逸見。でも波瀾万丈   作:ここにしかない

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1 逸見エリカの朝は早い。

 逸見エリカの朝は早い。

 〇六〇〇時。起床。寝床を素早く畳む。

 次に、湿ったネグリジェをはだける。

 高校生ながら、戦車乗りらしい締まった体が顔を覗かせた。

 鏡を見る。

 寝癖が気になるので、シャワーを浴びる事にした。

 お湯が出るのはありがたい――そう思う間もなく、下からは忌々しい雫が垂れてくる。

 それは水流に溶け、穴の奥へと吸い込まれていった。

 上がると、清潔な下着に穿き替える。

 ブラシで整えながら、鏡の前で、濡れ髪をブローする。

 ……少しは、笑えばいいのに。

 〇六三〇時。制服を着る。

 が、袖を通したジャケットは、黒森峰のそれではない。

 黒、灰、そして赤。

 かつて憧れ、手に入れ、自己の拠り所であったはずの、色。

 その色は、永遠に失われた。

 さしずめ今の自分は――――そう、まっさらな白。

 何物でもない、ただの白。

 ……等と考えながら、朝食を並べ、口に運ぶ。

 モサモサとした触感が、不快。

 味が遅れてやって来るのにも、慣れた。

 逸見エリカが食事中に思うのは、いつも、たった一つの事。

 隊長の微笑み。みほの笑顔。そして、それを眺めている自分。……でも。

 

 もう、あの頃には戻れないのだ――――。

 

 熊本が懐かしい。

 できる事なら還りたい。でも…………。

 

 食事が済み、手隙にスマートフォンを操作する。

 気象予報によると、今日は終日、曇りらしい。

 

「……フン。私はいつだって、曇りよ」

 

 無意識に漏れたつぶやきも、聞かせる相手のいないまま、部屋の隅に霧散した。

 〇七二〇時。

 今日の頭痛は特に、酷い。

 鈍い重みに圧されるように、エリカは部屋に、冷たい鍵をかけた。

 

 かくして逸見エリカは、今朝もまた、人の群れに紛れた。

 老若男女が、同じ方向へと歩く。

 戦車のない世界は、音で溢れていた。

 足音。衣擦れ。咳払い。

 今までティーガーの駆動音がかき消してくれていたノイズが、無作為にエリカの耳に飛び込んで来る。

 中でも、ひと際――。

 

『芳佳ちゃん、おはよー』

『あっ! リーネちゃん、おはよー!』

 

 人が人と、触れ合う時の音。

 この音ほど、エリカの心を波立たせるものはなかった。

 

(…………なによ! なによっ!)

 

 眉根を寄せ、悪態を口内で噛み殺す。

 自分が失い、二度と手に入れることが叶わない幸福。

 それを他人に目前で見せられるほど、残酷な仕打ちはないとエリカは思っていた。

 独りの時間は長く、そして終わりが見えない。

 出口のないトンネルを彷徨えるほど、エリカの心身は頑丈ではなかった。

 

 〇八〇〇時。

 逸見エリカはスカートを翻し、学校へと進んでいた。

 同じ制服の群れが、一つの建物に向かって歩いて行く。

 初めはバラバラだが、それは建物に近付くほど声を発し、塊になっていった。

 どの塊も、笑顔と、若さに満ちている。

 それを見た途端、エリカの足が重くなった。

 今日一日、どこに行ってもこの光景を見せられる……それはエリカにとって耐えがたい苦痛だった。

 きっとみほも、今の自分と同じ境遇だったのだろう。

 でも、みほは……知らない土地でひとりで暮らし、自分を晒して、他者に受け入れられた。

 みほに久しぶりに会った時、周りには、仲間の笑顔が咲いていた。

 ……私には、できないよ。

 みほにできた事が、私にはできない――!

 

 その時だった。

 

「よっ、逸見! 今日も可愛いじゃん」

 

 背後から、誰かがエリカに声をかけた。

 そして、軽く肩を叩かれた。

 

「なっ……!?」

 

 エリカは咄嗟に、声のした方を振り返った。

 が、そこに人はおらず、代わりに、いかにも軽薄そうな男子生徒がエリカを追い抜き、校舎を目指して走って行った。

 逸見エリカは、その姿に覚えがあった。

 同じクラスの…………そう、頭の悪そうな、世の中を理解せず、何も考えていなさそうな、目立たない男子。

 そいつが一言、たまたま今日、何の気まぐれか、一言、言っただけ。

 たった、それだけなのに――。

 

 エリカはその場に立ち止まった。そして硬直した。

 体温が上がり始め、背中に汗が滲み、鼓動が早くなる。

 腰の痛みも忘れるほど、感情が昂り、頭に血が上っていくのが分かった。

 エリカのまっさらだった白が、みるみる赤く、染まっていく。

 

「ばっ……馬鹿にしてるわけっ!?」

 

 逸見エリカは、自分でも未だよく理解っていない感情に突き動かされて、男子生徒を追って、校門をくぐり抜けた。




つづきません。
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