1
文化祭本番まで、あと2日。 午前1時15分。 俺は人気のない旧校舎裏、外灯の光が届かない鬱蒼とした植え込みの影に潜んでいた。
どれほど強固なアリバイを用意しようと、現場に微小な物理的証拠(マテリアル)が一つでも残留すれば、完全性は瓦解する。
指紋、皮脂、毛髪、衣服の繊維片、そして靴底の摩耗パターン。
現代の鑑識捜査を過小評価する気はない。警察の介入が想定される以上、その基準をクリアできる隠蔽を施すのは当然の前提だった。
薄手の医療用ラテックスグローブをはめ、その上から柔軟性と密着性に優れた黒のラムレザーグローブを重ねる。二重の皮膜により、皮脂の浸透と指紋の残存確率は完全にゼロになる。
頭部には髪の脱落を完全に防ぐインナーネットを装着し、その上から目深に黒のニット帽を被る。眉毛や睫毛の脱落すら計算に入れ、透明な保護グラスで目元を覆った。
足元には、県外の量販店にて現金で購入した、最も流通量の多い汎用スニーカー。個人の歩行癖による偏摩耗も、自宅周辺の土壌成分の付着もない。作業完了後に塩酸でソールを溶かし、焼却処分すれば痕跡は途絶える。
「……準備は完了した」
呼吸の周期を落とし、心拍数を平時の60以下に固定する。 今の俺は、誰の網膜にも、いかなる鑑識機材にも引っかかることのない、ただの無機質な輪郭に過ぎない。
2
深夜の校舎を観察する。 警備員の巡回周期は45分間隔。監視カメラの首振り角度と死角の動線は、昨日の段階ですべて脳内にマッピング済みだ。
塀の天端へ、助走なしの垂直跳びで音もなく飛び乗る。 目指す侵入ポイントは、本校舎3階の2年5組。
腰のホルダーから取り出したのは、金属部に防音用ラバーを焼き付けたクライミング用のグラップリングフックと、高強度ケブラーロープ。
腕のスイングによる風切り音を最小限に抑え、3階ベランダの手すり内側へフックを放る。
乾いたゴムの接触音とともに、フックが鉄柵の根元へ吸い込まれるように噛み合った。手元で一度強く荷重をかけ、アンカーの強度を確かめる。
ロープを掴むと同時に、壁面を垂直に駆け上がった。
腕力で身体を引き上げるのではなく、壁面を捉えた足先が推進力を生み、身体の重心がロープの張力に沿って滑らかに上昇していく。
1階、2階、そして3階。 所要時間は3秒強。 手すりを音もなく飛び越え、ベランダのコンクリート床に着地した。
3
自席の真横にあるサッシ窓。 放課後の退出時、クレセント錠のネジ受けをわずか1ミリ緩めておいたことで、ガラスの振動を伴わずに指先だけでロックが滑らかに外れた。
隙間から滑り込み、月明かりだけが差し込む2年5組の教室へ侵入する。
侵入と同時に、耳に埋め込んだ骨伝導イヤホンの接続を確認した。
ノイズキャンセリング機能を最大化し、超指向性マイクが俺の声帯の微細な振動だけを拾うように調整されている。
『――ロミオ、お願いだから夜が明けるまでここにいて。貴方の声を聞いていないと不安なの……』
夕湖の台詞読みの声が、グループ通話を通じて耳元に届く。 演劇の主要キャストと裏方チーフによる、「深夜の台本読み合わせ会」。
各自が自宅の部屋で通話を繋ぎっぱなしにし、台詞の確認と作業の進捗を報告し合うという名目で、昨晩から俺が誘導して設定させたセッションだ。
俺は自宅のデスクで台本を開き、イヤホン越しに付き合っている――周囲の全員が、今この瞬間もそう信じ込んでいる。
「……ああ。次のシーン、ジュリエットの独白から続けてくれ」
俺は喉仏の振動だけで、平坦かつ自然なトーンの声をマイクに乗せた。
『うん! いくよ!』
夕湖の明るい声が返ってくる。 完璧な不在証明(アリバイ)。 俺は通話を接続したまま、足音を完全に殺して教室の中央へと歩み出た。
4
最初のターゲットは、教壇の天井から美しく吊り下げられた、柊夕湖の『100羽の金鶴』。
ハサミで切り刻んだり、床に叩き落として踏み躙るような短絡的な破壊はしない。
物理的な損壊よりも、費やされた「時間」そのものを無意味化する方が、人間の精神には深く効く。
俺はテグスから金鶴を1羽ずつ丁寧に外すと、机の上に置いた。 手袋をした指先で、折り込まれた頭部を広げ、羽を伸ばし、内側の折り目を逆方向へとなぞっていく。
カサ、カサ……と、微かな摩擦音が静寂に落ちる。 彼女が痛々しい指先で、ネイルを削り、絆創膏を貼りながら折り上げた1羽につき3分間の労力。
そのプロセスを、俺は1羽あたり十数秒で巻き戻していく。
立体的な鶴が、シワの刻まれたただの正方形の紙片へと解体されていく。
50羽ほどを完全に元の平面へと還元し、残りの半分は中途半端に首や羽をもぎ取って床へ散乱させた。 「解体された過去」と「無残な死骸」が同居する光景。
続いて、黒板の脇に立てかけられていた、七瀬悠月の『巨大宣伝ポスター』。 ロミオの衣装を纏い、冷たい視線でこちらを見据える俺の肖像画。
俺はポケットからデザインカッターを取り出し、絵画の最も重要な視線誘導ライン――瞳の中心から額、胸元にかけて、均等な格子状の切れ目を深く走らせた。
ベニヤ板の下地にまで達する、修復不能な裂傷。
さらに、スプレー糊を取り出し、切り刻まれたキャンバスの表面に吹き付ける。
そこへ、先ほど夕湖の金鶴から解体した「シワだらけの金紙」と、引きちぎられた羽の残骸を無作為に貼り付けていった。
悠月が心血を注いだ肖像の顔面に、夕湖の努力の残骸が醜悪にへばりつく。 互いの献身が、互いのプライドを汚し合う最悪のコラージュ。
『綾小路くん、さっきのシーンの掛け合い、すごく良かったよね!』
『ええ。本番の舞台が本当に楽しみだわ』
イヤホンの向こうで、無邪気に明日の成功を信じる2人の声が重なる。 俺はマイクをミュートにしたまま、目の前に完成したグロテスクな残骸を一瞥し、教室を後にした。
5
渡り廊下を抜け、2年1組の教室へと侵入する。 中央に鎮座していたのは、青海陽と浅野海人が泥まみれになって作り上げた『巨大彫像・不屈の守護神』。
粗々しいヘラ使いで刻まれた筋肉の陰影。仲間への想いと、雪辱を誓う情熱の造形。
俺は工具袋から、幅広の大型金ベラを取り出した。 叩き壊して粉々にすれば、彼らは「壊された被害者」として団結し、再び怒りを燃え上がらせる余地を残してしまう。
必要なのは、怒りではなく、圧倒的な「虚無」だ。
――スッ、スッ……。
一定のストロークで、ヘラを粘土の表面に滑らせる。 彼らが指先を痛め、汗を流して盛り付けた大胸筋の隆起を削ぎ落とす。
前を睨みつけていた戦士の顔面を削り落とし、髪の毛のディテールを均し、窪んだ部分は削り取った粘土で完全に埋め立てていく。
腕を削り、脚のラインを消し、垂直と水平の基準線を引いてエッジを立てる。 およそ40分後。 そこに立っていたのは、不屈の守護神などではなかった。
角が直角に整えられ、表面が均一に撫で回された、無機質な巨大な粘土の四角柱(ブロック)。
誰の想いも、指紋も、熱量も残されていない、ただの土の塊。 「お前たちの積み上げた努力は、最初から何一つ存在していなかった」
砕かれた破片よりも、この幾何学的な無意味さこそが、情熱を注いだ人間の認知を最も残酷に破壊する。
6
最後に、中庭へと降り立った。 闇の中に静かに佇む、水篠和希の『蒼天の塔』。 幾何学的に張り巡らされたアクリルパネルと、繊細なトラス構造。知性と美学の結晶。
俺は体育倉庫から持ち出した、使い古された大型の木槌を握りしめた。 ここには、あえて洗練された痕跡を残さない。
俺自身の身体能力を反映させた打撃痕を残せば、プロファイリングから容疑が絞られるリスクがある。
――バコォッ!! ガシャァンッ!!
木槌を無造作に、力任せにフレームへと叩きつける。 アクリル板が蜘蛛の巣状に割れ、破片が四方へと飛び散る。
繊細な配線コードを引きちぎり、支柱のジョイント部分を体重をかけて強引にへし曲げた。
まるで、感情に任せて暴れ回った不良生徒が、力尽くで破壊散らかしたかのような粗暴で無秩序な損壊痕。
『……あ、そろそろ5時になるな。外、明るくなってきた』
イヤホン越しに、千歳朔の掠れた声が聞こえてきた。
俺は木槌の柄を丁寧に拭き、その場に転がした。 解体された金鶴。汚濁された肖像。立方体に還元された守護神。そして、無残に砕かれた蒼天の塔。
舞台は完璧に仕上がった。
俺はマイクをオンにし、徹夜明け特有の僅かな疲労感を声帯に混ぜて答えた。
「……本当だな。長い時間、付き合わせて悪かった。本番に向けて、各自少し仮眠を取った方がいい」
『うん! 綾小路くん、朝早くから本当にありがとう!』
『じゃあ、また後で教室でね』
プツン、と通話が途切れた。 午前5時03分。 夜通し通話を繋ぎ、台詞の読み合わせを行っていたという、クラスメイト全員による完璧なアリバイの成立。
東の空が白み始め、薄青い朝の光が福井の街を照らし出していく。 俺はロープを回収し、誰の網膜にも留まることなく、朝の静けさの中へと溶け込んでいった。