1.壊れた均衡と、冷徹な分析(視点:水篠和希)
有機溶剤とアクリル絵の具の匂いが立ち込める中庭の片隅で、俺、水篠和希は定規とカッターナイフを正確に走らせていた。
俺が引き受けた役職は、全校生徒を縦割りにした「青ブロック」の象徴となる、屋外展示モニュメントの制作責任者だ。
ふと手を止め、周囲の雑踏を見渡す。 どこを見ても、以前の藤志高校にあった「軽やかさ」は消え失せていた。
2年5組の連中は、あの転校生――綾小路清隆の機嫌を損ねないよう、会話のトーンを落として腫れ物に触るようにピリピリしている。
2年1組の教室では、海人と陽が球技大会の雪辱を果たすため、痛々しい包帯を巻いたまま悲壮な覚悟で泥を捏ねている。 ……見ていて、息が詰まる。
(……やれやれ。あいつが一人外れるだけで、学校全体の生態系がこうも狂うか)
俺は小さく息を吐き、手元の図面に視線を戻した。 千歳朔。 俺の古くからの悪友であり、この学校の空気を我が物顔で循環させていた絶対的な中心。
あいつは今、クラスの片隅で抜け殻のように俯いている。
綾小路清隆という、高校生の枠組みを完全に逸脱した規格外の力に、プライドも理想も、その存在意義ごと解体された結果だ。
俺は別に、綾小路に対して感情的な怒りを燃やしているわけじゃない。 俺はリアリストだ。
定期考査、体育祭、球技大会。定められたルールの下で、千歳朔は完全に敗北した。それは揺るぎようのない事実であり、海人のように「根性でリベンジしてやる」などと叫んだところで、埋められる戦力差ではないことくらい冷静に計算できている。
だが――退屈極まりない。 あいつが笑っていない毎日は、どうしようもなく色彩に欠けていた。
千歳朔のあの、どこまでも泥臭く、お人好しで、周囲の誰も見捨てまいと無駄な責任を背負い込む姿。
あいつが無理をしてでも作り出していた「誰もが主役になれる優しい箱庭」。
それを取り上げられた後のこの学校に残ったのは、綾小路清隆という異物がもたらした、合理的で、冷え切った、ただの序列の荒野だった。
2.硝子の塔
俺が設計したモニュメントのタイトルは、『蒼天の塔』。 高さおよそ4メートル。
木材で組み上げた強固なトラス構造を基部に、半透明のアクリル板や青く着色した廃プラスチックを幾何学的に配置し、内部から高輝度LEDの冷光を乱反射させる構造だ。
冬が近づく福井の、どこまでも澄み切って、少しだけ冷たい青空をイメージした造形。
「そこの接合部、アクリルカッターのバリが残ってる。ペーパーかけて均せ」
「配線のコード、支柱の裏に完全に隠せ。余計な生活感が見えたら作品の純度が下がる」
俺は感情を交えずに、淡々と後輩たちに指示を出す。 海人のように声を張り上げる必要はないし、陽のように感情を爆発させる必要もない。
ただ、自らの美意識に従い、寸分の狂いもなく完璧な仕事を積み上げていくだけだ。
だが、この塔には、俺なりの明確な意図が込められている。
綾小路清隆。 お前は強い。反論の余地がないほどに完璧だ。 頭脳、身体能力、心理誘導。そのすべてにおいて、この学校の誰も足元にすら及ばない。
だが――お前には絶対に作り出せないものがある。 それは「美学」と「居場所」だ。
力でねじ伏せ、結果だけで他者を黙らせるお前の支配は、あまりに無粋で、呼吸がしづらい。
千歳朔がかつて作り上げていた世界は、脆く、傷つきやすい硝子の細工だったかもしれない。だが、そこには誰もが寄り添い合える温かさと、青春としての美しさがあった。
俺はこの塔で、その価値を視覚化してやる。 力しか持たないお前のやり方が、いかに野蛮で、貧しいものであるかを、圧倒的な「青の美学」で突きつけてやる。
3.静かなるエール
完全に日が暮れ、作業用の投光器だけが暗闇の中庭を照らしていた。 作業に当たっていた生徒たちが疲労困憊で下校し、静まり返った中庭に、俺は一人で残っていた。
完成した『蒼天の塔』が、夜の帳に向かって真っ直ぐにそびえ立っている。 電源コードをジェネレーターに接続し、ライトアップのテストスイッチを入れた。
――カチリ。
瞬間、暗闇が青く染まった。
内部から放たれた幾千の光の筋が、複雑に組み合わされたアクリル板を透過し、水面のように揺らめきながら周囲の夜気を優しく包み込んでいく。
鋭く、透明で、しかしどこか温かみを帯びた光の柱。
「……悪くない」
俺はポケットに手を突っ込み、眩い青の光を見上げた。 繊細で、触れれば壊れてしまいそうで、それでも確かにそこに存在する圧倒的な光。
まるで――あいつが背負い続けていた、あの痛々しいほどの眩しさそのものだった。
俺は知っている。 千歳朔が、ただの恵まれた天才などではなかったことを。
周囲の期待に応えるために、誰にも見せない場所で傷だらけになりながら、それでも翌朝には誰よりも明るい笑顔を作って先頭を走っていたことを。
だからこそ、俺たちはあいつの隣に立つことを選んだのだ。
綾小路。 お前がどれだけ規格外の怪物であろうと、俺があいつを見限ることはない。
この塔が文化祭の最優秀賞を獲り、全校生徒がこの青い光を見上げた時――それは、暴力や恐怖に対する、俺たちの「青春の美学」の勝利になる。
朔がこれまで築いてきたものは、決して間違いなどではなかったという証明になる。
「……見に来いよ、朔」
吐き出した息が、青い光の中で白く透けて消えた。 俺は海人のように泥臭い言葉で励ます気はない。
ただ、あいつが再び顔を上げた時に、帰ってくるに値する最高のステージを用意して待っているだけだ。
俺はスマートフォンを取り出し、ライトアップされた塔の全景を、フレームを正確に合わせて一枚だけ撮影した。 送信先は、千歳朔。
余計なメッセージは一切添えない。写真のデータ、それだけで俺の言いたいことはすべて伝わる。
俺たちの文化祭は、まだ何一つ終わっちゃいない。 たとえ相手がどれほど絶対的な怪物であろうと、俺たちは俺たちのやり方で、この学校の空をもう一度青く染め直す。