逸見エリカの朝は早い。
〇六〇〇時。起床。寝床を素早く畳む。
次に、湿ったネグリジェをはだける。
高校生ながら、戦車乗りらしい締まった体が顔を覗かせた。
鏡を見る。
寝癖が気になるので、シャワーを浴びる事にした。
お湯が出るのはありがたい――そう思う間もなく、下からは忌々しい雫が垂れてくる。
それは水流に溶け、穴の奥へと吸い込まれていった。
上がると、清潔な下着に穿き替える。
ブラシで整えながら、鏡の前で、濡れ髪をブローする。
……少しは、笑えばいいのに。
〇六三〇時。制服を着る。
が、袖を通したジャケットは、黒森峰のそれではない。
黒、灰、そして赤。
かつて憧れ、手に入れ、自己の拠り所であったはずの、色。
その色は、永遠に失われた。
さしずめ今の自分は――――そう、まっさらな白。
何物でもない、ただの白。
……等と考えながら、朝食を並べ、口に運ぶ。
モサモサとした触感が、不快。
味が遅れてやって来るのにも、慣れた。
逸見エリカが食事中に思うのは、いつも、たった一つの事。
隊長の微笑み。みほの笑顔。そして、それを眺めている自分。……でも。
もう、あの頃には戻れないのだ――――。
熊本が懐かしい。
できる事なら還りたい。でも…………。
食事が済み、手隙にスマートフォンを操作する。
気象予報によると、今日は終日、曇りらしい。
「……フン。私はいつだって、曇りよ」
無意識に漏れたつぶやきも、聞かせる相手のいないまま、部屋の隅に霧散した。
〇七二〇時。
今日の頭痛は特に、酷い。
鈍い重みに圧されるように、エリカは部屋に、冷たい鍵をかけた。
かくして逸見エリカは、今朝もまた、人の群れに紛れた。
老若男女が、同じ方向へと歩く。
戦車のない世界は、音で溢れていた。
足音。衣擦れ。咳払い。
今までティーガーの駆動音がかき消してくれていたノイズが、無作為にエリカの耳に飛び込んで来る。
中でも、ひと際――。
『芳佳ちゃん、おはよー』
『あっ! リーネちゃん、おはよー!』
人が人と、触れ合う時の音。
この音ほど、エリカの心を波立たせるものはなかった。
(…………なによ! なによっ!)
眉根を寄せ、悪態を口内で噛み殺す。
自分が失い、二度と手に入れることが叶わない幸福。
それを他人に目前で見せられるほど、残酷な仕打ちはないとエリカは思っていた。
独りの時間は長く、そして終わりが見えない。
出口のないトンネルを彷徨えるほど、エリカの心身は頑丈ではなかった。
〇八〇〇時。
逸見エリカはスカートを翻し、学校へと進んでいた。
同じ制服の群れが、一つの建物に向かって歩いて行く。
初めはバラバラだが、それは建物に近付くほど声を発し、塊になっていった。
どの塊も、笑顔と、若さに満ちている。
それを見た途端、エリカの足が重くなった。
今日一日、どこに行ってもこの光景を見せられる……それはエリカにとって耐えがたい苦痛だった。
きっとみほも、今の自分と同じ境遇だったのだろう。
でも、みほは……知らない土地でひとりで暮らし、自分を晒して、他者に受け入れられた。
みほに久しぶりに会った時、周りには、仲間の笑顔が咲いていた。
……私には、できないよ。
みほにできた事が、私にはできない――!
その時だった。
「よっ、逸見! 今日も可愛いじゃん」
背後から、誰かがエリカに声をかけた。
そして、軽く肩を叩かれた。
「なっ……!?」
エリカは咄嗟に、声のした方を振り返った。
が、そこに人はおらず、代わりに、いかにも軽薄そうな男子生徒がエリカを追い抜き、校舎を目指して走って行った。
逸見エリカは、その姿に覚えがあった。
同じクラスの…………そう、頭の悪そうな、世の中を理解せず、何も考えていなさそうな、目立たない男子。
そいつが一言、たまたま今日、何の気まぐれか、一言、言っただけ。
たった、それだけなのに――。
エリカはその場に立ち止まった。そして硬直した。
体温が上がり始め、背中に汗が滲み、鼓動が早くなる。
腰の痛みも忘れるほど、感情が昂り、頭に血が上っていくのが分かった。
エリカのまっさらだった白が、みるみる赤く、染まっていく。
「ばっ……馬鹿にしてるわけっ!?」
逸見エリカは、自分でも未だよく理解っていない感情に突き動かされて、男子生徒を追って、校門をくぐり抜けた。
つづきません。