1.夜明けの呼び出し、濁った瞳
合宿最終日の早朝。 午前5時半。東の稜線がわずかに白み始めたばかりの雪山は、針を刺すような極寒の静寂に閉ざされていた。
本館の暖房から離れた、除雪すらされていない旧体育館の裏手。
凍りついた雪を踏みしめながら歩を進める俺の前に、一人の男が待っていた。
千歳朔。 ダウンジャケットのフードも被らず、吹き付ける地吹雪の中に立ち尽くす姿。 かつて周囲のすべてを惹きつけていた端正な顔立ちは、今や見る影もなかった。
目の下には墨を刷いたような濃い隈。頬は削げ落ち、乾燥した唇の端には血が滲んでいる。 何より――その双眸にあったのは、これまでの怯えや絶望ではない。
自らを支えていた世界のすべてを喪失し、底なしの暗闇へと堕ちた者だけが宿す、濁りきった凶気だった。
「……来たな、綾小路」
千歳の声は、冷たい風に混ざりながらも、凍りついた刃のように低く響いた。 ポケットから携帯電話を取り出し、雪の上に放り捨てる。
そこには、昨晩のキャンプファイヤーで焼き捨てられた文庫本の灰の写真が表示されていた。
「朝早くに呼び出して、一体何の用だ? もうすぐ帰りのバスの点呼が始まるが」
俺はポケットに両手を突っ込んだまま、息を白く吐き出して答えた。 千歳は俺の言葉に答えない。 ただ、一歩、雪を踏みしめて間合いを詰めてきた。
2.開戦の咆哮と、野生の告発
――ザンッッ!!
前触れのない、全力の踏み込み。 千歳の右拳が、風を裂いて俺の顔面へと一直線に放たれた。
高校野球で培った強靭な広背筋のバネと、体重のすべてを乗せた渾身のストレート。
俺は上体をわずか数センチ後方へ傾けた。 ヘッドスリップ。 千歳の拳が、俺の鼻先を掠める風圧だけを残して空振りに終わる。
体勢を崩しかけた千歳は、雪を蹴って強引に踏み止まり、肩で荒い息を吐きながら俺を睨みつけた。
「……やっぱり、避けたな」
千歳が血走った目を細める。
「普通のスプリンターなら、今の不意打ちに反応すらできない。……お前は、最初から全部見えてるんだ」
「何の話だ」
「とぼけるなッ!!」
千歳の怒号が、雪山に反響した。
「根拠なんてねえよ! 防犯カメラにも、警察の記録にも、お前の名前なんてどこにも残ってない!
文化祭の時もお前には完璧なアリバイがあったし、昨日の模試だってお前が関わった証拠なんて一つもない!」
千歳は拳を固く握り締め、吐き捨てるように言葉を叩きつける。
「でもな……お前がこの学校に来てから、全部が狂ったんだよ! 体育祭でお前が走ってから、球技大会でお前が陽たちの顔面を撃ち抜いてから!
夕湖も、陽も、悠月も、優空も、紅葉も……そして、明日風先輩まで! 俺が大切にしてきた場所のすぐ隣に、いつだってお前が立っていた!」
論理ではない。証拠の積み上げでもない。 失うものがなくなった男が、極限の極地で発揮した、腐っても「物語の主人公」としての動物的な直感(センサー)。
張り巡らされた欺瞞の網の向こう側に潜む、唯一の元凶の匂いを、千歳の本能は正確に嗅ぎ取っていた。
「答え合わせをしろ、綾小路……! 全部、お前の仕業なんだろ!? 俺の周りの人間を一人ずつ壊して、俺をこの地獄に叩き落としたのは……お前なんだろッ!?」
千歳の絶叫が、朝の冷気を切り裂く。 俺はポケットからゆっくりと右手を引き抜き、視線を千歳の濁った瞳へと据えた。
「答えを知りたいか」
感情の起伏を一切排した、冷徹なトーン。
「なら、条件を出そう。……俺に勝てたら、すべてを教えてやる。お前の想像通りだったのか、それともただの被害妄想だったのかをな」
「……上等だァッ!!」
千歳朔が、理性のタガを完全に外して吼えた。
3.生体力学の解体、意識を刈り取らぬ打撃
――ドォッ!!
雪煙を巻き上げ、千歳が突進してきた。 がむしゃらなラッシュ。 左ジャブ、右のフック、そこから首元を狙った大振りのスイング。
元アスリートの運動神経が、憎悪という燃料によって極限まで引き出されている。常人の喧嘩であれば、相手を瞬時に病院送りにできる威力の連撃。
だが――俺の視覚において、その動きはあまりにも鈍重だった。 予備動作の塊。 肩が上がり、視線が先に動き、足の踏み込みが地面を無駄に叩いている。
俺は両手をだらりと下げた脱力状態のまま、首を傾げ、半歩引くだけでそのすべての拳をミリ単位ですれ違わせた。 ヒュッ、バッ、ザッ!
千歳の拳が、俺の衣服の布地をかすめることすらなく空気を切り裂き続ける。
「当たらねえ……ッ! なんで、一発も……!」
「視線が拳の軌道を教えている。重心が浮いているぞ、千歳」
俺は千歳の右ストレートの空振りの隙間――彼の脇腹ががら空きになった刹那、最小限の踏み込みで間合いへ滑り込んだ。 狙うのは骨の破砕ではない。
肋骨の隙間、肋間神経が密集するポイントへ向けて、掌底を短く押し込む。
――ズンッ。
外見上は軽く触れただけに見える打撃。 だが、衝撃波は皮膚を透過し、神経系へダイレクトに激痛を走らせた。
「ガッ……!? げホッ……!」
千歳の肺から強制的に呼気が吐き出され、膝がガクリと折れかける。 だが、俺はその顎を左手で軽く支え、意識が落ちる前に強制的に引き戻した。
ノックアウトはさせない。 神経が焼き切れるような苦痛のデータを、その脳髄へ過不足なく刻み込ませるためだ。
「まだだ。勝負は始まったばかりだろう」
俺は千歳の身体を突き放すと同時に、右足のインサイドで、彼の右太腿の外側――外側大腿皮神経の急所を的確に叩いた。
パシィッ!
「あぐっ……!?」
脚の筋肉が激しく痙攣し、千歳が雪の上に片膝をつく。
激痛。だが、骨は折れていない。動けなくなる限界値のわずか手前で、筋出力を完全にコントロールした精密な解剖打撃。
「立て。お前の『主人公』としての意地は、その程度か?」
4.増殖する恐怖と、がむしゃらな執念
「ハッ……、カハッ……!」
千歳は口から泡混じりの唾液を垂らしながら、泥まみれの雪を掴んで立ち上がった。 その瞳の奥に、猛烈な「恐怖」が兆し始めていた。
当たらない。 一発も触れることすらできない。
それどころか、相手は息一つ乱さず、まるで作業のように淡々と自分の急所を抉り、ギリギリ意識を失わないラインで激痛を与え続けている。
(化け物だ……。こいつは、人間じゃない……!)
背筋を駆け上がる本能的な悪寒。 逃げ出したい。うずくまって許しを乞いたい。 だが――千歳朔の中で、ドス黒く燃えるプライドの残滓が、その逃避を許さなかった。
ここで膝を屈すれば、夕湖を失い、陽を壊され、悠月を泥に沈められ、優空の心を殺され、明日風との思い出を灰にされた自分の人生は、完全に「無意味なゴミ屑」として確定してしまう。
それだけは、死んでも受け入れられなかった。
「うおおおおおおおおっ!!」
千歳が獣のような絶叫を上げ、再び突進してきた。 フォームも何もない。
泥を跳ね上げ、両腕を振り回し、頭突き、噛みつき、目潰し――体裁をかなぐり捨てた、生存のための泥沼の暴走。
バシッ! ドスッ! ガッ!
俺は最小限のパーリングでその腕を弾き、鳩尾、鎖骨の根元、上腕二頭筋の腱へと、寸分狂わぬカウンターを差し込み続けた。
打撃が走るたびに、千歳の身体がビクンと跳ね、激痛の呻きが漏れる。
だが、千歳は倒れない。 倒れることすら許されないほどの狂気的な執念が、傷だらけの身体を無理やり前へと押し出していた。
「死ねッ! 消えろッ! 俺の……俺たちの世界を返せェェッ!!」
血走った瞳から、涙と鼻水が溢れ出し、血と混ざり合って凍てつく頬を伝う。 美しい青春の王など、そこには影も形もなかった。
ただ、自らの失った箱庭を求めて、圧倒的な捕食者にがむしゃらに縋り付く、哀れな敗残兵の足掻き。
(……限界値だな)
千歳の心拍数は200を越え、乳酸の蓄積によって筋肉の組織破壊が始まっていた。 これ以上の継続は、肉体的な後遺症を残すリスクがある。
教育の時間は、これで十分だった。
5.強制終了(ノックアウト)、あるいは落日の静寂
千歳が最後の一歩を踏み込んだ。 全身の体重と、残された魂のすべてを注ぎ込んだ、右の全力ストレート。 雪を蹴る音が、悲鳴のように響く。
俺はその拳の軌道を見据え、初めて自ら前へと踏み込んだ。 ゼロ距離への侵入。
千歳の拳が俺の右耳の横を通過するコンマ数秒の静寂の中、俺の左腕が、千歳の右腕の内側を滑らかに擦り上がった。
受け流し(パリー)からの、完璧な体幹の制圧。 千歳の視界から、俺の姿が一瞬で消失する。
「……終わりだ、千歳」
俺の右手の掌底が、千歳の顎の先端へと、下から斜め45度の角度で突き上げられた。 力を込める必要はない。
千歳自身の突進力と、俺の手の平が放つ最小限の衝撃波の衝突。
――ガグンッッ!!
乾いた、鈍い頸椎の軋み音。 脳幹が激しく頭蓋骨の内壁に衝突し、千歳の視神経と意識を司る回路が、不可逆的に遮断された。
「あ……」
千歳の瞳から、狂気も、怒りも、すべての光が失われた。 瞳孔が開き、焦点が完全に霧散する。
彼の身体は、糸を切られたマリオネットのように脱力し、ゆっくりと前傾していった。
――バフッ。
新雪の上に、千歳朔の身体がうつ伏せに崩れ落ちた。 微動だにしない。
荒く乱れていた呼吸は、浅く静かなものへと変わり、ただ冷たい吐息だけが雪の表面を白く揺らしていた。
完全なノックアウト。
昇り始めた朝日が、雪山の木々を朱色に染め上げていく。 体育館裏に、完全な冬の静寂が戻っていた。
俺は倒れ伏した千歳朔を一瞥し、乱れた衣服の襟元を無造作に整えた。 息の乱れはない。心拍数は平常値。
雪の上に横たわる元・王様の背中は、朝日を浴びながらも、二度と戻らない影の中に沈んでいた。
「答え合わせは、お前自身がその頭の中で続けるといい」
俺は誰に聞かせるでもなく呟き、ポケットに両手を戻すと、宿泊棟へと続く足跡を静かに歩み出した。
遠くで、朝の点呼を告げる放送が、冷たい山風に乗って鳴り響き始めていた。
【第三十章・完】