王立魔法学院山岳部遭難事件 作:匿名
途切れた声が、何度も母を呼んだ。
『お母様。聞こえていますか』
母の返答は、記録に残っていない。
0807-12-18。発信者、ヴィオレッタ・アシュクロフト。宛先、エレノア・アシュクロフト。
『やっと、つながった……。さっきから何度も呼んでいたの。山の途中では、全然届かなくて。救助隊に伝えてください。今、山頂にいます。……それから、少しだけ、お話しさせて』
風が強くなると、声まで遠ざかった。
『お母様が窓から見えるとおっしゃっていた、白いところです。何もないのね。雪と、岩ばかり』
小さく笑った。
『着いたら、皆で写真を撮るはずだったのに』
その先はしばらく聞こえなかった。
『ガルさんが亡くなりました。ノアも。それから、アルベルトも』
息を吸い損ねる音がした。
『クレバスに落ちたんです。でも、声は聞こえていたんです。脚を痛めただけだ、大丈夫だって。あの人、私たちに落ち着けって言うの。自分が下にいるのに。ロープを結んだから引いてくれって。だから、引いたんです』
何かが擦れる音。風が一度、声を消した。
『あと少しで手が届いたのに』
ヴィオレッタは泣いていた。
『最後に、私の名前を呼びました。落ちるとき、私の名前を』
言葉は続かなかった。しばらく雑音だけが残り、次に拾われた声は少し落ち着いていた。
『帰りたかったんです。ガルさんが落ちたところで。私、帰りたかった』
声のそばで、誰かが雪を踏んだ。ヴィオレッタは急に小声になった。
『アルベルトが決めてくれると思っていたの。あの人なら、一番いいようにしてくれる。私が余計なことを言って、困らせてはいけないって』
『ずっとそうしてきたから』
また足音が遠ざかる。
『あのとき、あの人も私を見ていたんです。何か言ってほしかったのかもしれません。ただ、私も歩けますって。そんな返事をして。帰りたいって言えばよかった。自分のことなのに、それもあの人に決めさせようとしていた』
ヴィオレッタは一度黙った。次に話し始めるまで、長くかかった。
『もう一つ、謝らなければならないことがあります。アルベルトには優しくしてもらいました。卒業したら結婚して、一緒になる。そのつもりでした。嫌だったわけではないの。それは、信じてください』
声が小さくなった。
『でも、好きな人ができてしまいました。アルベルトではない人を』
吹雪の音に、声が沈む。
『あの人を傷つけるのが、怖かったんです。だから言わずに……優しくされるたびに、また言えなくなって。帰ったら話すつもりでした。アルベルトにも、お母様にも。ちゃんと謝って、自分で決めるつもりで』
『もう謝れない』
しばらくして、ヴィオレッタははっきりと言った。
『でも、お母様には話します。帰りますから。絶対に、生きて帰ります。お母様。ごめんなさい。それから——』
大きな雑音のあと、声は戻らなかった。
* * *
ミアは魔法陣が消えるまで待った。
「部長、引いてくれって言ってます。自分で切る人の言葉じゃないですよ」
「少なくとも、その時までは助かろうとしていた」
「そのあと気が変わったかもしれない、ですか」
「切れる直前の言葉までは、残っていないからな」
「救助は、お母さんが呼んでくれたんですよね」
「その日のうちに届けている。山頂付近、とだけな。そこから吹雪が続いて、竜が飛べる空じゃなかった」
写しを伏せかけたミアの手が、途中で止まった。別のことが気になった。
「アルベルトさんは、好きな人がいたってこと、知らないまま……」
机の人物資料には、アルベルトとヴィオレッタの間に〈婚約関係〉と記されている。ずっと優しかった人。最後に名前を呼んだ人。
ヴィオレッタが誰に惹かれたのか、この資料にはなかった。
「これ、五年前の新聞に出てましたよね。セドリックさんとの三角関係だって」
「新聞はそう書いた」
「ロープを切る理由が、会社のほかにも……」
手帳へ書きかけた鉛筆が止まる。通信の写しを見直した。
「相手の名前、言ってませんね」
「新聞には載っていた」
「どっから出てきたんですか、その名前」
「お前が今書こうとしたところからだろうな」
ミアはセドリックの名前の横に、〈三角関係?〉とだけ書いた。子供の頃に聞いた噂を、そのまま証拠へ足すところだった。
「じゃあ、警部は誰だと思ってるんです」
「先に、こっちを読め」
グレゴリーが取り出したのは、汚れた革表紙の冊子だった。角が潰れ、綴じ糸に乾いた泥が詰まっている。
「ガルの業務日誌。翌年夏、遺体と一緒に回収された」
「ガルさんの……」
頁を開くと、細かな字で天候、気温、荷物の重さが並んでいた。数字には訂正もある。消し潰さず線を一本引き、その横へ書き直している。
「ここだ」
グレゴリーが示した行から、字の間隔が狭くなっていた。
「山中における性交は山神への重大な冒涜である旨……」
ミアは次の行を黙って読んだ。
「待ってください。これ、誰と誰です?」