もやもやした気持ちを抱えたまま、デートの日を迎えた。
コンサート開演の三十分前に会場前で待ち合わせをした玲。この日仕事が休みだった玲は、朝からしっかりと準備を整え、時間前に来ることができた。七森は今日は出勤だ。接客が長引くと集合時間はおろか開演にさえ間に合わない可能性もあったが、幸いにも彼は時間ピッタリに現れた。
理央から貰ったチケットを提示してコンサートホールへ入場する。席は一階席の前から十列目、中央からやや左寄りの場所だった。ホール内でも音がバランスよく聞こえる席で、ステージよりやや高い位置にあるため全体を無理なく見渡せる人気の席だ。
席につき、パンフレットで演目を確認しながら、七森は曲や演奏者について子どものように目を輝かせて話す。三日前ならば、そんな彼の様子に玲は心ときめかせただろうが、今はどうしてもHARUのことが頭をよぎってしまう。コンサートが始まっても心のもやもやは晴れず、七森とのデートであることを抜きにしても心待ちにしていたコンサートだったはずだが、その音色はまるで街の喧騒のように玲の耳を素通りするだけだった。
「──さすがはポツダム交響楽団だよね。日本のオーケストラとは、やはり迫力が違うよ」
約二時間の演奏が終わり、コンサートホールを出た二人は、繁華街へ向かって歩いていた。七森は興奮冷めやらぬ様子で、コンサートを振り返りながら思いを語っている。
「岩井割哉も素晴らしかったよね。まだ若いのに、ポツダムの演奏に引けを取らない堂々とした演奏だったと思う」
そんな七森に対し、玲は「はい、そうですね……」と、曖昧に返事をするだけだった。頭の中は、ずっとHARUと七森の関係について考えている。
「……どうした木崎? 今日はなんか、元気ないな?」
心配するような声の七森に対し、玲は「え、いえ、そんなことないですよ?」と、慌てて取り繕う。
「そうか? ならいいけど……なんだか、心ここにあらず、という感じだ」
七森の指摘にドキッとする玲。確かに、コンサートの間中、玲はHARUと七森のことばかり考えていた。頭の中まで見透かされているような気がしてくる。
玲は「あ……いや……その……」と言い淀んだ後、「すみません、岩井さんのピアノ演奏を見てたら、きっとあたしは、もうあんな風にはなれないんだろうな、なんて考えちゃって」と言って、ごまかした。
「そうか……」と、七森の声が沈んだ。ごまかすつもりで適当に言ったことだったが、迂闊だったかもしれない。
七森は何かを考えるように小さく何度か頷いた後、言った。「僕には、『そんなことはない、木崎なら、努力すれば立派なピアニストになれるよ』なんて、安易な励ましはできないけど……でも、全力で努力すれば、どんな結果になっても、きっと後悔はしないさ。応援してるよ」
「そう……ですね……」
七森の言葉に、今度は玲の声が沈んでしまう。全力で努力──今、玲がそれをしているのといえば、していないと言うしかない。一日サボると三日遅れると言われるピアノのレッスンにおいて、今の玲は一週間の内ピアノに触れない日の方が多く、岩井割哉のようなトップレベルのピアニストになることはもちろん、ピアノ演奏を仕事にすることすら難しいであろう。もうほとんど諦めている状態と言っていい。七森に応援してもらう資格なんて、自分には無いのかもしれない。
「それはさておき、お腹空いたな。何か食べて帰らないか? 時間は、まだ大丈夫?」
沈んでしまった雰囲気を入れ替えるかのように、七森は明るい声でそう言った。
「あ、はい。大丈夫です」
「良かった。じゃあ、何が食べたい?」
「えっと、七森さんにお任せ──」
そこまで言って、玲は言葉を止めた。事前に理央と立てた作戦では、お店は七森にお任せするはずであったが。
「……木崎?」
首を傾げる七森に対し、玲は。
「──そうだ。あたし、行ってみたいお店があったんです。中華料理屋さんなんですけど、いいですか?」
そう言うと、七森は「中華料理か、いいね」と、笑顔で応えてくれた。
玲は、繁華街のアーケード街から道を一本裏に入った場所にあるそのお店まで七森を案内した。小さな雑居ビルの一階に入ったその店は、黄色い看板に赤い文字で『中華飯店萌やし』とある。
「ネットで検索して見つけたんですけど、ここの、『味玉ラーメンモヤシ大盛り』が凄いインパクトなんですよ。あと、ギョーザも美味しいらしくて」
そう説明しながら、玲は七森の様子を見て、息を飲んだ。七森の表情は明らかに曇っていた。先ほどまで饒舌にコンサートについて語っていたのがウソのように、無言で店の看板を見つめている。
「……七森さん?」
玲が呼ぶと、七森は「ああ、ゴメン」と我に返ったように言い、そして続けた。「木崎、悪いけど。別の店にしないか?」
「あ……こういうお店、苦手でした?」
「そういう訳じゃないんだけど、ちょっと、個人的な理由があってね。あ、いや。お店と何かトラブルがあったってわけじゃないんだけど……」
七森は困った顔をした後、すぐに決心したような顔で、さらに続けた。
「実はここ、昔付き合っていた
「────」
今度は玲が言葉を失う。この数日間、ずっと予感していたことが、当たったと確信する。
七森は、さらに続ける。
「まあ、もう何年も前の話なんだけど、お店の人はたぶん僕のことを覚えているだろうからね。違う女性を連れてきたら、なんとなく気まずい雰囲気になるかもしれないし」
「……あ……そ……そうでしたか……すみません、あたし、なんにも知らなくて……」
玲はしどろもどろになって答える。動揺は、隠せそうにない。
「ああ、いや、知らなくて当然だよ。木崎がウチの店でバイトをする前の話だし。ゴメンね、変な話をして。中華料理なら、他にいいお店を知ってるから、ちょっと歩くけど、そこへ行こう」
「……はい」
二人は萌やしを離れ、アーケード街へ戻る。七森が案内してくれたのは、県内でもかなり大きなホテルの一階にある中華レストランだった。高級店の雰囲気だが値段はかなりリーズナブルでオススメだそうだ。しかし、玲はもうコンサート以上に心ここにあらずで、なにを注文したのか、味はどうだったのか、もう何も判らなかった。テーブルいっぱいに並んでいた料理もいつの間にか食べ終わり、支払いを終え、ホテルを後にする。理央の作戦には、食後はイイ感じの公園で愛の告白、というプランもあったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。「送るよ」という七森に対し、「いえ、あたしそこのバスなんで、大丈夫です」と、すぐそばにあるバス停を指さす玲。ちょうどバスが来たので、「七森さん、今日は、ありがとうございました」と礼を言い、乗り込んだ。
「じゃあ、また明日」
右手を挙げる七森に、精一杯の笑顔を返し、「はい。また明日」と応える。ドアが閉まり、玲は席につく。バスが発車し、七森の姿が見えなくなってから、玲は大きくため息をつき、肩を落とした。
「……やっちまったなぁ、って感じですな」
後ろの席からぬっと顔を出した理央が、背もたれに腕を組んで乗せた。
「なんであそこで『萌やし』に行くかな。仮に元カノとの思い出のお店じゃなかったとしても、初デートで味玉ラーメンモヤシ大盛りギョーザマシマシは無いでしょ?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……理央ちゃん」
「おいっす」
「なんでいるの?」
「このあたしが、親友一世一代の恋の大勝負を、ほっとくわけないでしょ。昔の偉い人曰く、旦那を質に入れてでも見ないといけない試合よ」
「質に入れる旦那なんていないでしょ」
「まあね」
「どこから見てたの?」
「コンサートホール前で待ち合わせしたところから始まって、コンサート会場で玲ちゃんが元気なかったことや、味玉ラーメンモヤシ大盛りのお店に行こうとして元カノと一緒によく行った店だからって断られて、高級そうだけど実はリーズナブルな中華レストランで二人黙々とご飯食べてたところまで、かな」
「全部見てたわけね」
「そ。ちなみにあのレストラン、ギョーザが絶品だったよ。玲ちゃんたちは食べなかったみたいだけど」
「そうなんだ。何を食べたのか、全然覚えてないや」
玲が苦笑いでそう言った。
理央は「ギョーザクサいのは勘弁してね、あんな絶品ギョーザのお店に行った玲ちゃんたちが悪いんだから」と言いながら、玲の隣の席に座った。「しかし、これは事前に想定していた以上に問題だったわね。まさか、七森さんがあれほど堂々と元カノのことを話すとは……玲ちゃん、ズバリ言っちゃうけど、七森さん、玲ちゃんのこと、全然恋愛対象として見てないよ」
「……やっぱり、そう思う?」
「残念ながら、そう言わざるを得ない状況だね」理央は眉間にしわを寄せ、顎に手を当てた。「ホントに困ったものだわ。まだ葉月さんとのこと引きずってるなんて……完全に想定外だった」
「葉月さん……?」
聞き覚えのある名前だった。確か、理央が今の楽器店でアルバイトを始めた頃、お世話になった先輩だと言っていた。
「それってもしかして、七森さんが、前に付き合ってたって人?」
玲が訊くと、理央は「そう。葉月
「ううん、それは別にいいんだけど……」
その名を聞いて、玲はすぐにピンときた。
「その葉月さんと、七森さんって、なんで別れちゃったの?」玲はさらに訊いた。
理央は、うーん、と唸った後、「これは、玲ちゃんの恋を応援するために教えるんだからね。決して、あたしの口が軽いわけじゃないからね」と念を押すように言い、七森と葉月について話し始めた。
葉月香と七森はイザベラ音楽大学時代からの同級生だった。彼女の専攻はチェロ。大学卒業後も、七森と二人、プロを目指してレッスンやコンクールに励んでいた。その関係についてはハッキリと公言はしなかったが、恋人同士か、それに近い関係であったことは間違いないという。
「葉月さん、チェロだけじゃなく料理も得意でね、いっつも二人でお揃いのお弁当食べてたの。あたしから見ても、二人はかなりラブラブだったなぁ。でも、七年前だったかな? 『新日本弦楽器コンクール』っていう日本有数の弦楽器のコンクールの地方予選があって、二人はそれに挑戦したの。その結果、七森さんは見事予選を突破したけど、葉月さんはダメだったみたい」
出身大学に、専攻している楽器に、料理やコンクール、そして、コンクールの結果……やはり、全てがHARUのツブヤキと一致する。
「でね、七森さんは、東京で行われる本選に向けて練習を頑張ってたんだけど、葉月さんは、ある日突然プロになるのを諦めて、一人で実家に帰っちゃったの」
「え?」と、玲は大きく目を見開いた。ツブヤイターでは、HARUは落選したことに関してはさほど落ち込んでいる様子はなく、七森を支えると張り切っていた。それが、なぜそんなことに……。
「それが影響したのか、本選でも絶対優勝間違いなし、と言われていた七森さんが、まさかのミス連発で落選。それ以降は、七森さんもプロになるのを諦め、今の会社に正社員として就職しちゃったってワケ」
「でも、なんで葉月さんは、七森さんと別れちゃったの?」
「それがわかんないのよね。葉月さん、あたしはもちろん、七森さんにも詳しい理由は言わなかったみたいなの。ただ、夢は諦めて実家に帰る、って告げただけ。その年のコンクール落選が、よっぽどショックだったのかもね」
そうだろうか? HARUのツブヤイターを見た限りでは、それほど落ち込んでいたようには見えなかった。もちろん、SNSに本音を書き込むとは限らないが、夢を諦めるだけならまだしも、あれだけ彼を支えようと決意していたのに、理由も告げず別れて一人実家に帰ったのは、あまりにも不可解だ。
「まあ、葉月さんのことは考えても仕方ないよ。それより、いま大問題なのは、七森さんの気持ちだよ、玲ちゃん」
「七森さんの気持ち?」
「そう。玲ちゃんは味玉モヤシラーメン大盛りのお店を断られてからずっと心ここにあらずだったから気付かなかっただろうけど、あれから、七森さんもずっと玲ちゃんと同じような感じだったよ」
「え? そうだったの?」
「そう。二人揃ってお通夜のお振舞いみたいな雰囲気だった。試しにあたし、隣の席から小龍包と八宝菜と五目あんかけ焼きそばを盗み食いしてみたけど、二人ともぜんぜん気付かなかったもん」
「なんか料理減るの早いな、とは思ってた」
「安心して。盗み食いした分の料金は、あたしの方の伝票に移し替えておいたから」
「変なとこで律儀なんだね」
「まあ、それはさておき……七森さんのあの様子、完全に味玉モヤシラーメン大盛りで葉月さんのことを思い出したからだよ。七年も経ったたからさすがにもう吹っ切れたと思ってたんだけど、まさかまだ引きずってたとはね。玲ちゃんが愛の告白を断念したのは賢明な判断だったと思う。あそこで告白しても、絶対に撃沈してただろうからね」
賢明な判断、というよりは、あの状況で告白する勇気が玲に無かっただけだ。HARUのことが頭から離れなかったから。
思えば。
あの日──屋上で七森の演奏する『カノン』を聴いた時。
彼に、どうしようもない孤独を感じた。
『カノン』は、本来三つのバイオリンで演奏する曲だ。もしくはそれをアレンジし、チェロやピアノなどほかの楽器に置き換えて演奏される。三つの演奏が追いかけっこをすることで壮大なハーモニーを生み出すのが『カノン』最大の特徴なのだ。
ゆえに、一人で演奏されることは、あまりない。
あの日、彼が演奏したのは、決して追いかけてくる人がいない、孤独な演奏だった。
演奏中、彼は何度も、少し離れた場所を見ていた。もちろん、そこには何も無かった。誰もいなかったというべきだろう。あの時、彼は思い描いていたのだ。自分の演奏を追いかけてくる人の姿を。そこにいてほしい人の姿を。
そして。
それは、決して、玲ではない。
そのことが、今日、はっきりと判った。
「でも、そう気を落とすことはないよ、玲ちゃん」理央は、玲を励まそうとひときわ明るい声で言う。
「そう、かな?」
「うん。葉月さんのことをあそこまで引きずってるのは正直想定外だったけど、でも、葉月さんとはもうきっちり別れてるんだし、玲ちゃんもまだフラれたワケじゃないし、ちょっと作戦を練り直して、ここからまた攻めて行きましょう。大丈夫、まだ望みはあるから」
理央は両手の拳を握ってぶんぶんと振った。その姿に、玲は思わず笑みを浮かべ、「ありがとう、理央ちゃん」と、お礼を言う。
「と、いうことで、あたしはこの辺でおサラバさせていただこう」
理央は腕を伸ばし、停車ボタンを押した。理央の自宅は玲とは完全に方向が逆で、このままでは終バスを逃してしまう。
「ゴメンね、あたしの話聞くために、わざわざ反対のバスに乗ってくれて」
「あたしが勝手にやっただけだから、いいってことよ」
バスが停車し、席を立つと理央に、「ありがとね、理央ちゃん。今度お礼にタコ焼きおごるから」と伝えると、「このお好み焼きの町であえてタコ焼きとは、お主もワルよのう」と言ってにんまりと笑い、「じゃあ、また明日」と手を振って、理央はバスを降りた。そして、ちょうど反対側の車線にバスが来たので、慌てた様子で横断歩道を渡りバス停に走っていった。
フフフ、と笑いながら、玲はもう一度心の中で理央にお礼を言った。