綾小路清隆がチラムネ世界にいる話   作:Valkiria

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バレーボール編・第2章:物理的断罪と、不屈の道化

 

 

1

 

「……柊、七瀬」

 

 俺は振り返ることなく、抑揚のない声で後ろの2人へ告げた。

 

「ボールを上げろ。形はどうあれ、ネットの上にさえあればいい」

 

 俺の声に含まれた異様な平坦さに、背後の2人がわずかに息を呑んだ気配がした。

 先ほどまでの「手探り」の試行錯誤が完全に終わり、計算が完了したことを、彼女たちの直感も察知したのだろう。

 

「わ、分かった……! 上げるよ、綾小路くん!」

 

 夕湖が声を張り上げ、守備位置へ腰を落とす。  試合再開。2年1組の放ったフローターサーブが、ネットを越えてコート後方へと落ちてくる。

 七瀬悠月が即座に落下点へと滑り込んだ。

 

「くっ……上がって……!」

 

 彼女の腕に当たったボールは、しかし狙い通りのセッター位置へは戻らず、アタックラインの手前――ネットから大きく離れた空間へと乱れて跳ね上がった。

 常識的なアタッカーであれば、相手コートへ安全に押し返すのが関の山の「悪球(チャンスボール)」。

 

 だが――今の俺にとって、ボールが空中に存在しているという事実だけで十分だった。

 

 助走のステップを踏む。  迷いは微塵もない。

 床を捉えるシューズの反発力、アキレス腱の弾性、重心の上方移動。先ほど収集した体育館の環境データと、脳内の運動モデルが寸分狂わず噛み合っていく。

 

 ――ダンッ!!

 

 踏み切りとともに、視界が一気に跳ね上がった。  浅野海人の跳躍軌道から逆算した、最高到達点での滞空。  ネットの白帯が遥か下方へと沈んでいく。

 ブロックに跳び上がってきた海人と、空中で視線が交錯した。

 彼の瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。ネットから離れた位置であるにもかかわらず、俺の打点は彼のブロックの最高到達点を優に超えていた。

 

 俺は空中で上体を安定させ、右腕をしならせてボールの上部を捉えた。

 力任せの強振ではない。手首のスナップを鋭利に巻き込み、極限まで鋭角なドライブスピンをかける。

 

 ――ズドォッ!!

 

 空気を裂く重い打球音。

 海人の伸ばした指先の遥か上を通過したボールは、相手コートのアタックラインの内側――3メートルラインのわずか手前へと、鉛のように突き刺さった。

 

 19-23。

 

 床を叩いたボールが天井の鉄骨まで跳ね上がり、体育館全体に遅れてどよめきが走った。

 

「うそ……今の打点、何……!?」

 

 夕湖が目を丸くして立ち尽くし、悠月は冷や汗を流しながら俺の着地を見つめていた。  俺は感情を交えずに2人へ短く頷き、エンドラインへと歩を進めた。

 

2

 

 続いて、俺のサーブ。  エンドラインの後方に立ち、ボールの感触を指先で確かめる。

 公式球の縫い目、空気圧、指にかかる摩擦。すべてのパラメータは完全に把握できている。

 

(……この出力なら、コースのブレは数ミリ以内に収まる)

 

 俺はボールを高くトスアップした。  助走。踏み切り。最高到達点でのインパクト。  予選で見せていたような力加減のブレはない。

 

 ――バシィッ!!

 

 放たれたジャンプサーブは、猛烈な順回転を帯びて相手コートへと一直線に射出された。  狙ったのは、青海陽と隣のレシーバーの間のわずかな隙間。

 低い弾道で直進したボールは、相手の手元で急激に空気抵抗の渦に捕まり、床へと向かって鋭く沈み込んだ。

 

「えっ――!?」

 

 陽が腕を差し出そうとした瞬間には、ボールはすでに彼女の足元の床を強打していた。  ノータッチエース。

 

 20-23。

 

 連続得点。  俺は着地し、静かに息を整えた。  ネットの向こう側で、海人と陽が顔を見合わせ、言葉を失っているのが見て取れた。

 先ほどまでの「身体能力は高いが未熟な選手」という認識が、音を立てて崩壊していく。

 そこにあるのは、完全にコートを支配し始めた異分子に対する、本能的な戦慄だった。

 

3

 

「――っ、綾小路くん、頼む!!」

 

 夕湖が必死に上げたトスが、ネットから離れたレフト側へと山なりに上がった。  崩された体勢から何とか繋いだだけの、緩やかなハイセット。

 

 俺は助走に入った。  ダンッ! と床を蹴り、再び最高高度へと身体を放り出す。  白帯を遥かに見下ろす視界。

 海人が必死の形相でブロックに跳び上がってくるが、その手の位置は俺の打点よりも十数センチ低い。

 

 そして、そのブロックの背後。  バックライトの位置で、青海陽が低く腰を落として構えているのが見えた。

 その瞳には、恐怖ではなく、『何が何でも拾う』という純粋な闘志が宿っている。

 

(……立ち位置は、エンドラインの直上か)

 

 俺の脳内で、瞬時に弾道計算が完了した。

 この打点の高さから、あえて角度をつけずにストレート方向へフルスイングで打ち抜いた場合、ボールの軌道はエンドラインを大きく越える。

 通常であれば、明白な「アウト」になるコースだ。

 

 ――ただし、その弾道上に障害物が存在しなければ、の話だが。

 

 陽のポジショニングは、エンドラインの内側数センチ。  つまり、俺が放つ高速のアウトボールの直線上に、彼女の上半身――顔面が正確に位置していた。

 

 千歳朔のために戦う、健気なヒロイン。  だが、感情でコートに立っている人間ほど、物理的な事象の前には無力なものはない。

 相手の最も頑強な精神的支柱をへし折るには、精神論ではなく、逃れようのない現実を叩きつけるのが最も合理的だ。

 

 俺は右腕を完全に引き絞り、一切の手加減を排してボールの中心を叩いた。

 

 ――ドガァッッ!!

 

 空気を破裂させる重いインパクト音。  放たれたボールは強烈な無回転を帯び、超高速で直線軌道を突き進んだ。

 

「――っ!?」

 

 ブロックに跳んでいた海人が、空中でとっさに手を引っ込めた。  彼の優れた動体視力が、『このボールはアウトだ』と瞬時に判断したからだ。

 見送れば自分たちの得点になる。競技者として極めて正しい判断。

 

 だが、その判断によって、背後にいた陽の視界が開けた。

 

 陽の網膜に、白い球体が突如として拡大する。  反応のための時間は、コンマ1秒すら残されていなかった。

 

 ――ガグッッ!!

 

 鈍く、重い衝突音が体育館に響き渡った。  高速で飛来したボールが、陽の顔面の中央へと正面から激突した音だ。

 

「あぐっ……!?」

 

 声にならない呼気とともに、陽の頭部が激しく後方へと跳ね上がった。

 小柄な彼女の身体はボールの強烈な運動エネルギーを殺しきれず、まるで糸の切れた操り人形のように後方へと吹き飛ばされる。

 

 ドサリ、と受身も取れずに背中から床へ叩きつけられる陽。  顔面を弾いたボールは高く跳ね上がり、そのまま体育館の壁際へと力なく転がっていった。

 

 ワンタッチ・アウト。  主審が呆然としながらも、ホイッスルを口に運んだ。

 

 ピピッ――!!  21-23。

 

 体育館全体が、凍りついたような静寂に包まれた。  歓声も、拍手も起きない。  床の上に横たわり、微動だにしない女子生徒の姿を、誰もが息を呑んで見つめていた。

 

 俺は静かに着地し、膝のクッションで衝撃を逃がすと、床に倒れた陽を一瞥した。  鼻梁から赤い血が一筋流れ、頬が赤く腫れ上がっている。  直撃による強烈な衝撃。

 俺は何も言わず、感情を乗せることもなく、再びサーブを打つために自陣のエンドラインへと背を向けた。

 

4

 

「陽ちゃん!!」

 

 海人が血相を変えてネットの下をくぐり、陽のもとへと駆け寄った。  1組のクラスメイトたちも青ざめた顔で駆け寄ってくる。

 男子の全力スパイクが、至近距離で女子の顔面に直撃したのだ。試合の中断や選手交代が選択されても何ら不思議ではない事態だった。

 

「おい、陽! 大丈夫か!? 立てるか!?」

 

「……っ……う……」

 

 海人の呼びかけに、床に伏していた陽の身体が微かに動いた。  彼女は海人の腕を借りながら、よろめく足取りでゆっくりと上体を起こした。

 鼻からは鮮血が滴り、額から頬にかけて激しい内出血が広がっている。  だが――。

 

「……へ、へいき……っ。ちょっと、ビックリしただけ……!」

 

 陽はユニフォームの袖で乱暴に血を拭い、腫れた顔のまま、懸命に口元を引き結んで笑ってみせた。

 その指先は小さく震えていたが、千歳のためにという強固な意志が、彼女の肉体を無理やり立ち上がらせていた。

 

「心配ないから! 鼻血が出ただけだし……あたし、まだ戦えるよ!」

 

 周囲の生徒たちに向かって、小さくピースサインを掲げる。  その気丈な姿に、体育館のあちこちから安堵と感嘆の声が漏れた。  傷つきながらも立ち向かう不屈の少女。

 観衆の目には、理不尽な怪物に抗う健気なヒロインとして映ったことだろう。

 

 陽は詰め物を鼻に押し込み、ふらつく足取りで再び自陣の守備位置へと戻った。  そして、エンドラインに立つ俺を、真っ直ぐに睨み据えた。

 

「……待たせてごめんね、綾小路くん。次は、絶対に落とさないから」

 

 その瞳には、恐怖を塗り潰すほどの強い闘志が宿っていた。  体育会系の意地と、想い人のための献身。

 

(……大したものだな)

 

 俺はボールを手の中で転がしながら、冷徹にその姿を観察していた。

 だが、どれほど強靭な精神を持っていようと、人体が耐えられる衝撃の閾値には厳格な限界が存在する。

 気力で立っているだけの肉体は、次の負荷に対してより脆く崩れ去る。

 

 ピィッ!  試合再開の笛が鳴った。

 

5

 

 ラリーが再開される。  会場全体の空気は、完全に2年1組――青海陽への応援一色に染まっていた。

 だが、その熱気とは裏腹に、2年5組のコートからは悠月のトスが再びレフトの俺へと綺麗に上がっていた。

 

 俺は助走を開始した。

 

 ――ダンッ!!

 

 三度、跳躍。  ネットの向こうで、海人が必死にブロックの手を伸ばし、その背後で陽が低く身構える。

 彼女の視線は、俺の右腕の軌道を捉えようと必死に研ぎ澄まされていた。

 

 人間というものは、無意識のうちに相手に「良識」や「躊躇い」を期待してしまう生き物だ。

 怪我をしている女子に対して、まさか先ほどと全く同じコースへ、全く同じ威力のスパイクを打つはずがない――そうした正常性バイアスが、彼女のポジショニングをエンドライン上に縫い留めさせていた。

 

 俺は一切の迷いなく、右腕を振りかぶった。  狙う座標は、先ほどと寸分違わぬ一点。  彼女の顔面の高さ。

 

 ――ドガァッッ!!

 

 再び炸裂した重低音。  放たれた白球は、海人のブロックの上をすり抜け、猛烈なスピードで直進した。

 

「――っ!?」

 

 陽が反応する。  だが、先ほどの直撃による脳の揺れと視界のブレが、彼女の回避動作を致命的に遅らせた。  避けられない。

 そう悟った瞬間、ボールは無慈悲に彼女の顔面へとめり込んだ。

 

 ――ゴッッッ!!

 

 先ほどよりもさらに鈍く、乾いた打撃音。  右頬から側頭部にかけて強烈な衝撃を受けた陽の身体は、完全に制御を失い、横倒しに弾き飛ばされた。

 受身を取る動作すら存在しない。

 後頭部が木床に叩きつけられ、バウンドしたボールがコートの外へと虚しく転がっていく。

 

 22-23。

 

 ピピッ――!!  笛の音が鳴り響いたが、誰一人として声を上げる者はいなかった。

 

 一度目はアクシデントとして処理できた。  だが、全く同じコース、全く同じシチュエーションでの連続直撃。

 これが偶然ではなく、明確な意図を持った「狙撃」であることに、体育館にいた全員が気付いてしまったのだ。

 称賛も歓声もない。ただ、言い知れぬ悪寒と気味の悪さが、冷気のように会場全体を包み込んでいた。

 

「陽……ッ!? おい、陽!!」

 

 海人が絶叫しながら駆け寄る。  だが、床に倒れた陽は、ピクリとも動かなかった。

 意識は完全に混濁し、焦点の合わない瞳で天井を見つめたまま、呼びかけに答える気配はない。

 精神力で耐え抜こうとした肉体は、二度目の直接打撃によって完全に機能を停止させられていた。

 

 俺はネットの白帯越しに、その倒れ伏す少女の姿を無表情に見下ろした。  罪悪感も、達成感も湧かない。

 自らの守備位置の脆弱性を修正せず、情念だけでコートに立ち続けた結果の、極めて論理的な帰結に過ぎない。

 

「……起きないのか」

 

 俺が小さく呟いた、その刹那だった。

 

「――てめぇッッ!!」

 

 怒号とともに、浅野海人がネットを両手で激しく掴み、引きちぎらんばかりの力で揺らした。

 その瞳は血走り、仲間を無残に壊された激しい怒りと殺意で、激しく歪んでいた。

 

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