綾小路清隆がチラムネ世界にいる話   作:Valkiria

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新たなる刺客編・第6章 ~夜行性の断罪者、単純さという凶器~

 

1.凍てつく遊具の棺、圧縮された概念

 

 意識が浮上した瞬間、刺すような冷気が鼻腔を焼いた。  視界は暗く、耳元で冬の突風がヒューヒューと鳴っている。

 望紅葉は、公園のコンクリート製の土管遊具の奥底で、泥のように横たわっていた。

 

「っ……あ……、つ……」

 

 身体を起こそうとした刹那、全身の関節が軋みを上げ、頭蓋の奥で激しい吐き気を伴う拍動が暴れ回った。

 三半規管が麻痺している。顎の付け根が熱く腫れ上がり、頸椎に重い負荷がかかっていた。

 雪はすでに降り止んでいたが、衣服の隙間から体温が奪われ、指先は感覚を失いかけている。

 

 ――生きている。  殺されなかった。いや、殺害というリスクを背負う価値すら認められず、ただの障害物として「停止」させられたのだ。

 

 脳裏に焼き付いて離れないのは、あの感情を一切宿していない冷酷な双眸。  そして、一切の初動を感じさせずに自分の生命を3度も寸止めしてみせた、絶対的な身体操作。

 

(……勝てるわけが、なかった)

 

 技術の差、体格の差、経験の差。  そんな陳腐な言葉では、あの男の異質さを説明することなど不可能だった。  彼が放っていたのは、単なる格闘能力の優劣ではない。

 まるで――「暴力」という概念そのものを極限まで圧縮し、人体の形を保たせているかのような圧倒的な機能美。  無駄な咆哮も、威圧のポーズもない。

 ただ、最も少ない運動エネルギーで、最も効率的に人体の脆弱性を破壊する。

 

 自分たち『No Name』が、窓のない施設で血反吐を吐きながら目指していた理想の完成形。  その遥か高みに、あの男は最初から、当然のように君臨していたのだ。

 

「……化け物……」

 

 震える唇から漏れ出たのは、恐怖と、否定しきれない畏怖の入り混じった吐息だった。

 

2.敗残兵の帰路、監視者の嘲笑

 

 土管から這い出し、紅葉は足を引きずりながら歩き出した。  ダッフルコートは泥と雪で汚れ、自慢のオレンジ色の髪は乱れ果てている。

 今の彼女には、千歳を惹きつけた「愛らしい後輩」の面影も、路地裏で悠月を解体した「冷徹な工作員」の気迫も残されていない。

 ただの、自尊心を粉砕された敗残兵。

 

 街灯がまばらに明滅する、深夜の住宅街。  角を曲がった路地の先、自販機の灯りの下に、異質なシルエットが静止していた。

 黒のロングコートに身を包み、雪の中に傘もささずに立つ男。

 深夜の福井にはあまりにも不釣り合いな、しかし紅葉にとっては骨の髄まで馴染み深い、「組織」の監視員。

 

 男は泥まみれの紅葉を一瞥しただけで、眉毛一本動かさなかった。

 

「――やはり、こうなりましたか」

 

 男のトーンには、驚きも同情も含まれていなかった。ただ、実験結果を記録する研究員のような平坦さ。

 

「サンプル・クレハ。……あの『最高傑作』に単独で接触するなど、最初から分不相応でしたね」

 

(……知っていたの?)

 

 紅葉の奥歯がギリリと鳴った。  彼らは、綾小路清隆の正体を把握していたのだ。

 その上で、紅葉が暴走し、彼に接触して無様に解体される過程を、安全圏から冷徹に観測していた。

 悔しさを叫ぶ気力すら湧かなかった。紅葉はその場に膝をつき、凍てつくアスファルトに手をついた。

 

3.悪魔の履歴書

 

「立て、クレハ。計画が凍結された今、組織はお前を処分する予定はない。……乗れ」

 

 促され、紅葉は力なく黒塗りのセダンの後部座席へと身体を滑り込ませた。  車内には暖房が効いていたが、彼女の芯まで冷え切った身体が温まる気配はなかった。

 運転席の男は、助手席に固定された端末を取り出し、紅葉の前に画面を向けた。

 

「お前を打ち倒した怪物の素性について、最低限の情報共有をしておく義務がある。……見ろ」

 

 暗号化されたブラウザの画面に映し出されたのは、真っ白なコンクリートで覆われた、幾何学的な部屋の設計図。

 そして、均一な白い衣服を着せられ、無表情に数式を解き、格闘訓練をこなす子供たちのモノクロ写真。

 

「単刀直入に言おう。彼は、我々内閣情報調査室の非公式プロジェクトなど足元にも及ばない、ある『教育施設』の最高傑作だ。……通称、『ホワイトルーム』」

 

 男は冷徹に言葉を紡ぐ。

 

「我々『No

Name』は、あくまで実戦における戦闘と諜報、ターゲットへの擬態工作に特化した尖兵を育てるための実験だった。いわば、使い捨ての鋭利なメスだ。だが、ホワイトルームは根本的な設計思想が異なる。彼らが目指したのは、学力、知性、心理操作、肉体機能――あらゆる人間的領域において、全人類の頂点に君臨する『完全な人間』の人工的創出だ」

 

 男の指が画面をスクロールする。  そこには、膨大な測定データとともに、黒塗りにされた『第4期生』のカルテが表示されていた。

 

「その中でも、綾小路清隆は別格だ。過酷を極めたカリキュラムにおいて、ただ一人すべての基準値を極限値で突破した唯一の完成品。……クレハ、お前が敗北したのは当然だ。お前は優秀な『道具』として作られたが、あの男は、あらゆる人間を道具として従える『王』として作られたのだからな」

 

 紅葉の喉が、引きつったように鳴った。  あの公園で感じた、絶対的な断絶。

 才能の差などという生易しいものではない。積み上げられてきた「地獄の密度」が、最初から比較にすらならなかったのだ。

 

 車が、紅葉の暮らすアパートの前で停車した。  紅葉は無言のまま、幽霊のような足取りで車を降りた。

 黒塗りのセダンは排気音を低く響かせ、再び深夜の闇の中へと滑り出していった。

 

4.頭上の死神、合理的な伏撃

 

 紅葉を降ろした後、監視員の男はセダンを走らせながら、助手席の端末に視線を走らせていた。  画面には、綾小路清隆の福井における活動ログ。

 

(……ホワイトルームの最高傑作が、なぜこの地方都市の高校に潜伏している? 本部への報告次第では、我々の組織の再編のカードとして利用できるかもしれないな)

 

 諜報員としての計算と、怪物の情報を握っているという優越感。  その慢心が、彼から「生存のための警戒心」をわずかに奪っていた。

 

 車は市街地の外れ、街灯の間隔が広い片側一車線の道路へと差し掛かっていた。  前方には、雪の重みで錆びついた古い歩道橋。

 緩やかなカーブと、路面の凍結。男は無意識にブレーキを踏み、時速30キロまで車速を落とした。

 

 その瞬間だった。

 

 ――ドォォォォンッッ!!

 

 鼓膜を劈く爆音とともに、車のフロント部分が激しく沈み込んだ。  歩道橋の真下。

 上空から正確に投下されたのは、歩道橋の階段脇に置かれていた、凍結した重さ30キロの融雪剤用コンクリートブロック。

 自由落下による強烈な位置エネルギーが、セダンのエンジンフードとフロントガラスの境界部を直撃し、ボンネットをひしゃげさせ、強化ガラスを一瞬で蜘蛛の巣状に粉砕したのだ。

 

「なっ……!? なんだ――」

 

 急激な荷重変化に、タイヤがスリップして車体が横滑りする。  男が必死にステアリングを立て直そうとした、そのコンマ数秒後。

 

 ――バシャァンッ!!

 

 粉々になったフロントガラスを突き破り、黒いナイロンの手袋を嵌めた左手が車内へと突入してきた。

 歩道橋の手すりから、車の屋根へと音もなく滑落し、慣性の力を利用してフロントガラスへ侵入した影。

 目深に被った黒いニット帽、氷のように冷たい双眸。  綾小路清隆。

 

「ひ……っ!?」

 

「お前たちが裏工作や交渉を好むのは知っているが……手続きが多すぎるな」

 

 綾小路の右手掌が、ダッシュボードにマウントされていたタブレット端末を鷲掴みにした。  生体力学に基づき、指の関節をテコのように機能させた瞬間的な握力。

 

 ――バキィッッ!!

 

 強化樹脂のフレームがへし折れ、液晶パネルが砕け散る。

 綾小路は迷うことなく、内部のSSDストレージチップを指先で直接引き抜き、親指と人差し指の圧力だけで粉々にすり潰した。物理的な完全消去。

 

「き、貴様……ホワイトルームの――」

 

「俺がどうして、こういった暴力を選ぶのか分かるか?」

 

 綾小路は運転席の男の首根っこを掴み、その耳元で淡々と告げた。  息遣い一つ乱れていない。

 

「シンプルだからだ。言葉を交わす必要も、裏をかく必要もない。物理的に意識を断ち、記録を粉砕すれば、情報の流出は完全に防げる。……これ以上、確実な解決策はない」

 

 男の喉から空気が漏れる。  綾小路の右拳が、最短距離で男の顎の先端へと打ち込まれた。

 

 ――ドゴッ。

 

 頭蓋を的確に揺らす、急所打撃。  男の意識は、白目を剥くと同時に完全に暗転した。

 

5.完全な擬態事故

 

 綾小路は気絶した男の身体を素早く助手席へと押し込み、自ら運転席へ滑り込んだ。  歪んだステアリングを握り、シフトレバーをドライブへ入れる。

 アクセルペダルを踏み込み、加速。  向かう先は、道路脇に設置された頑丈なコンクリート製の電柱。

 

 時速60キロ。  衝突のコンマ5秒前、綾小路は運転席のドアを蹴り開け、雪の積もった路肩の吹き溜まりへと滑らかに身を躍らせた。  受身による衝撃の完全分散。

 

 ――ズガァァァァァンッッ!!

 

 金属の潰れる轟音が、深夜の寒空に響き渡った。  エンジンルームが電柱にめり込み、ラジエーターから白い蒸気が吹き上がる。

 路面に残されたのは、急ブレーキと凍結によるスリップ痕。

 警察の鑑識が入っても、「深夜の積雪によるスリップと、前方の落下物による単独事故」として処理される完璧な状況証拠。

 

 雪の中から立ち上がった綾小路は、衣服についた雪を静かに払い落とした。

 遠くからパトカーのサイレンが微かに聞こえ始める中、彼は誰の視界にも留まることなく、漆黒の闇の中へと消えていった。

 

6.バスルームの追憶、深淵の設計図

 

 自宅のアパート。  天井のシャワーヘッドから降り注ぐ熱い湯が、俺の身体を叩き続けていた。

 タイルの床へと流れ落ちていく湯煙の中に、微かな泥と、冷たい夜の気配が溶けて消えていく。

 

 俺は濡れた前髪をかき上げ、蒸気で曇った鏡を手で拭った。  映し出されたのは、無機質な自分の顔立ち。  そして――右の頬に走る、一本の赤い線。

 

「……微小な皮膚の裂傷か」

 

 指先でその傷に触れる。  望紅葉。あの後輩が、脳震盪を起こす直前に放った最後の悪あがき。

 あそこを出て以来、俺の肉体に物理的な痕跡を残した人間は、数えるほどしか存在しない。

 

 ――教本の存在。  紅葉は、なぜ俺があの『No Name』の技術体系を熟知していたのかを訝しがっていた。  理由は単純だ。

 

 ホワイトルームにおける俺の立ち位置は、単なる『最高精度のモルモット』に留まるものではなかった。

 父――綾小路篤臣をはじめとする上層部は、俺を将来的にホワイトルームの最高統括者、すなわち**「次世代の全カリキュラムを構築・指導する絶対的な管理者」**として育成することを義務付けていたのだ。

 そのため、俺は自らの肉体で極限の教育を受けると同時に、国内外に存在するあらゆる類似機関、模倣プロジェクトのデータを分析させられていた。

 

 内閣情報調査室が立ち上げた『Project Anonymous』――通称『No Name』。  その訓練教本、生体力学のカリキュラム、心理誘導のアルゴリズム。

 それらのデータがホワイトルームの机上に持ち込まれた際、当時まだ10代前半だった俺は、研究員たちの前でその教本を冷徹に添削し、赤ペンを入れてこう指摘したのだ。

 

『重心移動における骨盤の連動性が甘い。第4セクターの教官が指導するステップワークは、初速こそ出るが膝関節への負担が大きく、消耗が早い。……三流の模倣品だ』、と。

 

 あのプロジェクトを立ち上げた政治家や研究員たちは、ホワイトルームの存在に対して、異常なまでのコンプレックスと嫉妬、そして宗教的なまでの羨望と崇拝を抱いていた。

 ホワイトルームに追いつきたい。あそこの技術を盗み出し、国家の傘の下で再現したい。

 そんな凡人たちの浅ましい模倣の果てに生み出されたのが、望紅葉という哀れな尖兵だったのだ。

 

 俺が彼女の動きをすべて先回りできたのは当然だった。

 彼女が何年もかけて身体に叩き込んできた「必殺の技術」は、俺がかつて机の上で欠陥を指摘し、捨て置いたプロトタイプの残骸に過ぎなかったのだから。

 

7.外堀の完成

 

 俺はシャワーのコックを捻り、湯を止めた。  静寂がバスルームを支配する。

 

 タオルで身体を拭きながら、俺は福井に来てからの盤面を脳内で整理した。

 

 柊夕湖。  甘えの特等席を奪われ、カーストの頂点から滑り落ちた。  青海陽。  バレーの惨劇によって顔面を破壊され、球体へのトラウマに怯えている。

 西野明日風。  静謐な聖域を無惨に踏みにじられ、精神的シェルターとしての役割を剥奪された。  内田優空。

 豚汁の破綻と百人一首の完敗により、努力によって積み上げたアイデンティティを根底から粉砕された。

 七瀬悠月。  冷徹な知性の仮面を剥ぎ取られ、路地裏の泥水の中でプライドを解体された。  そして、望紅葉。

 外側からすべてを上書きしようとした最強の侵略者は、初恋も、エージェントとしての誇りもすべて奪われ、闇へと葬られた。

 

 千歳朔を取り囲んでいた、すべての支柱。  彼が頼り、彼を肯定し、彼を「王」たらしめていたすべての女性陣は、完全に機能を停止した。

 外堀は、一分の狂いもなく埋め立てられた。

 

 残されたのは、丸裸にされた本丸――千歳朔、ただ一人。

 

「……さて」

 

 冷えたタオルで顔の水分を拭い去り、俺は暗い洗面台の鏡を見つめた。  感情のない瞳が、夜の帳の向こうにある最後の舞台を見据えている。

 

「仕上げの時間を、始めるとしよう」

 

【新たなる刺客編・完】

 

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