すっかり暗くなった屋上で、玲は七森が奏でた音楽の余韻に浸りながら、彼のことを考えていた。彼のことを好きだと気付いた玲。一体いつから、こんな気持ちになっていたのだろう。
七森との出会いは、玲が十八歳の時──玲がこの店でバイトを始めた日だった。朝礼で自己紹介をした時、カッコイイ人がいるな、と思った。それが、彼を初めて見た印象だった。ただ、この時は他にも沢山のスタッフがおり、彼一人が特別強く印象に残ったというわけではない。
七森のことを意識しはじめたのは、それから二、三ヶ月経った頃だ。その頃の玲はレジ担当だったので、販売員の七森から直接指導されることはなかったが、客対応やレジ・パソコン操作で困っていると、今日のようにフロアや休憩室から駆けつけ、助けてくれることが多かった。大学卒業後、販売担当となった玲がフロアに立つようになると、ピアノ以外の楽器のことや売り方のコツなど、販売員に必要な知識をいろいろ教えてくれた。玲にとって、七森はずっと頼れる先輩だった。いつから『好き』という感情が芽生えたのかは判らないが、以前から好意を持っていたのは間違いない。それが、今日彼の奏でる音楽を聴いたことで、気持ちがいっそう燃え上がったのだ。
冷たい風が吹いた。この時期、昼間はかなり温かいが、陽が沈むと一気に気温が下がってくる。明日も早番だし、そろそろ帰ろう。そう思い、玲は屋上を後にした。
階段を下り、一階のスタッフ用ロッカールームへ入る。中は左右にロッカーが並んでおり、真ん中にベンチが置かれている。そこに、昼間レジを担当していた女性が座っていた。私服に着替え、スマホを操作している。
「あ、
玲が声をかけると、女性も顔を上げ、「──あ、玲ちゃんお疲れ様」とあいさつをした。「まだ残ってたんだ。今日の勤務、六時までだったよね?」
「うん。そうなんだけど、お昼のフルートの件で、七森さんにお礼言わなきゃと思って、屋上で待ってたの」
「あ、そうだったんだ。良かったね、無事フルート届けられて」
「うん。ホント、一時はどうなるかと思ったよ」
「あの時はゴメンね、玲ちゃんピンチだったのに助けられなくて。あたし、楽器のこと全然わかんないから」
「あ、うん、いいの。理央ちゃんはレジ担当なんだから、仕方ないよ」
「店長も、乙女が困ってるんだから助けてあげればいいのにね」
「ホントだね」
ふたりは昼間のことを思い出しながら気さくに話す。
「それより、聞いて聞いて!」玲はお尻から滑り込むように理央の隣に座った。「あたし、さっき屋上で、七森さんがバイオリンの演奏してるの、聴いちゃった!」
「え? 七森さん、バイオリン弾いたの?」理央は目を丸くして玲を見る。
「うん。すごく素敵な演奏だった! イザベラ音大に通ってて、プロを目指してたって話もしてくれた!」
「へー。七森さん、そのこと話したんだ。意外」
かなりテンション高めに話した玲だったが、理央はイマイチ張り合いがない反応をする。今の言葉からすると、理央は七森が音大出身でプロ志望だったことは知っていたようだ。しかし、意外、とはどういうことだろう。
「え? なにが意外なの?」と、玲は訊いてみる。
「あ、えっと、七森さん、玲ちゃんがこのお店に来る前は、プロのバイオリニストになるのが夢だってこと、周りのみんなにもよく話してたの。でも、その夢を諦めて、この会社に就職してからは、全然話さなくなった。だから、なんかそれって、七森さんにとって黒歴史なんじゃないかなーって思ってたんだ。あ、知ってる? 黒歴史って、ガンダムから生まれた言葉なんだよ?」
そのままファーストガンダムがどうの宇宙世紀がこうのとロボットアニメの話を始める理央に「なんでバイオリニストを目指していたことが黒歴史なの?」と言って、玲はどうにか話を七森に戻す。
理央は、「うーん」と唸って天井を見る。話していいものかどうかと迷うような表情だったが、「ま、七森さんが玲ちゃんに話したんだから、いいか」と、話しはじめた。
七森は音大在籍中からこの店でバイトをし、卒業後もバイトを続けながらコンクールやオーディションを受け続けていたそうだ。そして二十五歳の時、大きなチャンスを掴んだ。県内で行われたコンクールで一位に輝き、全国大会への出場が決定していたという。その大会でも好成績を残すことができれば、プロのバイオリニストとしてのデビューは約束されたようなものだった。
「でも、全国大会の結果は、いまいち良くなかったみたい。それで、七森さんはプロの道を断念して、この会社に就職したの。そして、それ以来、プロを目指していた過去については口を閉ざすようになった、ってワケ」
「……そうだったんだね」
玲は大きく息をついた。七森の気持ちは判るような気がした。夢を諦めたということは、自分に夢を叶えるだけの力が無かったということである。そんな自分を恥ずかしく思い、過去について口を閉ざしてしまうのは、仕方のないことであろう。
もし、この先玲もピアニストになる夢を諦めたとしたら、その過去を封印してしまうのだろうか。
玲が見通しの悪い未来のことを考えてちょっと憂鬱になっていると。
「……そう言えば、ハヅキさん、今ごろどうしてるかな」
理央が、ぽつりとこぼすように言った。
「え?」と、玲は聞き返す。ハヅキさん。知らない名前だった。
「あ、えっと、その頃のレジ担当の先輩に、
七森の話をしていてなぜその葉月という人が出てくるのか、玲には判らなかったが、それ以上訊くのはなんとなくためらってしまう。レジ担当で優しい先輩、という点から、女性のように思えたからかもしれない。
理央も、なんとなく、言うべきじゃなかったかな、というような表情をしている。そして、「ところで、玲ちゃんはどうなの? プロテスト」と、不意に思い出したような感じで話題を変えた。
「プロテストってわけじゃないけど……全然ダメ。最近は書類選考も通らないよ。まあ、この歳で過去に賞を貰ったのが中学の県大会で銀賞じゃあ、しょうがないけどね」
肩をすくめる玲に対し、理央は「諦めちゃダメだよ」と両手の拳を握ってぶんぶんと振った。「どんなに素晴らしい作品でも、連載雑誌の方針や編集者との相性があるの。ほら。世界中で大ヒットしたマンガの『進撃の巨人』だって、最初はジャンプに持ち込んだけど、断られたっていうし」
「なんでみんな音楽以外で例えるかな」と玲は苦笑いを浮かべた後、「でも、ありがとう、理央ちゃん」と、素直にお礼を言った。
「よーし。なんだかあたしも創作意欲が湧いてきちゃった。帰って、新作マンガのプロット考えてみる。リアルロボットが音楽を駆使して五十メートル級の巨人と戦う感じのヤツ」
「ははは……頑張ってね。お疲れさま」
「うん、お疲れさま」
理央はスマホをバッグにしまって肩にかけると、「じゃあ、また明日」と手を振りながらロッカールームを後にした。
七森がプロを目指していた過去を黒歴史──封印したい過去と思っているとしたら、少し残念なような気もする。でも、そんな封印したい過去を玲に話してくれたのだとしたら、それは素直に嬉しかった。今日彼のバイオリン演奏を聴いたことも含めて、もっと誰かに話したかった。
玲はスマホを取り出してツブヤイターのアプリを開いた。
【さっき会社の屋上で、憧れの先輩がバイオリン演奏してるの聴いちゃった! とっても素敵な演奏だった!】
ハートマークと両目がハートになった顔の絵文字を添える。普段友だちと恋バナをするのは何となく恥ずかしいと思ってしまうタチの玲だが、リアルな知り合いが誰もいないツブヤイターなら、こういったことも気軽に言える。
だが、そのツブヤキに対して反応はない。それはいつものことではあるが、いつも投稿している会社の愚痴のようなネガティブなツブヤキではないので、さすがにちょっと反応が欲しくなる。
──さっきフォローしてくれたHARUさんは、どうしてるかな?
屋上でのやり取りで意気投合したHARUなら、共感してくれるかもしれない。玲はHARUのアカウントを開こうとフォロワーのリストを開いた。
「……あれ?」
首を傾ける玲。HARUは最新のフォロワーなので一番上に表示されるはずだが、そこには別のフォロワーの名前が表示されていた。一応スクロールしてみたが、HARUの名前はどこにもない。
玲は自分のプロフィールページを表示する。さっきHARU宛に投稿したリプライは残っているため、それを使ってHARUのアカウントページに移動してみた。すると。
【このアカウントは存在しません】
画面には、アイコンもプロフィールもツブヤキも表示されず、ただその一文が表示されただけだった。
最近のツブヤイターでは突然フォロワーのプロフィールページにアクセスできなくなる事案が多発しているが、多くの場合は凍結である。凍結は、なんらかの規約違反を犯したアカウントに対して運営側がアカウントを使用停止にする行為だ。ただ、その場合は【このアカウントは凍結されました】と表示される。【このアカウントは存在しません】と表示されているということは、HARUが自らの意思でアカウントを削除し、ツブヤイターをやめたことになる。
──え? あたし、何か気に障ること言ったかな……。
玲は口元に手を当てた。もちろん、玲に心当たりはない。さきほどのリプライではお互い楽しくやりとりしていたと思う。玲が原因ではないだろう。他に何かイヤなことでもあったのだろうか? ツブヤイターには変な人が多い。すぐにケンカを売ってきたり、誹謗中傷したり、相手が女性と判るとセクハラ投稿してきたり、さらに発展するともはや性的暴行と言っていいレベルの投稿をしてくる人もいる。そういった投稿がきっかけで、裁判沙汰になったり、心を病んでしまったり、最悪の場合傷害事件や殺人事件、あるいは自殺など、死傷者が出たりして、大きな社会問題になっている。
HARUとは仲良くなれそうだっただけに、やめてしまったとしたら残念ではある。しかし、原因は判らないがもし本当に何らかのトラブルがあったのだとしたら、やめるのも仕方ないだろう。玲は、SNSなんて息抜き程度に楽しむべきものであり、命を危険にさらしてまでやり続けるものではないと思っている。そこまで追い詰められた状況でなくとも、イヤな思いをしてまでやり続ける必要はない。HARUにはHARUの事情があってやめたのだろうから、それは尊重すべきであろう。
玲はスマホをしまうと、帰り支度を整え、店を出た。陽が暮れた繁華街の大通りは人と車で溢れている。玲は最寄りのバス停へと向かうため、店のすぐ近くにある地下への階段を下りた。その先は地下街だ。大通りの真下に位置するこの地下街は県内最大規模のもので、東西南北の十字型に長く広がっており、アパレルショップや飲食店などの店舗がズラリと並んでいる。休日には買い物客などで賑わう人気のお出かけスポットである。
玲が乗るバスの停留所は交差点の向こう側だ。そちらの方へしばらく歩くと中央広場がある。ちょうど大通りの交差点の真下にあたるこの広場は地下街で最も人通りが多く、特にこの時間帯はバス停や駅へ向かう人、帰る前に買い物や食事をする人で賑わうのだ。円形の広場にはいくつものベンチやテーブルも置かれている。地下街の中心地なので待ち合わせに使う人も多いが、ここはイベントスペースにもなっており、時々企業のPR活動や物産展、音楽・ダンスなどのイベントが行われることもあるのだ。現在イベントは行われていないが、代わりにグランドピアノが一台置かれている。色とりどりの花のイラストで全体をラッピングされたそのピアノは、常に鍵盤蓋が開かれ、誰でも自由に演奏できるようになっている。いわゆる、ストリートピアノだ。
──そうだ。久しぶりに弾いて帰ろうかな。
広場の横を通りかかった玲は、ふとそう思った。もちろん玲の自宅にもピアノはあるが、予算とスペースの都合で今はアップライトピアノだ。指運びの練習にはなるものの、タッチの感覚や音の広がりはグランドピアノに比べて大きく劣り、本格的な練習にはならない。そのため、仕事場の近くに無料で利用できるグランドピアノがあるのはありがたく、特に音大卒業後はよくここで演奏していた。練習をさぼりがちの最近は素通りするだけだったが、今日はなんだか無性に演奏したい気分だった。これも七森の影響だろう。
幸い誰も演奏していなかったので、玲はピアノの前に座って荷物を足下に置くと、椅子の高さを調整し、鍵盤に指を置いた。演奏するのは、もちろんカノン。バイオリンの三重奏として作られた曲だが、ピアノで演奏されることも多く、玲も小学生の時に習った。どちらかといえば初心者向けの曲なので、まだ暗譜でも演奏できるだろう。
玲は一度目を閉じ、演奏のイメージを思い描いた後、指を動かした。
まずは一小節目から二小節目を、左手の指だけで演奏する。ゆっくりと階段を下りていくような演奏。もともとテンポの速い曲ではないが、久しぶりに演奏する曲なので、一音一音を確かめるように奏でていく。
続いて三小節目から四小節目。左手は先ほどと同じ音を奏で、右手の指で左手よりもやや低い音を奏でていく。五小節目と六小節目もほぼ同じ演奏を繰り返す。七小節目からは次のパートへ進み、右手の指の動きが少し早くなる。さらに次のパートへ進むと、さらに指の動きは早くなる──と言っても、四分音符が八分音符、そして十六分音符に変わっただけだ。音階も階段を規則正しく上り下りするような感じで、特別複雑な動きが要求されるわけでもない。一応プロを目指している身なので、この辺りは全く問題無い。
そして、指が慣れてきたところで、この曲の最も有名なパートへ進む。同時にここは最も難易度の高いパートでもある。左手は相変わらず四分音符だけだが、右手は十六分音符と三十二分音符が入り混じり、音階のアップダウンも複雑になる。とは言えそこは初心者向けの曲だ。玲の右手の指は軽やかなステップを踏むように滑らかに動いていく。
特にミスも無くメインのパートを弾き終え、次は複雑なステップで乱れた息を整えるような優しい演奏となる。そして終了。三分にも満たない演奏ではあるが、玲はミスタッチなく弾き終えた。初心者向けの曲だから、これくらいは当然である。
玲は周囲を見回した。帰宅ラッシュの時間のため相変わらず人通りは多いが、立ち止まる人はほとんどいない。広場のベンチに座っている人の中には玲の方を見ている人もいたが、演奏が終わると、興味の無さそうな顔で手元のスマホに視線を移した。待ち合わせをしていたらたまたま弾き始めたのでなんとなく見ていた──そんなところであろう。他に興味を持っていそうな人はいない。たくさんの人がいるのに、誰も玲の演奏を気にも留めていない。いまやストリートピアノは珍しくないし、初心者向けのカノンで驚く人もいないだろう。譜面があればもっと上級者向けの曲も演奏できるが、今日は持って来ていないし、演奏したとしても、玲の演奏で足を止める人は少ない。今までここで演奏したときは、足を止める人がいてもせいぜい二十人ほどで、演奏後も控え目な拍手を貰うくらいであった。七森のような心を揺さぶる演奏は、今の玲にはできない。
──まあ、仕方ないか。
玲は肩をすくめると、荷物を持って立ち上がり、改めてバス停へ向かった。