1.道化た姫君の献身(視点:柊夕湖)
正直に言えば、最初の頃のあたしにとって、あいつは視界の端っこにすら入らない存在だった。 綾小路清隆。
夏前にふらりと転校してきた、無口で、地味で、何を考えているのかさっぱり分からない男。
あたしたちがいた場所――朔を中心に、悠月やあたしたちが笑い合っていた華やかな世界の隅っこで、埃みたいに息を潜めていたモブ。
「ねーねー、あの転校生なんか暗くない?」って、朔の隣で無神経に笑っていたっけ。
今のあたしがあの時の自分を見たら、間違いなく本気で怒鳴りつけてると思う。 「あんた、目の前に立っているのが誰だか分かってないの!?」って。
あの日。 体育祭のリレーで、地面を切り裂くように駆け抜けていった後ろ姿。 そして何より――あの球技大会。
相手チームの男子たちを冷酷なまでにねじ伏せ、最後には体育館の天井までボールを叩き込んでみせた、あの絶対的な力。
ゾクゾクした。鳥肌が立つなんて生易しいものじゃない。
朔の隣にいた時に感じていた「守られている安心感」なんて、ただの生温いおままごとだったんだって思い知らされた。
本物の強さっていうのは、あんなにも冷たくて、容赦がなくて、息が止まるほど美しいんだ。
今のあたしの頭の中は、あの人のことでいっぱいだった。 朔?
……正直、今の朔を見るのは怖い。保健室で虚ろな顔をして、教室の隅で小さくなっている元・王様。そんな姿を見ていると、あたしまで足元から崩れてしまいそうになるから、見ないようにしている。
あたしが本当に縋るべき相手は、綾小路くんしかいない。
「よーし……あとちょっとで、今日の分終わり!」
放課後の教室。 夕日が長く差し込んでオレンジ色に染まる中、あたしは自分の机の上で、金色の折り紙の山と格闘していた。
今回の2年5組の出し物は、演劇『ロミオとジュリエット』。
王道すぎてあくびが出そうな演目だけど、今回はまるで意味が違っていた。
だって、主役のロミオ役を務めるのは――綾小路くんなんだから。
(ちなみに、ロミオに討たれる敵役のティボルト役には、投票で千歳朔が選ばれていた。皮肉すぎて誰も口にしなかったけれど)
ジュリエット役があたしにならなかったのは悔しかったけれど、その代わり、あたしは舞台美術の担当として、彼の舞台を完璧に飾り付ける役目を手に入れた。
あたしの担当は、『100羽の金鶴』。 舞台のクライマックス、ロミオとジュリエットが永遠の愛を誓うシーンで、天井から一斉に吊り下げるための特別な装飾だ。
普通の折り紙じゃない。厚手で光沢のある特殊な和紙を取り寄せて、羽の一枚一枚までズレがないように丁寧に折る。
「痛っ……もう、爪が邪魔……」
サロンで綺麗につけてもらったスカルプネイルが引っかかって、細かい作業が信じられないくらいやりにくい。指先は硬い和紙の端で何度も切れて、絆創膏だらけだった。
いつものあたしなら、「もう無理ー! だるいー!」って投げ出して、朔に甘えて誰かに押し付けていたはずだ。
でも、今は違う。 これは、綾小路くんが立つ舞台のためのものだから。 スポットライトを浴びた彼が、金色の鶴が舞い落ちる中で愛の台詞を口にする。
その光景を想像するだけで、指先の痛みなんてどうでもよくなった。 彼が舞台袖に戻ってきた時、この鶴に気付いてくれるかもしれない。
あの感情の読めない冷たい瞳をほんの少しだけ和らげて、「お前が作ったのか」って、声をかけてくれるかもしれない。
「……できた」
最後の一羽の頭を折り、机の上に並べる。 夕日を反射して、100羽の金鶴が眩しいほどの光を放っていた。
あたしは大きく伸びをして、絆創膏だらけの指で完成した鶴をそっと撫でた。
これがあたしの気持ち。あたしが彼に向ける、精一杯の献身。 待っててね、綾小路くん。 誰よりも綺麗な舞台を用意してあげるから。
――この時のあたしは、まだ何も知らなかった。 この指を痛めて折り上げた金鶴たちが、あんな無残な形で踏みにじられることになるなんて。
2.氷の令嬢の肖像(視点:七瀬悠月)
私は昔から、他人の内面を観察することに長けている自負があった。 誰がこの共同体の空気を支配しているのか。誰が有能で、誰がただ虚勢を張っているだけなのか。
相手の些細な視線の動きや呼吸の浅さから本質を見抜き、波風を立てずに最適な立ち位置を確保する。それが「七瀬悠月」という人間が身につけてきた防衛本能であり、処世術だった。
だからこそ――屈辱的だった。 なぜ私は、綾小路清隆という「怪物」の正体に、もっと早く気付けなかったのか。
転校初日の彼を思い出す。 伏せられた視線、抑揚のない挨拶、周囲に溶け込む地味な佇まい。
当時の私は、千歳朔が放つ分かりやすい光に目を奪われ、そのすぐ隣に潜んでいた底知れぬ深淵を「退屈なモブ」として切り捨てていた。
私の観察眼など、ただの節穴だったのだ。
だが、今や舞台の幕は完全に引き剥がされた。 彼は凡人などではない。
全教科満点のテスト、路地裏での不可解な制圧、そして球技大会で千歳朔を精神的に抹殺し、対戦相手の顔面を迷いなく撃ち抜いた、あの機械のような冷徹さ。
感情に振り回される凡人たちを冷ややかに見下ろし、最小限の手数で秩序を解体していく、完成された異物。
夕湖のように、「強い男が現れたから好きになった」などという安易な感情で彼を見ることなど、私には到底できなかった。
そこにあるのは、強烈な警戒と、底知れぬ恐怖。
そして――観察者としての、抑えきれない知的な執着だった。
「……よし。これで輪郭は取れたわね」
放課後の美術室。 油絵具の独特な匂いと、張り詰めた静寂の中。私は壁に立てかけた巨大な木製パネルに向かい、筆を走らせていた。
私の担当は、文化祭当日に校門の中央へ掲示される、巨大宣伝ポスターの制作だった。
普通なら適当なイラストとタイトルを並べて終わらせる仕事だ。だが、今回の主役が「彼」に決まった以上、妥協する気にはなれなかった。
パネルの中央に浮かび上がる、中世の衣装を纏ったロミオの立ち姿。 モデルは、綾小路清隆。
私が最も心血を注いだのは、その「瞳」の描写だった。 普段の彼は、眠たげで、何にも興味を示さない無機質な目をしている。
だが、相手を観察し、解剖する瞬間にだけ覗かせる、あの氷の刃のような鋭利な光。
一切の人間的な温もりを排除した、冷酷なまでの透明感。
その質感を再現するために、私はペインズグレーとウルトラマリン、わずかなアンバーを何重にも混色し、筆先で極細のハイライトを削り出していった。
「悠月ー、まだやってたの? 差し入れ持ってきたよー」
ガラリと扉が開き、夕湖が紙パックのジュースを片手に入ってきた。 両手の指先には絆創膏が痛々しく巻かれているが、その表情には奇妙な高揚感が張り付いている。
「ありがとう。……貴方の方こそ、その手、随分やり込んだみたいね」
「あはは、金鶴百羽折るの、マジで指もげるかと思った! でも完成したよ! 舞台の上から吊るしたら、絶対ヤバいから!」
夕湖が嬉しそうに笑い、私の背後からパネルを覗き込んだ。 その瞬間、彼女は息を呑んで立ち止まった。
「……え、嘘。何これ……写真よりリアルじゃん……」
「遠目からでも目を引くように、陰影を強調しているのよ」
私は冷静に筆を洗油に浸しながら答えた。 夕湖はポスターの中の綾小路の瞳を見つめたまま、微かに身体を震わせていた。
「なんかさ……絵なのに、見透かされてるみたい。……でも、かっこいいね。綾小路くん、これ見たらなんて言うかな」
「さあね。『よく描けている』と、抑揚のない声で一言呟いて終わりじゃないかしら」
「あー、言いそう! でも絶対、心の中ではびっくりしてるって!」
夕湖は無邪気に笑った。 彼女は、綾小路清隆という人間を「自分たちの味方になってくれた凄い王子様」だと、本気で信じ込もうとしている。
千歳朔が壊れていく過程を目の当たりにしながら、自らの精神の平穏を守るために、綾小路を全能の庇護者として偶像化しているのだ。
痛々しく、そして浅ましい防衛本能。 だが、それを指摘して彼女の幻想を壊す気にはなれなかった。彼女はそう信じていなければ、この教室で正気を保てないのだから。
「……できたわ」
私は筆を置き、一歩下がって全体を見上げた。 薄暗い舞台の背景を背負い、静かにこちらを見据えるロミオ。
夕湖の作った金鶴をモチーフにした装飾を周囲にあしらい、劇的なコントラストを生み出している。
完璧だった。 これが校門に掲げられれば、来場した全校生徒も他校生も、誰もが足を止めるだろう。
かつての千歳朔の輝きなど足元にも及ばない、圧倒的な「異物のカリスマ」がこの学校に君臨していることを、嫌でも思い知らされるはずだ。
私は絵の具で汚れた指先を眺めた。 これは、私の観察眼の結晶であり、彼という謎に対する私なりの挑戦状でもあった。
この絵を前にした時、彼は果たしてどんな表情を見せるのか。
ほんのわずかでも、その仮面の奥にある本性を覗かせてくれるだろうか。
私は冷えた筆を丁寧に拭いながら、明日始まる文化祭の幕開けを待っていた。 私のプライドを注ぎ込んだこの肖像画を、誰にも邪魔させるつもりはなかった。
――この時の私は、まだ気付いていなかったのだ。 自らが心血を注いで暴こうとしたその肖像が、どれほど残酷な悪意の絵の具によって塗り潰されることになるのかを。