1
「……ま、だ……っ」
静まり返った体育館の床に、掠れた、しかし芯の通った声が落ちた。 駆け寄った体育教師の手を振り払い、青海陽が脂汗の浮いた額を上げていた。
床に手をつき、小刻みに震える膝を無理やり押し立てて上体を起こす。
右の側頭部から頬にかけて激しい内出血が広がり、右目は完全に腫れ塞がっていた。鼻に押し込まれたティッシュは赤黒く染まり、呼吸のたびに苦しげな喘鳴が漏れている。
「陽! もういい、交代だ! 保健室へ行け!」
海人が悲痛な叫びを上げるが、陽は腫れあがった顔のまま、首を横に振った。
「やれる……。ここで、引いたら……朔に、顔向けできない……」
ふらつく足取りで定位置へと戻る陽。 その姿は、観客席の生徒たちに感動を呼ぶラインをとうに越え、痛々しい執念として体育館の空気を凍りつかせていた。
「――ふざけんじゃねえぞッ!!」
激しい怒号がネットの白帯を震わせた。 浅野海人だ。 血走った目で俺を睨みつけ、両手でネットを乱暴に掴んで揺さぶっている。
「偶然なわけねえだろ! 二度も続けて女子の顔面に当たるかよ! 何考えてんだテメェは!」
彼の怒りは、スポーツマンとしても、一人の男としても至極当然のものだった。
周囲の生徒たちも、言葉こそ発しないものの、俺へ向ける視線には明確な警戒と非難の色が混ざり合っている。
俺は表情筋をわずかに緩め、困惑したように眉尻を下げてみせた。
「……すまない。わざと狙ったわけじゃない」
抑揚を抑え、努めて低姿勢な声色で返す。
「予選から見てもらえれば分かる通り、俺はバレーボールの経験がほとんどない。ボールの勢いを抑えようとすると、どうしてもインパクトの瞬間に余計な力が入って軌道がブレてしまうんだ。……彼女が立っていた位置に飛んでしまったのは、不幸な事故だ」
「嘘つけ! あんなピンポイントで顔を狙っておいて事故なわけあるか!」
「信じてもらえなくても仕方がない。だが、俺としても怪我をさせたい意図は全くなかった。本当に申し訳ないと思っている」
俺は淡々と、しかし形式上は誠意を尽くした形で一度だけ頭を下げた。
「未経験者の力み」という最も反論しにくい免罪符。主観的な意図を客観的に証明する手立てなど、この体育館の誰も持っていない。
海人はギリリと奥歯を噛み締め、拳を震わせたが、公然と謝罪の形を取られた以上、これ以上試合を止めて殴りかかることはできなかった。
「……次はねえぞ。もし次、陽にボールを当ててみろ。タダじゃおかねえからな」
海人は吐き捨てるように言い放ち、コートの定位置へと戻っていった。
2
ピィッ。
再開の笛が鳴る。 体育館の空気は、鉛のように重く沈み込んでいた。 俺はエンドラインの後方に立ち、手元のボールを見つめる。
対角線の先には、片目を塞がれた状態で重心を低く落とす青海陽の姿。
そしてその前方には、彼女を背中に隠すようにして身構える浅野海人。その瞳は、俺の指先の僅かな動きすら逃すまいとギラギラと光っている。
(青海を守る、か)
彼の行動原理は極めて明快だった。 義理堅く、仲間思いの熱血漢。その美徳こそが、競技においては最も読みやすい「行動の偏り」を生み出す。
相手が何を警戒し、何を絶対に守ろうとしているかが分かっているなら、誘導は容易だ。
俺はボールを高くトスアップした。 助走。跳躍。 海人の視線が、空中の俺の腕の引き絞りに完全に集中する。
(陽の顔面は狙わない)
約束を破る必要などない。 俺が狙うのは、初めから別のターゲットだ。
空中で右腕を振り抜く。 インパクトの瞬間、ボールの芯を強く押し出しながら、手首を鋭く前方へ巻き込んだ。
放たれたサーブは、猛烈な順回転を帯びてネットすれすれを通過し、一直線に青海陽の守備エリアへと向かった。
陽が身を強張らせる。
「行かせるかよッ!」
予測通りの反応。 海人が床を蹴り、陽の射線上へ身体ごと割り込んできた。 仲間を庇うための献身的なレシーブ。
みぞおちの前で両腕を固め、ボールの威力を正面から受け止める構え。
だが――俺が放ったのは、通常のトップスピンではない。 初速の抵抗を抜け、相手の手元で急激に浮き上がる、ドライブ回転と気流のギャップを利用したホップ軌道。
「――え?」
海人の視界で、胸元へ落ちてくるはずだったボールが、組んだ両腕の上をかすめて不自然に跳ね上がった。 反応のための時間は残されていない。
レシーブのために前傾していた彼の顔面へ、ボールが正面から飛び込んだ。
――ガグッッッ!!
鈍く、重い破砕音が体育館に響き渡った。 女子の時とは比較にならない質量同士の衝突音。
ボールの運動エネルギーと、前に突っ込んできた海人の頭部の推進力が、完全に相殺されることなく激突したのだ。
「が、は……っ!?」
海人の首が、鞭のように激しく後方へ跳ね返った。 鼻梁を強打され、前歯が切れた唇から鮮血が飛散する。
大柄な彼の肉体が、頭部から引っ張られるようにして受身も取れず、背中から無様にコートへ叩きつけられた。
ドォンッ!!
バウンドしたボールは、海人の顔面を弾いて高く舞い上がり、そのまま相手コートのエンドラインの外側へと落下した。
サービスエース。 24-23。 2年5組のマッチポイント。
「か、海人……!? 海人ッ!!」
陽の悲鳴が静寂を切り裂いた。 床に倒れた海人は、手足を痙攣させたまま白目を剥き、微動だにしなかった。 脳への直接打撃による完全な意識混濁。
駆け寄った教師たちが即座に担架を要請し、コート上は騒然となった。
俺はエンドラインに佇み、その光景を無感情に見つめていた。 青海陽は狙っていない。 勝手に射線上に飛び込んできたのは、彼自身の選択だ。
3
浅野海人が担架で運ばれ、震える補欠の男子生徒がコートに入ったことで、試合は再開された。 だが、2年1組の戦意はすでに完全に崩壊していた。
大黒柱である海人は沈み、エースの陽は片目が塞がった満身創痍。
コートに残された生徒たちを支配していたのは、「早くこの悪夢を終わらせたい」という根源的な恐怖だけだった。
試合再開のサーブ。 相手チームの男子が放ったサーブは、前衛に立つ俺の存在を過剰に恐れるあまり、極端に山なりの軌道を描いた。
俺の頭上を大きく飛び越え、バックライトの深い位置――夕湖と悠月の守備エリアの隙間を狙った、力のないロブ。
前衛の怪物を避け、後衛の未経験者にミスをさせようという、弱者としての合理的な判断。
だが――俺の前で、ボールを高く浮かせること自体が、最も致命的な愚行だった。
俺はボールの軌道を見上げるなり、即座に反転した。 ネット際から後方へ向けてダッシュを開始する。
スパイクがネット際での手打ちに限られるという常識は、単なる固定観念に過ぎない。
バレーボールの競技規則において、ボールを打撃する身体部位に制限はない。足であれ頭であれ、正規の打点であれば何ら問題はない。
そして、人体の構造上、最も大きな推進力と打撃威力を生み出すのは、腕ではなく脚部だ。
エンドライン手前。 俺はトップスピードのまま、右足のシューズで体育館の木床を力強く捉えた。
――ダンッ!!
鉛直方向への跳躍。 背走の勢いをそのまま後方への宙返り運動へと変換する。 世界が滑らかに反転した。
体育館の天井の鉄骨が視界の下へ沈み、コートの床と呆然と見上げる生徒たちの顔が天頂へとせり上がってくる。
空中で完全に水平、かつ頭部を下にした逆立ちの体勢。 背後から落ちてくるボールの落下地点に、俺の引き絞られた右足が寸分の狂いもなく重なる。
セパタクローの運動連鎖と、サッカーで培ったバイシクルの技術の融合。
空中で体幹を弓なりにしならせ、右足の甲をボールへと叩き込んだ。
4
――ズガァァァァァンッッ!!!!!
手で放たれるスパイクとは根本的に異なる、砲弾のような重低音が体育館を震撼させた。 脚部の最大筋力と、空中での遠心力が一点に凝縮された一撃。
強烈な縦回転を与えられたボールは、アタックラインの遥か後方から放たれたにもかかわらず、マグヌス効果によって急激に揚力を失い、相手コートのど真ん中へ向けて垂直に近い角度で突き刺さった。
――ドゴォォォンッ!!
木床が激しく軋み、耳を劈く衝撃音が炸裂する。 反応できる人間など、コートのどこにも存在しなかった。
床に叩きつけられたボールは、凄まじい反発エネルギーを保ったまま真上へと跳ね上がった。
ガシャァァァン!!
床から10メートル以上ある天井の鉄骨、照明の保護フレームに直撃し、乾いた金属音を響かせて跳ね返る。
埃がパラパラと空中に舞い散り、勢いを失ったボールが力なく床へと落ちて転がった。
俺は空中で回転を解き、両足で滑らかに床へと着地した。 膝のクッションで着地音すら立てず、静かに背筋を伸ばす。
ピィィィィィッ――!!
試合終了を告げる長いホイッスル。 25-23。 2年5組の勝利。
だが、体育館には歓声も、拍手も、勝利を祝う声のひとかけらも存在しなかった。 沈黙。
ただ、圧倒的な暴力と、常識を粉砕された光景を前にした、全校生徒の絶句だけがそこにあった。
青海陽は、血の滲む顔のまま、天井を見上げた状態でへたり込んでいた。
夕湖は恐怖のあまり口元を押さえて震え、七瀬悠月は冷や汗を流しながら、俺の背中を信じられないものを見る目で見つめていた。
俺は乱れた前髪を無造作に整え、振り返ることなくコートの外へと歩みを進めた。 千歳朔という光を失った箱庭に、今、抗いようのない冷徹な現実が刻印された。