1
午後の第2体育館。 昼休みのあの重苦しい豚汁の失敗劇を経て、館内に漂う空気は異様な冷気配を帯びていた。
クラスメイトたちは優空に気を遣い、誰も昼食の話題には触れようとしない。だが、その不自然な沈黙こそが、彼女の胸の奥を鋭利な刃物のように抉り続けていた。
学年対抗百人一首大会、決勝トーナメント。 2年5組の代表として畳の上に正座していたのは、内田優空と千歳朔だった。
そして――ネットを挟むようにして向かいの畳に腰を下ろしていたのは、個人の部をすべて最短手数で勝ち上がり、決勝の相手チームの主将として座る、俺だった。
「……っ」
優空の指先が、袴の上で小刻みに震えていた。 赤く腫らした目。強張った肩。 彼女の脳裏を支配しているのは、勝利への渇望などという前向きなものではない。
――豚汁でみんなを裏切った。朔くんに恥をかかせた。
――だから、この勝負だけは絶対に負けられない。私が朔くんに、勝利をプレゼントしなきゃいけない。
自らを追い詰める強迫観念。 努力によってしか自らの価値を証明できない少女の、退路を断った悲壮な決意。
「正々堂々、やろうぜ。綾小路」
千歳が掠れた声で告げた。
その瞳には、かつての王の傲慢さはない。だが、隣で震える優空を気遣い、彼女の努力を無駄にさせまいとする、必死の守護の意志が宿っていた。
俺は感情を交えずに、ただ静かに一礼を返した。 背負うものが重ければ重いほど、その支柱を外した時の破壊力は増大する。
2
競技開始の合図とともに、体育館の雑音が完全に遮断された。
『――難波津に、咲くやこの花 冬ごもり……』
序歌が朗々と響き渡る。 優空の呼吸が整っていく。
吹奏楽部で培われた鋭敏な聴覚。読手の喉の開き、息を吸い込む微細な摩擦音から、次に放たれる母音の周波数を捉えるための、極限の集中。
料理の失敗で傷ついた彼女が、唯一自分を保つための聖域。
だが――。
『――ちは……』
パァッンッ!!
畳を切り裂くような乾いた破裂音。 優空が『ち』の音を脳で処理し、右腕の筋肉へ収縮の信号を送るよりも早く、自陣の右下段にあった札が、視界から消失していた。
俺の右手が、畳の目を擦る最小限のストロークで札を捉え、体育館の壁際へと弾き飛ばしていた。
「え……?」
優空の伸ばしかけた手が、虚空で止まる。 読手が発音を完了する前に、札が消えた。
常人の反応速度ではない。初音のわずかな空気の振動を捉えた瞬間にトップスピードへ達する、身体能力の極致。
『――秋の田の……』
パァンッ!!
再び、乾いた打撃音。 千歳の前にあった札が、俺の左手の払いによって一瞬で弾き出される。 千歳の手は、まだ畳から数センチ浮いた位置で止まっていた。
「なっ……速すぎる……!」
千歳が息を呑む。 優空の顔から、急速に血の気が引いていった。
彼女が何百時間もかけて頭に叩き込んだ決まり字の暗記も、音を聞き分ける訓練も、すべてを無効化する絶対的な物理差。
彼女の研ぎ澄まされた集中力は、札を取るためではなく、「また取られる」という恐怖を処理するために空費され始めていた。
3
試合は一方的な蹂躙だった。 俺の守備範囲は自陣だけに留まらず、敵陣の札すらも、読手が息を吸い込んだ瞬間に薙ぎ払っていく。
優空の手が畳に届く頃には、そこにはもう何も残っていない。 触れることすら許されない。
抗うことすら許されない。
「うそ……、なんで……なんで届かないの……!?」
優空の呼吸が荒くなる。 焦りから身体が突っ込み、お手つきを繰り返す。 床に叩きつけられる彼女の指先の皮が擦り切れ、痛々しい赤色が滲む。
だが、肉体の痛みなどよりも遥かに深く、彼女の心を苛んでいたのは、「自分の唯一の特技すら、何一つ通用しない」という冷酷な現実だった。
「優空、落ち着け! まだ終わってない!」
千歳が必死に声をかける。 だが、その声すらも、今の優空には自らを責め立てる刃にしかならなかった。 ――朔くんが励ましてくれているのに、私は何もできない。
――豚汁も駄目で、かるたも駄目で、私は何の役にも立たない。
札の残り枚数は、瞬く間に削られていった。 そして、最後の一枚。
4
静まり返った体育館に、読手の声が冷たく響いた。
『――玉の緒よ、絶えなば絶えね ながらへば……』
(私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ。これ以上生き長らえていれば、心に秘めた恋心を隠し通せなくなってしまうから……)
平安の歌人が遺した、命を賭した恋の絶唱。 その歌が読まれた瞬間、優空の視界の端で、自陣の中央に置かれた最後の札が浮かび上がった。
(これだけは……! この札だけは、朔くんに……!!)
彼女は理性のタガを外し、自らの身体ごと前へと投げ出した。 擦り切れた指先を伸ばし、千歳への想いと、自らの最後の存在証明をかけて、畳の上を滑り込む。
だが――。
俺の右手は、すでにその軌道上に置かれていた。 飛び込んできた彼女の指先が札の縁に触れる、そのコンマ数ミリ手前。
俺の手の甲が、最小限のスナップで空気を薙ぎ払った。
――スッ、パァンッ!!
優空の指先が捉えたのは、札ではなく、冷たい畳のい草だけだった。
弾き飛ばされた最後の一枚が、冬の体育館の高い天井へと舞い上がり、力なくひらひらと床へ落ちていく。
「勝者、綾小路!」
審判の宣告が、無機質に体育館の空間を切り裂いた。
5.内田優空の視点 ~失われた存在意義~
畳の上に放り出された私の手には、何も残っていなかった。
指先がジンジンと痛む。 でも、それ以上に、胸の奥が空っぽになって、息の仕方が分からなくなっていた。
全部、負けた。 みんなのために早起きして作った豚汁は、一口も飲んでもらえずに捨てられた。
朔くんのために、何日も特訓して挑んだかるたは、一枚も満足に取れずに終わった。
私には、何もない。 地味で、取り柄がなくて、自信が持てなかった昔の私。
そこから抜け出したくて、必死にメイクを覚えて、服を選んで、料理を練習して、笑顔を作ってきた。
「優空ちゃんは気が利くね」「優空の料理は美味しいね」って言ってもらえることで、やっと自分の居場所を確かめていたのに。
(……全部、ハリボテだったんだ)
圧倒的な本物の前では、私の積み上げてきた「努力」なんて、砂のお城みたいに簡単に崩れ去ってしまう。 私は、朔くんを助けるどころか。
朔くんの隣に立つ資格すら、最初から持っていなかったんだ。
「……優空」
震える声が聞こえて、私は顔を上げた。 目の前に、朔くんがいた。
彼は私を見ていた。 怒っていなかった。軽蔑もしていなかった。
ただ――痛ましいものを見るような、自分自身の無力さを呪うような、暗く濁った絶望の瞳で、私を見つめていた。
(あぁ……見ないで……)
そんな顔で、私を見ないで。 「大丈夫だ」って言ってほしかったんじゃない。 私は、あなたに笑ってほしかっただけなのに。
私が頑張れば頑張るほど、あなたを傷つけて、あなたを惨めにしてしまう。
「ごめん……なさい……」
私の唇から、声にならない謝罪が零れた。 涙がボロボロと溢れて、畳の上に黒い染みを作っていく。
もう二度と、あの頃のように無邪気に朔くんの名前を呼ぶことはできない。
私が努力して手に入れたはずの「居場所」は、この冷たい体育館の床の上で、完全に消え去っていた。
6.凍てつく戴冠式
内田優空が女子生徒たちに支えられ、保健室へと連れて行かれた後、大会の閉会式が執り行われた。 個人の部の完全制覇、そしてクラス対抗戦の集計結果。
結果として、優勝トロフィーを手にしたのは2年5組だった。
だが、表彰台の中央に立つ千歳朔の隣には、誰もいなかった。 本来であれば、二人で掴み取るはずだった勝利。
だが今、千歳の手の中にあるのは、冷え切った金色のトロフィーと、誰も口にしようとしない焼肉の食事券だけだった。
「……優勝、2年5組代表、千歳朔」
読み上げられる表彰状。 まばらな拍手が、体育館のコンクリートに虚しく反響する。 誰も歓声を上げない。
千歳は顔を上げることすらできず、濁った瞳を床に落としたまま、ただ置物のように立ち尽くしていた。
自分のためにすべてを捧げようとした少女が、目の前で自尊心を粉砕され、二度と戻らない傷を負った。
そして自分は、その少女の犠牲の上に立って、望んでもいない空虚な栄光を受け取っている。
逃げ場のない罪悪感と無力感が、彼の魂を確実に凍てつかせていた。
俺は列の最後尾から、その痛々しい背中を静かに見届けていた。 千歳朔を支えていた最後の良心――内田優空の解体は完了した。
彼が再び他者を頼り、立ち上がろうとするための手足は、すべて切り落とされた。
体育館の扉の隙間から、冷たい木枯らしが吹き込んでくる。 すべてが凍りつき、静寂に沈む冬が、この箱庭を完全に覆い尽くしていた。
【百人一首編・完】