王立魔法学院山岳部遭難事件 作:匿名
空は、腹が立つほど青かった。
「晴れたー!」
記録水晶いっぱいに、リナの顔が映った。
『近い近い』
「ノア先輩、山も撮ってくださいよ!」
『君が入ってくるんでしょうが』
水晶が持ち上がる。
白い峰の下にはどこまでも雪原が広がり、朝日に照らされたディアトレフ山が雲ひとつない青空へ突き刺さっていた。
「すごい……」
ヴィオレッタが立ち止まった。
「こんなに綺麗なのね」
「だから来たかったんだ」
アルベルトが隣へ並ぶ。
「写真、撮ります?」
リナが聞いた。
「帰りにしましょう。今撮ったら、またノアに遅いって言われるわ」
『俺、そんなこと言いました?』
「顔に書いてある」
『水晶越しに?』
笑い声。
先頭を歩くガルだけが振り返らなかった。
巨大な荷を背負い、一定の速度で雪を踏んでいく。
『ガルさん』
「なんだ」
『めちゃくちゃ晴れてますよ』
「見れば分かる」
『……朝から機嫌悪いですね』
「人間と山に登っているからな」
セドリックが吹き出した。
「お客が嫌いなら、商売を変えた方がいいんじゃないか」
「俺たちが案内しなければ、人間は山を荒らす」
「荒らしたりしないさ。ほら、道なら僕たちでも分かる」
セドリックは雪原へ向き直った。
「そっちではない」
ガルが前へ出て、進路を塞いだ。
「俺より先に行くな。足を置く場所ぐらいは聞け」
「はいはい、頼りにしてます」
また笑いが起きた。
ガルは笑わなかった。
第一キャンプまでの道は、拍子抜けするほど穏やかだった。
雪は締まり、風も弱かった。何より、明るい。
昨日は日没に追われていた一行も、この日は何度も足を止めた。
『セドリック先輩、もう一回』
「同じ説明ならさっき撮っただろう」
『宣伝したいんでしょう?』
「もちろん。そのための撮影だからね」
セドリックが外套を広げる。
「クロフォード魔導具工業、新型高高度外套の《スノーフェザー》。この薄さで——」
「さっきもやったじゃない」
ヴィオレッタが笑う。
「背景が違う。製品を使う場所が見えなきゃ意味がない」
「山は全部雪でしょう?」
「同じ雪でも北壁なら話が違う。分かる人には分かるんだ」
少し離れたところでは、リナが雪を丸めていた。
「ヴィオレッタ先輩」
「なあに?」
「えい」
雪玉が飛ぶ。
「きゃっ!」
「命中!」
「ちょっと!」
ヴィオレッタも雪を掴む。
「先輩に投げたらどうなるか、覚悟はよろしくて?」
「魔法なしですよ! 手で投げてくださいね!」
今度はヴィオレッタの雪玉がリナの肩に当たった。
二人が笑う。
『仲良いですねえ』
ノアが言った。
「せっかく誘ったんですもの。楽しんでもらわなくては」
「子供扱いしないでください」
「一年生でしょう?」
「二つしか違いません!」
その後ろで、ガルが二人を睨んでいた。
『ガルさん、また怒ってます?』
「いつも怒っている」
『それは知ってます』
「なら聞くな」
リナが作りかけの雪玉を落とした。
「行きましょう。部長、待ってる」
「そうね。ノア、足元をご覧なさい。後ろ向きで歩かないの」
昼前、第一キャンプに着いた。予定より一時間近く早い。
ノアが水晶を下げる前に、セドリックが上の斜面を指した。
「第二まで行けそうじゃないか。明日、山頂で撮る時間も取れる」
「今日の予定はここまででしょう」
ヴィオレッタがアルベルトを見る。
「風が強くなったら止まる。まだ余裕はあるし、明日を楽にしておこう」
「荷を下ろせ。ここで泊まれ」
ガルは先に荷を下ろしていた。
セドリックが、部長の背の銀色の包みを叩いた。
「第二でも天幕があれば平気だ。《スノー・シェル》は雪崩にも耐えるんだよ」
「天幕の丈夫さを聞いていない」
「俺が先を見て決める。無理なら戻る。それで行こう」
アルベルトが歩き出すと、学生たちも続いた。ガルは舌打ちをして荷を背負い直した。
『絶好調』
ノアが山頂を映した。
『これ、管理人さん心配しすぎだったんじゃないですか?』
アルベルトが笑った。
「遊ぶなよ。着いたら全員で天幕を張る」
『了解、部長』
「そこはちゃんと聞くんだな」
『俺はいつでも部長を尊敬してますよ』
「嘘つけ」
少し先でセドリックが立ち止まった。
「おい。ここ、いいんじゃないか?」
雪の張り出した岩場だった。
その向こうに北壁と山頂が綺麗に収まっている。
「写真?」
「せっかくだ。会社にも送れる」
『いいですね』
ノアの水晶が動く。
セドリックが崖側へ立った。
『もうちょっと右』
「こっち?」
『そう。あと一歩くらい』
「ノア、さっきから注文が多いぞ」
『広告写真にするんでしょう?』
「……それもそうだ。紋章は大きく入れてくれ」
「私も入る」
ヴィオレッタが隣へ行く。
リナも続いた。
「私も」
「リナ君は内側。新入生を端に立たせた写真は使えない」
「私だけですか? 落ちたら困るのは先輩だって同じでしょう」
「縁起でもないこと言わないの」
ノアが笑う。
少し離れたところから、アルベルトが声をかけた。
「そこ、あんまり端に行くなよ」
『大丈夫ですよ。はい、三、二——』
「動くな!」
ガルの声だった。
全員が止まる。
「そこから離れろ」
セドリックが足元を見る。
「何だ?」
「雪庇だ」
ガルが巨大な荷を背負ったまま近づいてくる。
「下に地面はない。ゆっくり戻れ」
「戻ればいいんだろう、少しぐらい——」
セドリックが半歩動いた。
雪が沈んだ。
「え」
白い地面が割れた。
映像が激しく揺れる。
「セドリック!」
セドリックの身体が崖側へ傾いた。
ガルが飛び込んだ。
小さな手が、セドリックの外套を掴む。
「伏せろ!」
セドリックが雪面へ倒れ込む。
助かった。
次の瞬間。
ガルの背中の荷が、崩れた雪庇の向こうへ振られた。
「ガル!」
アルベルトが手を伸ばした。
届かなかった。
ガルの身体が、大荷物に引かれるように崖の向こうへ消えた。
水晶が雪へ落ちた。
画面いっぱいに、青空だけが映っていた。
「ガル!」
「ロープ! 早く!」
水晶は誰かに拾われたらしい。記録は断続的に残っていた。
「ガル! 聞こえるか!」
アルベルトが腹這いになり、崖下へ叫んでいる。
返事はない。
「探知、どう?」
「崖に当たって、返ってくる光ばかりです」
リナの手から青白い光が崖下へ流れていく。
「返ってきたら人がいるんじゃないのか?」
「岩も氷も返すんです。場所を変えて、もう一度やります」
「頼む」
「先輩、ロープ」
『俺が降ります』
「駄目よ!」
ヴィオレッタがノアを止める。
『でも——』
「どこにいるかも分からないのに、あなたまで落ちたらどうするの!」
セドリックは雪の上に座り込んでいた。顔は青く、外套を掴まれたところを握っている。
「僕が下りる。ロープを貸してくれ」
「セドリック」
「僕の外套を掴んだんだ。あの人は」
「分かってる。だから今は下りるな」
「僕があそこに立たなければ」
「事故だ」
「でも——」
「事故だ!」
アルベルトが怒鳴った。返事を待たず、崖の下へ向き直る。
「……リナは探知。ノア、ロープを押さえろ。俺が呼ぶ。まだ探せる」
それから、可能な限りの捜索が続いた。
リナが場所を変えて探知を繰り返す。部長の声がかれるたびに、ノアが代わって叫んだ。下ろしたロープは誰にも掴まれず、風に揺れていた。
昼を過ぎても、ガルからの返事はなかった。
『午後三時四十六分』
ノアの声はもう明るくなかった。
『ガルさんは見つからない』
空には雲が増えていた。
風も強くなっている。
「……どうする」
アルベルトが言った。
誰も答えない。
「第一キャンプへ戻るなら、今だ。全員、歩けるか」
ヴィオレッタが顔を上げた。
セドリックは俯いたまま。
リナも何も言わない。
「僕は……」
セドリックが口を開いた。
「行けます」
「セドリック」
「ここで取りやめたら」
声が詰まる。
「ガルは、何のために……」
「そういう話じゃない」
アルベルトが言った。
「分かってるよ。帰って、何て言えばいいんだ」
セドリックは顔を上げなかった。
「僕は歩ける。進めるよ」
アルベルトがヴィオレッタを見る。
「ヴィオレッタ」
「あなたが大丈夫とおっしゃるなら」
「リナはどうだ」
三年生たちの視線が一年生へ集まった。
「……ついていけます」
最後にアルベルトが水晶を見る。
「ノア」
映像が少し揺れた。
『……俺も行けます』
誰一人、行きたいとは言わなかった。
アルベルトは長く黙っていた。
「分かった」
そして言った。
「第二まで行こう。天幕を張って、そこで休む。俺から離れるなよ」
* * *
「いや、帰りなさいよ!」
ミアが机を叩いた。
「今! 今ですよ!」
「そうだな」
「そうだな、じゃないですよ!」
グレゴリーは腕を組んでいた。
「ガイドさん死んでるんですよ? 天気も崩れてきてる。共同装備も落ちた。なんで登るんですか!」
ミアは水晶へ手を伸ばしかけた。
「誰か一人、帰ろうって言えば……」
巻き戻しても、その声は増えない。
「この時点なら、残り五人は助かったんですよね」
「おそらくな」
グレゴリーは水晶へ魔力を流した。
「だが、彼ら自身がそうしなかった」
* * *
第二キャンプに到着したのは、日が沈む少し前だった。
『着いた……』
ノアの声は疲れ切っていた。
水晶が夕暮れの山頂を映す。
朝には遠く見えた頂が、今はすぐそこにあるように見えた。
『ディアトレフ山、第二キャンプ』
風が強い。
『ガルさんはいない』
ノアはそれだけ言った。
しばらく、山頂だけが映っていた。
「ノア」
アルベルトの声。
「天幕張るぞ」
『はい』
水晶が雪の上へ置かれる。
映っているのは五人の足だけだった。
銀色の《スノー・シェル》が広がる。
魔法杭が雪へ沈んでいく。
「風、強くなってきましたね」
リナの声。
「予報通りだな」
「こんなときだけ、きちんと当たるのね」
ヴィオレッタが言った。
誰も笑わなかった。
その夜、水晶はノアの顔を近くから映していた。背後は銀色の天幕で、外の風に合わせて膨らんでは戻った。
『眠れない。たぶん、みんな同じです。寝返りの音だけ、ずっとする』
昼間は人に向けていた水晶を、今は両手で抱えている。
『帰りたかったんだよな。俺。ガルさんが落ちたところで』
笑おうとして、やめた。
『部長に言えばよかった。撮る位置を変えろって、セドリック先輩にはあんなに注文したのに』
天幕の奥で誰かが咳をした。ノアはそちらが静かになるまで待った。
『俺が右へ行けって言ったんです。もう一歩って。映ってるから、消さない』
鼻をすする音が近かった。
『明日起きたら帰ろうって言う。部長が聞いてくれなかったら、もう一回言う。それくらいは、できる』
そこでノアは記録を止めた。
* * *
ミアは消えた映像を見ていた。
「明日は、言えますよね」
人に注文をつけるのは、得意な人だった。今度は、その調子で言ってほしかった。
「この人が、部長を止めてくれたんですか?」
グレゴリーは答えず、水晶を箱へ戻した。
「明日の記録は短い」
「何があるんです?」
グレゴリーは箱の蓋を閉じた。
「ここから、彼らの本当の遭難が始まる」