1.絆創膏と粘土の匂い(視点:青海陽)
「――よし! これで胸部の盛り土、完了!」
あたしの声が、ブルーシートが一面に敷き詰められた2年1組の教室に響いた。 ジャージの袖を肘までまくり上げ、両手も頬も乾いた粘土の粉で真っ白。
鏡を見たら間違いなくひどい顔になってるだろうけど、今のあたしにとっては、どんなメイクよりもこれが一番気合いの入る姿だった。
あたし、青海陽は立ち止まらない。
球技大会のバレーボール。あの転校生――綾小路に顔面を2度も直撃させられた時は、目の前が真っ暗になって、本当に心が折れかけた。
痛かったし、怖かった。鼻の絆創膏はまだ外せないし、目の周りの青あざもファンデーションで隠しきれない。夜、ふとした瞬間にあの無機質な瞳と、目の前に迫るボールの閃光がフラッシュバックして、冷や汗をかいて目が覚めることだってある。
……でも、あたしはバスケ部だ。コートを走るスポーツマンだ。 痛いからって、怖いからって、うずくまったまま終わるなんて絶対に嫌だった。
今回の2年1組の出し物は、教室全体を使った『巨大彫像』の展示。 タイトルは、『不屈の守護神』。
モチーフは、傷つき、膝をつきかけながらも、前を睨みつけて再び立ち上がろうとする戦士の姿だ。
……正直に言えば、これはあたしたち自身の姿であり、そして何より――今は光を失ってしまっている「彼」へ向けた、あたしたちからのメッセージだった。
「ほら海人! 手が止まってる! 脚立の上から見てると、肩のラインがまだ全然細いよ!」
一段高い足場の上から、隣でヘラを動かしている海人に檄を飛ばす。
彼もまた、あの試合であたしを庇ってボールを顔面に受け、今も鼻梁に痛々しい医療用テープを貼っている。
周囲から見れば、ただの「手酷く負けた傷だらけの二人」かもしれない。でも、今のあたしたちの胸の奥は、誰よりも熱く燃えていた。
「うるせえな、今削り出しの繊細なとこやってんだよ! 僧帽筋から三角筋へのラインは男のロマンなんだっての!」
海人がヘラを器用に動かしながら、口を尖らせて言い返す。
その必死な横顔を見ていたら、なんだか急におかしくなって、あたしたちは顔を見合わせて吹き出してしまった。
朔は、まだ笑っていない。 教室の隅で、伏し目がちに教科書を眺めている彼の背中を見るたびに、胸が締め付けられるように痛む。
いつも眩しいくらいに前を走って、みんなを照らしてくれていた千歳朔。
彼が自信を奪われ、自分の存在を否定されてあんな風に小さくなってしまうなんて、今でも信じたくなかった。
あの転校生が来てから、全部が狂ってしまった。 だからこそ、あたしたちが立ち止まるわけにはいかない。
この巨大な像を完成させて、文化祭で一番の賞を取って、朔に見せてあげるんだ。
『あたしたちは負けてないよ。何度打ちのめされたって、こうやって泥だらけで立ち上がれるんだから。だから朔も、もう一度顔を上げてよ』って。
「絶対に最優秀賞取ろうね、海人。5組なんかに……あんな冷たい奴に、負けっぱなしで終わらせない!」
「当たり前だろ。俺たちの根性、あのスカした転校生にも見せつけてやるよ!」
冷たい油粘土の感触が、擦り合わせる手のひらの熱でじんわりと温まっていく。 不格好で、泥臭くて、スマートさなんて欠片もない。
でも、この像にはあたしたちの意地と、朔への想いが全部詰め込まれている。
これこそがあたしたちの青春なんだって、胸を張って言えるものが、今ここにある。
2.友のために積む瓦礫(視点:浅野海人)
溶接した鉄パイプと金網で作った骨組みに、大量の油粘土を力任せに圧着していく。
重労働なんてレベルじゃない。指先の皮は擦り切れ、腰は軋み、球技大会で痛めた鼻の奥がズキズキと熱を帯びて疼く。
だが、その痛みが、逆に俺の奥歯を強く噛み締めさせていた。
目の前に聳え立つ、高さ3メートル近い粘土の塊。 こいつは、俺たちのプライドの形そのものだ。
あの球技大会の決勝。 俺は陽を守ろうとして、前に飛び出した。 その結果が、あの無様なノックアウトだ。
綾小路清隆。あいつは常識の枠に収まる人間じゃない。ネット際から背走してバイシクルでボールを天井の鉄骨まで叩き込むような、理外の怪物。
そして何より、あいつが放ったボールが俺の顔面にめり込んだ瞬間、ネット越しに見えたあいつの瞳には、怒りも、焦りも、人を傷つけた動揺すらも――何一つ存在していなかった。
寒気がした。本能が「関わるな」と叫んでいた。今だって、あいつの顔を間近で見れば、背筋に冷たい汗が流れるのを止められない。
……だが、だから何だっていうんだ。 勝てないからって、怖いからって、尻尾を巻いて逃げ出すような真似ができるかよ。
俺の一番のダチである千歳朔が、あいつに心をへし折られて、幽霊みたいになっちまってるんだぞ。
誰よりも周りのことを考えて、誰よりもカッコよかったあいつが、教室の隅で息を殺して怯えてるんだ。
(……待ってろよ、朔)
俺は手に持った木製ヘラを、折れんばかりの力で握り直した。 お前が失った自信も、俺たちが味わわされた屈辱も、全部この文化祭の舞台でひっくり返してやる。
2年5組の出し物は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』らしい。主役はもちろん、あの綾小路だ。
スマートに着飾って、用意された台詞を喋るだけの綺麗な劇なんかに、俺たちの泥まみれの魂を込めた作品が負けるはずがない。
最後には、諦めずに足掻き続けた熱い想いこそが人の心を動かすんだってことを、俺たちが証明してやる。
「海人、水で濡らしたタオル取ってー!」
「ほいよ。……ってか陽、お前顔中泥だらけだぞ」
「えっ、嘘!? どこ!?」
「鼻の頭と、おでこ。……プッ、戦隊モノのやられ役みたいだな」
「もうっ! 人が真面目にやってんのに笑わないでよ!」
陽が慌てて腕で顔を擦り、余計に粘土の粉を広げて膨れっ面になる。 その間抜けな姿に、俺たちは肩を揺らして笑い合った。
鼻にテープを貼り、青あざを作った男女の泥遊び。
はたから見れば格好悪いかもしれない。あいつら5組の連中みたいに、洗練されたスマートさなんてどこにもない。
だが、俺はこの泥だらけの空気が誇らしかった。あいつらには絶対に分からない、泥の中にしかない本物の熱がここにはある。
教室の窓を茜色の夕日が染め、影を長く伸ばしていく。 荒々しいタッチで肉付けされた『不屈の守護神』の胸郭が、逆光の中で逞しく浮かび上がっていた。
「……よし。全体の大枠は完全に決まったな」
俺は脚立から降り、息を整えながら巨像を見上げた。 凄い迫力だ。ヘラで削った粗い表面が、照明の影を受けて荒々しい生命力を放っている。
これなら勝てる。全校生徒の目を釘付けにできる。最優秀賞のトロフィーを掴み取れる。
「見てろよ、綾小路。……そして、朔」
俺は泥で汚れた拳を固く握りしめた。 この像が完成して、体育館のステージに飾られた時、きっと止まった時間はもう一度動き出す。
またみんなで笑い合って、バカやって、ハイタッチできる日常を取り戻すんだ。朔だって、この像を見れば思い出してくれるはずだ。俺たちの絆は、誰かが上から踏みつけた程度で壊れるような安物じゃないってことを。
俺は再びヘラを構え、まだ乾いていない粘土の表面へ向けて一歩を踏み出した。 俺たちの青春は、まだ何一つ終わっちゃいない。