1
時刻は深夜2時過ぎ。 世界が最も深い睡眠に落ち込む、静まり返った丑三つ時。 俺は再び、闇に溶け込むようにして藤志高校の敷地内へと足を踏み入れていた。
文化祭での強制終了劇以来、学校側は夜間の警備体制を大幅に強化していた。
校門付近への監視カメラの増設、主要な通路の人感センサーライト、そして不定期に巡回する教職員の足音。
表向きの防犯は、確かに「厳重」という言葉に値するものだった。
だが、その警備が網羅しているのは、あくまで「外部からの侵入者」という前提に縛られている。
夜の校舎に鍵をかけ、懐中電灯を持って巡回していれば安全だという性善説に基づいた児戯。
「生徒」という身分を利用し、日中のうちに裏口の施錠をわずかに緩めておく――そんな内部からの単純な綻びを、彼らは端から疑っていない。
「……脇が甘いな」
監視カメラの死角を正確にトレースし、俺は音もなく家庭科室の裏口へと回り込んだ。
あらかじめ掛けておいた細工により、指先で軽く圧力をかけるだけで重い扉が滑らかに開く。
食材の微かな油の匂いが残る室内へ、俺は音もなく滑り込んだ。
2
月明かりだけが頼りの、薄暗い調理実習室。 俺は迷うことなく、業務用の大型冷蔵庫へと歩み寄った。
重厚な扉を開けると、冷気と共に白い霧が溢れ出し、庫内灯が淡い光を投げかける。
そこには、内田優空が明日の大会に向けて用意した大量の食材が、幾何学的と言っていいほど綺麗に整頓されて保管されていた。
綺麗に切り分けられ、ジップロックに小分けにされた上質な国産豚バラ肉。
根菜類は皮が剥かれ、煮崩れしないよう均一な大きさに面取りされている。
そして、その傍らには、彼女の几帳面な性格を示すように、詳細な調味料の配合比率が手書きされたメモ用紙が添えられていた。
――『出汁:昆布と鰹の合わせ。塩分濃度:0・8%。隠し値:生姜の絞り汁と、白味噌の微量ブレンド』
食べる人間の身体を冷えから守り、誰もが「美味しい」と感じる黄金比率を導き出すための、彼女の丁寧な試行錯誤の跡。
クラス全員を笑顔にしたいという、純粋な善意と努力の結晶。
「……見事なものだな」
俺はメモを指先で軽く弾き、視線を調理台の調味料棚へと移した。
下剤を盛るような、身体的な苦痛を与える粗野な犯罪に興味はない。腹痛でトイレにこもる程度の不調など、一時的な肉体的アクシデントとして処理され、彼女の精神を本質的に追い詰めることはできないからだ。
俺が求めているのは、肉体の破壊ではない。
彼女が最も誇りとし、心の支えとしている「私の料理でみんなを喜ばせる」という自己肯定感そのものを、完璧に内側から粉砕すること。
俺は持参した小瓶を取り出し、静かに作業を開始した。
3
瓶の中身は、無色の高濃度調味液――あらかじめ俺が調合しておいた「計算された不均衡」だった。
彼女のレシピにおける塩分濃度と出汁のバランスを、ごく微小な誤差で狂わせる。
ただ単純に塩辛くするのではない。
舌の味蕾(みらい)に最初に触れる瞬間は「上質な出汁」を感じさせながら、喉を通る直前に、耐え難いほどの強烈な塩分と、隠し味の生姜の成分が化学反応を起こして薬品のような異臭と苦味を放つよう、緻密に配合を逆算した調合。
見た目は完璧な、温かい愛情の詰まった豚汁。 だが、口に入れた瞬間、誰もが顔を歪め、一言も発せなくなるような「完璧な失敗作」。
俺はゴム手袋を嵌めた手で、ジップロックの封を慎重に開け、肉の繊維の奥深くまでその液体を染み込ませた。
さらに、下ごしらえされた根菜の容器にも、同様の処理を施していく。
見た目も匂いも、現時点では変化はない。
だが、明日、大きな寸胴鍋に火が入り、すべての材料が煮込まれた時、その鍋から立ち込めるのは食欲をそそる香りではなく、全員の箸をピタリと止めさせる「無惨な異臭」となる。
自分が早起きして、みんなのために心を込めて作ったはずの料理が、クラス全員の前で一口も飲み込めないほどの代物として絶望を振り撒く。
「私の料理の腕は、こんなにも酷かったのか」「みんなの期待を、私の不手際で台無しにしてしまった」という逃げ場のない自責の念。
それこそが、努力の才女である内田優空の精神を最も確実に瓦解させる毒薬だった。
4
すべての作業を終え、俺はすべての容器を元通りに配置した。 指紋の拭き取り。足跡の消去。 家庭科室の裏口から外へ抜け、クレセント錠を音もなく戻す。
夜明け前の冷たい風が、火照り始めた肌を心地よく撫でた。 完璧な隠蔽。 誰も侵入者の存在に気づくことはない。
明日、体育館の片隅で、温かな湯気と共に立ち上るであろう沈黙と絶望の気配を思い描きながら、俺は静かに闇の中へと溶け込んでいった。