのか。恥ずかしいな。でも、嬉しいよ。ありがとう」と、はにかんで答えた。
「七森さんがこんなにバイオリンが上手だなんて知りませんでした。どこかで習われてたんですか?」
「まあね。僕も、一応木崎と同じ、イザベラ音大出身なんだ」
「え!? そうだったんですか!? 知りませんでした!」
玲は驚いて声を上げる。玲がバイトを始めたときから彼はここで働いていたが、初めて聞くことだった。
「もう何年も前のことだし、人に話すほどの腕前でもないからね」
「そんなことないですよ! あたしの同級生でも、あんなに素敵な演奏をできる人はいません!」
玲は即座に言った。本心だった。いや、同級生はおろか、プロのバイオリニストにも負けてないのでは? とさえ思う。
「ありがとう」と、七森はもう一度笑顔で言った。「プロ志望の木崎にそこまで言ってもらえるなんて、光栄だよ」
「いえ、あたしこそ、そんな大したことはないです」
「でも、コンクールやオーディションは、今も受けてるんだろ? どこか、いいところから声がかかってたりする?」
「あ、えっと、その──」言い淀んだ後、玲は首を振る。「全然ダメですね。最近は書類選考で落とされることも、少なくありません」
小さな嘘をついた。本当は、この一年ほどは応募さえしていない。練習もさぼりがちで、ほとんど諦めている。だが、それを七森に知られたくなかった。
七森は玲の嘘に気づいたかどうか、「そうか」と軽い口調で言って、続ける。「まあ、コンクールやオーディションには相性もあるからね。どんなにうまく演奏できても、審査員が考えているコンセプトと合わないと落とされることもある。ほら。今やSF映画の金字塔となった『スター・ウォーズ』も、脚本を持ち込んだ段階ではたくさんの映画会社に断られたっていうし。諦めず、どんどん受けてみることさ」
そう言った後、七森は「映画で例えるのも変かな」と、付け加えた。
ふと玲は、もしかして彼は……と思い、訊いてみた。
「ひょっとして、七森さんもプロのバイオリニストを目指していたんですか?」
純粋に彼のことを知りたくて言ったことだったが、すぐに後悔した。彼は今この楽器店の社員だ。過去にプロを目指していたのなら、その道を諦めたことになる。もし、玲が誰かから同じことを訊かれたら、答えに迷ってしまう。
だが、七森は気分を害した様子もなく、「まあね」と答えた。「そんな頃もあったけど、もう昔の話さ。今は見ての通り、しがないサラリーマンだよ」
「それこそ、そんなことないです。お仕事でも、いつも頼りにしてます」
そう言った後、玲はフルートのことを思い出た。
「七森さん。今日は本当に、ありがとうございました」
改めてお礼を言う。
「いや、あれくらい、どうってことないさ」
七森はバイオリンと弓をケースに収めると、「さて、僕はそろそろ売り場へ戻るよ」と言って立ち上がった。「今日の売上目標がまだ達成できてないから、閉店まで頑張らなきゃ」
「そうですよね……あたしのせいで、本当に、スミマセン」
「ああ、いや、いいんだよ。木崎のせいじゃないさ。それより、木崎は、今日は売り上げ目標達成できたんだろ? おめでとう」
七森はまた、玲の頭を、ポンポンと優しくたたいた。また、胸がきゅんとする。
「明日も早番だったよね? 今日はもう帰って、ゆっくりと休むといいよ。じゃあ、お疲れ様」
七森は、出入口の方へ向かう。
「あ……お疲れ様でした」
階段を下りていく七森に、玲はもう一度、深く頭を下げた。
陽は完全に沈み、ビル群は夜の
そんな気持ちが次々と溢れてきて、玲は悟る。
ああ、あたし、彼のことが好きなんだ──と。