王立魔法学院山岳部遭難事件 作:匿名
真っ白だった。
それ以外、何も映っていない。
『起きろ!』
声だけがした。
『ヴィオレッタ! 起きろ!』
『……なに……?』
『雪崩だ!』
激しく咳き込む音。
『リナ! リナは!?』
『ここ……います!』
『セドリック!』
『いる!』
『ノアは!?』
返事はなかった。
『ノア!』
白い画面の端で、細かな粒が流れた。誰かが雪を掻く音がする。
『ノア! 返事しろ!』
『部長、少し静かに! 探知します!』
短い詠唱。
低い魔力音が響く。
『……駄目』
『範囲を変えてくれ! 俺は下を掘る!』
『やってます、聞こえないから静かにしてください!』
『水晶は? ノアの水晶!』
『見当たらない!』
『ノア!』
映像は動かなかった。
ただ雪だけを映している。
『こっち掘って!』
『そこは天幕があった場所よ!』
『そこを掘れ! 俺も行く!』
『いない!』
『もっと下だ!』
『アルベルト、待って!』
『離せ!』
『お願い、止まって! 足元がまた割れてる!』
『ノアが埋まってるんだぞ!』
『分かってる!』
荒い呼吸と、雪を掻く音が続いた。誰かが泣いている。風が弱まると、すすり上げる声だけが近くなった。
それからしばらく、言葉らしい言葉は残っていなかった。
『……いない』
アルベルトの声だった。画面の隅の時刻は、一時間以上進んでいた。
『探知範囲を広げます』
『リナ、もういい』
『まだできます』
『その先は届かない。自分たちの明かりまでなくなる』
『でも、ここにも反応がありません』
『……分かってる』
沈黙。
『……ノア』
ヴィオレッタの声。
返事はない。
風が吹く。
何かを引きずる音。
『天幕は?』
ヴィオレッタが聞いた。
『使えない』
セドリックが答えた。
『使えないって、修理は?』
『布が裂けた。残りは下まで流れてる』
『そんな』
『雪崩の直撃だ。仕方ない』
『仕方ない?』
アルベルトの声が低くなった。
『お前、雪崩にも耐えるって言ったよな』
『小規模なら、だ!』
『何?』
『仕様にあるのは小規模の雪崩だ。これがそう見えたのか?』
『お前の会社の宣伝映像じゃ、雪崩にも耐えるって——』
『広告は概要だよ! 使える条件まで一言で説明できるわけないだろ!』
『死人が出てるんだぞ!』
『僕のせいじゃない!』
セドリックの声が裏返った。
『僕が雪崩を起こしたとでも言うのか!』
『誰もそんなこと言ってないでしょう!』
ヴィオレッタが割って入る。
『同じだろ! ガルもノアも、僕が殺したみたいな顔をして!』
『セドリック先輩』
『僕だって……』
息を呑む音。
『こんな使い方になるなんて、聞いてない!』
誰も答えなかった。
風だけが吹いている。
『……帰ろう』
ヴィオレッタが言った。
今度は、誰も反対しなかった。
『もういいでしょう』
声が震えている。
『山頂なんて、どうでもいい。帰りましょう』
『……ああ』
アルベルトが答えた。
『帰ろう』
『北側からは無理です』
リナの声。
『下の道、雪崩のせいで途中からありません。さっき明かりを飛ばしました』
『迂回は?』
『分かりません』
『地図を出せ』
紙を広げる音がした。風にはためいている。
『押さえて』
ばたつく音が止まった。
『ここです』
『北壁ルートは……』
『ここを通ってきたのに……』
ヴィオレッタが呟いた。
『じゃあ、どうするの』
沈黙。
『尾根へ出る。上だ』
アルベルトが言った。
『は?』
『山頂を越える』
『アルベルト』
『南側に巡礼路がある。山頂を越えれば、あとは下るだけだ』
『巡礼路って……』
セドリックが言った。
『南から来る、あの観光登山の道か?』
『ああ』
また沈黙。
今度はリナだった。
『……なんで』
『リナ』
『なんで最初から、そっちで登らなかったんですか』
『今それを言っても——』
『ガルさん、言ってたじゃないですか! 南から登れって!』
『分かってる!』
『分かってなかったからここにいるんでしょう!』
『リナ!』
『だって!』
声が震える。
『ガルさんもノア先輩も死んだんですよ!』
『俺だけで決めたんじゃない!』
アルベルトが怒鳴った。
誰も声を出さなくなった。
『……何?』
リナの声。
『北壁から行くって決めたとき、みんな賛成しただろ』
『部長が決めたからでしょう!』
『セドリックだって北壁じゃなきゃ宣伝にならないって言った!』
『会社に責任を押しつけるな!』
『誰も会社の話はしてません! 先輩に聞いてるんです!』
『君だって笑ってたじゃないか!』
『やめて!』
ヴィオレッタが叫んだ。
『お願いだから、もうやめて……』
すすり泣く声。
風。
『……リナ』
アルベルトが呼んだ。
『さっき、みんなも賛成したって言ったのは、違う』
返事はなかった。
『決めたのは俺だ。止められても登った。帰ったら、全部話す』
『アルベルト、まず帰ることを考えよう』
セドリックの声が近づいた。アルベルトは構わず続けた。
『それから製品のことだ。お前の会社にも調べてもらう』
『欠陥だと決まったわけじゃない』
『だから調べるんだ。俺の判断も、お前の装備も』
風の音がした。
『……行こう』
しばらくして、アルベルトが言った。
『布きれで次の夜は越せない。尾根を伝って山頂へ出る。南へ下りよう。……俺が先に行く』
『ノアは?』
ヴィオレッタだった。
アルベルトは答えなかった。
『ノアを置いていくの?』
『置いていくんじゃない』
『同じでしょう!』
『じゃあどうしろっていうんだ!』
声が割れた。
『俺だって探したい! でもここにいたら全員死ぬ!』
沈黙。
『……ごめん』
誰の声か分からなかった。
雪を踏む音がした。一人、また一人と遠ざかっていく。
『ノア』
最後にヴィオレッタの声がした。
『ごめんなさい』
足音が遠ざかった。
やがて風の音だけになった。
画面には、最後まで雪しか映らなかった。
* * *
「……きついですね」
ミアが呟いた。
「ああ」
「前の日まで、普通に楽しそうだったのに」
「遭難は、だいたいそうやって始まる」
「ノアさん、前の晩に『明日起きたら言おう』って言ってましたよね」
「ああ」
「明日って、言ったばっかりなのに」
グレゴリーは答えなかった。
水晶を停止させる。
「この水晶が回収されたのは、事故から二年後の春だ」
「そんなに後なんですか?」
「雪解けの早い年だった。登山者が雪渓で偶然見つけた」
ミアはひび割れた水晶を見る。
「二年も雪の中にあって、復元できたんですね」
「保存機構は壊れていなかった。学院が復元した」
グレゴリーが水晶を箱へ戻した。
ミアは閉じられた箱から、グレゴリーへ目を戻した。
「このあとどうなったんですか。四人は山頂へ向かったんでしょう?」
グレゴリーは立ち上がった。
書棚の奥から、分厚い革表紙の束を引き抜く。
束を置くと机が鳴った。
「……何ですか、これ」
「裁判記録」
「裁判?」
「事故から五年経った今も続いている」
「今も!?」
「原告はアルベルトの遺族」
ミアの表情が変わった。
「部長の?」
「ああ」
「相手は?」
グレゴリーが表紙を開く。
《グレイヴス遺族対クロフォード魔導具工業》
ミアがゆっくり顔を上げた。
「……セドリックさんの会社?」
「ああ」
「天幕の件ですか?」
「そのあとだ」
グレゴリーは最初の頁を開いた。
「雪崩のあと、四人は山頂を目指した」
「生きて帰るために」
「そうだ」
指が一行を叩く。
「そして、その途中でアルベルトはクレバスへ落ちた」
「え」
「落ちた時点では、生きていた」
ミアが息を呑む。
「じゃあ、助けられたんですか?」
「助けようとはした」
「……とは?」
グレゴリーは言った。
「救助に使ったロープが、途中で切れた」
ミアは裁判記録へ目を落とした。
「次は、その記録だ」