午後になると少し客数は増えてくる。店舗の四階には音楽教室があるため、通う人がふらりと寄ることが多いのだ。大体は小物を買っていくだけだが、その中に、これからピアノを習い始めるという人が二組いて、玲が接客することになった。一人は年配の男性だ。老後の趣味としてチャレンジしてみるとのことで、手軽な卓上タイプの電子ピアノを買ってくれた。もう一組は見るからにお金持ちという感じの親子だ。十二歳の娘がピアノを習いたいというので、せっかくならば良いものを買い与えたいと、こちらも同じく電子ピアノだが据え置き型のハイエンドモデルを買ってくれた。平日の一般客としては、なかなか大きな売上げになった。
据え置き型の配送手続きを終え、客を見送る。時刻は六時半。退勤時間の六時を越えてしまったが、接客が長引いて残業になってしまうことはこの仕事ではよくあることだ。二台の電子ピアノの他、朝からの小物も合わせると、玲の本日の売上額は四十万を超えている。二日連続で売上目標を達成できたことになる。これほど好調なのは久しぶりのことだった。ただ、店長からは、親子の方には生ピアノが販売できたのではないか、と、イヤミを言われた。生ピアノなら、アップライト型でも四十万円以上、グランドピアノともなれば最低でも百万円以上だ。しかし、玲としてはいくら相手が金持ちでも、これから始める人にいきなりそんな高いものを売るのはためらってしまう。ピアノ教室に通い始めた人の半分近くは、一年以内に辞めてしまうのだ。もっとも、それは客側の都合だ。優秀な販売員なら、そんなことは気にせず少しでも高いものを販売するのだろう。こういったところでためらってしまい、無難な値段のものを販売してしまう玲は、やはり販売員には向いていないのかもしれない。
何はともあれこの日も売上目標は達成できたので、玲は退勤する。そのままロッカールームへ向かうと。
「……いやー、困ったなー。どうしようかなー」
と、理央がベンチに座って頭を抱えていた。言い方といい仕草といい、あからさまにわざとらしい。理央の今日の勤務は六時までのはずで、もう帰ったと思っていたのだが、なにをしているのだろう?
「どうしたの理央ちゃん?」
玲が小さく笑いながら訊くと、理央は「あ、玲ちゃん」と顔を上げた。「あのね、今日、お昼に叔父さんが来てさ、コンサートイベントのチケットをくれたの。あ、あたしのおじさん、イベント企画の会社で結構な重役やってて、ていうか社長なんだけど、毎年この時期、イベントの招待券をプレゼントしてくれるの。大体は、ビアガーデンとか物産展とかの食べ物系か、あるいは、美術展とか絵に関するイベントなんだけど、今年は、クラシックコンサートなの、ほら」
一気にそう説明した後、理央が取り出したのは、『ポツダム交響楽団with
「え!? コレ、めちゃくちゃ入手困難なやつだよ!」
思わず声を上げる玲。ポツダム交響楽団は、ドイツのポツダムを拠点とする世界的に有名なオーケストラだ。それが日本の有名ピアニスト・岩井割哉と共演することで話題のコンサートである。玲も注目しており、チケットを購入しようとしたのだが、競争倍率がかなり高く購入できなかった。
「そうなんだ?」と、理央。「でも、あたし興味ないからなー。アニソンのコンサートとかなら良かったのに。そうだ、玲ちゃん、良かったら代わりに行く?」
「え? いいの?」
「うん。あたしが行ってもしょうがないし」
理央がチケットを差し出した。チケットは二枚ある。
「あれ? 二枚あるの? なら、理央ちゃんも一緒に行こうよ?」
「ううん。あたしが行っても、どうせ寝ちゃうし。それならちゃんと聴いてくれる人が行った方がいいでしょ? はい」
理央は玲にチケットを渡すと、ぱん、と手を叩いた。「そうだ! 玲ちゃん、昨日のフルートのお礼に、七森さんを誘ってみたら?」
「ええ! 七森さんを!?」と、思わず声を上げる玲。「それって、まるでデデデデデデデデートに誘うみたいじゃん!」
「まるででででででででじゃなくて、正真正銘デートに誘うんだよ。七森さんも、このコンサート行きたいって言ってたから。ちなみにコンサートは四日後の夜七時からで、その日玲ちゃんはお仕事お休みで、七森さんは六時までの勤務で、会場はここから徒歩十五分のケンミン文化センターだから大丈夫」
「……理央ちゃん、なんでそんなことまで知ってるの」
「いいから。七森さんいま休憩室にいるから。さ、行くよ」
理央は玲の手を取り、ロッカールームを出て休憩室へ向かう。室内にはテーブルとソファーが並んでおり、その一角に七森はいた。七森の今日の勤務は閉店の九時までで、今は休憩中のようだ。
「──あ、七森さん、おつかれさまでーす」
理央が挨拶をすると、七森は顔お上げ、「お疲れ様」とあいさつを返した後、テーブルに視線を落とす。バイオリンの新商品のカタログを見ているようだ。
理央から「ほら」と促され、玲は後ろ手にチケットを持ち、七森のそばに立った。
「……あの、七森さん……」
玲が恐る恐る呼ぶと、七森は「ん?」と顔を上げる。
「ええっと……その……」
もじもじしながら言い淀む玲。助けを求めるように理央の方を見たが、がんばれ、というふうに拳を振って頷くだけだ。
再び七森を見る。ソファーに座る七森は、玲を見上げる格好だ。わずかに微笑み、玲が何か言うのを待っている。
「あの……それって、新商品のカタログですか?」
残念ながらデートという言葉を絞り出すことはできなかった。後ろで理央がズッコケるような音がした。
「ああ、そうだよ」七森は玲たちの不審な様子を気にしたふうもなく答える。「ベルギーからの輸入品で、新作だけど、アンティークのような深みのある音色を奏でられるって話題なんだ」
「そうなんですか。売れるといいですね」
などと無難なことを話した後、玲はもう一度理央を見た。理央は目を細め、いいから早く言え、とばかりに顎を上に挙げた。玲は泣きそうになりながら、ムリだよ、と首を振る。
理央は大きくため息をつくような仕草をすると、スタスタと玲のところまでやってきた。そして、玲からチケットを取ると。
「あれー? ポケットの中にこんなものが入ってたー。あ、そうかー。今日、イベント会社で社長をしてる叔父さんがお店に来て、ポツダム交響楽団のコンサートチケットを二枚貰ったんだったー。でも、どうしようかなー? あたし、クラシックのコンサートとか興味ないし、行ってもたぶん寝ちゃうんだよなー。だれか、ちゃんと聴いてくれる人が二人いないかなー」
棒読みな上にあまりにも説明臭いセリフを言った後、理央はチラリと七森を見る。
「ポツダム交響楽団のコンサートって、岩井割哉と共演するやつ?」
七森は顔を上げ、目を輝かせて理央を見る。思った以上の食いつきだ。理央のわざとらしい言動は気にしていないようである。
「そうなんですよー。あ、七森さん、良かったら、行きますー?」
理央がチケットを一枚差し出す。
「いいのかい? これ、抽選倍率高くて、諦めてたんだ」
そう言って受け取った七森に、理央は「もちろんです。あたしが行くより、七森さんが言った方がいいですし」と言った後、今度は玲を見た。「もう一枚は、玲ちゃん、どう? 七森さんと、行ってきたら?」
「え? いや、あの、ええっと……」
ためらう玲を、理央は鋭い目で睨み、いいから受け取れ、と言わんばかりにチケットを差し出した。そして、ばん、とお尻を叩かれ、七森の前に立たされる。
「あ……その……七森さん。あたしもご一緒して、大丈夫ですか?」
ハミガキ粉をチューブからひねり出すような口調で、どうにかそう言った。
「もちろん、一緒に行こう」
七森は、笑顔でそう言ってくれた。
「よしっ!」と、後ろで理央がガッツポーズを決める。玲も、頭上でくすだまが割れ、天使たちがファンファーレを吹き鳴らし、妖精たちがクラッカーを鳴らして祝福され、小躍りしたい気分だったが、なんとかそれを抑え、「ありがとうございます、よろしくお願いします」と頭を下げた。
その後、待ち合わせの場所を決め、電話番号や無料通話アプリ・ライーンなどの連絡先も交換し、お疲れ様でした、と二人で言って、休憩室を後にする。そして、ロッカールームまで戻ると。
「──やったぁ!!」
ふたりでぴょんぴょん飛び上がって喜ぶ。ものすごく緊張したし恥ずかしくて逃げ出してしまいそうだったが、どうにかデートに誘うことができた。
「でも、喜ぶのはまだ早いよ、玲ちゃん」と、理央が表情を引き締める。「決戦は四日後。ちゃんと戦略を組み立てるんだよ?」
「戦略って、戦いに行くんじゃないんだから」
「なに言ってんの、恋とは戦いよ。そうね。コンサートが二時間として、九時くらいからイイ感じのお店で食事、そこでイイ感じの雰囲気をつくったら、その後イイ感じの公園へ移動して、イイ感じに愛の告白、って流れが上策じゃないかしら」
「ああああああ愛の告白って、そんなまだ早いよ!」
「ああああああ愛の告白は早いに越したことはない! ……と言いたいところだけど、まあ、その辺は状況次第だね。でも、七森さん女性ウケいいから競争率高いし、早めにキメといた方がいいと思うよ?」
「そうかな……?」
「そうだよ」
理央はぱちっとウインクすると、「よーし、あたしも創作意欲が湧いてきたぁ。帰って、昨日のマンガの続き描かなくちゃ。五十メートル級巨人が主人公ロボットをコンサートデートに誘う波乱の展開! イケる気がしてきたああぁぁ!」と言って、ささっと帰り支度をすると、「じゃあ、また明日」と、手を振って帰って行った。
一人になり、玲は改めて七森とデートできる喜びをかみしめる。この感情を、もっと誰かに伝えたい。玲はスマホを取り出すと、ツブヤイターを開いた。
【会社の先輩とデートすることになっちゃった! 恥ずかしいけど楽しみ!!】
そう書いた後、やっぱり恥ずかしくなって書き直す。「デートする」を「クラシックコンサートに行く」に、「恥ずかしいけど」を「すごく」に変え、投稿した。もちろん、HARUからの反応を期待してのことだ。
しかし、HARUのプロフィールページを開くと、また【このアカウントは存在しません】と表示された。またバグ? もう、せっかく気持ちが盛り上がってるのに、と、少し残念に思う。まあ、またそのうち直るだろう。それより、理央の言う通りプランを決めなければならない。愛の告白はさておき、せっかく二人で出かけるのだから食事くらいはして帰りたい。九時以降に食事するとなると、お店はかなり限られる。いいお店はあるだろうか? 家に帰ってパソコンでじっくり調べた方がいいだろう。玲は帰り支度を整え、会社を後にした。