4限目。冬の薄い陽光が差し込む第1調理実習室。
換気扇の低い回転音と、まな板を叩く包丁のリズミカルな音が室内に充満していた。
2年5組の家庭科実習。本日の課題は、アジの三枚おろしと、付け合わせとなるリンゴの飾り切り。
昨晩の盗聴ログで把握していた通り、事前の班分け工作により、俺の調理台には内田優空と柊夕湖、そしておとなしい男子生徒が1名配置されていた。
長机を挟んで向かい合う形となる配置。
「……あ、綾小路くん。リンゴのカッティング、お願いしてもいいかな? 私、アジの下処理やっちゃうから」
内田優空が、努めて明るい声色を作って俺に声をかけてきた。
エプロンの紐を結び直し、微笑みを浮かべる彼女。
だが――俺の視覚と聴覚のセンサーは、彼女の肉体が発する無数の「不協和音」を、コンマ1秒の遅れもなく検知していた。
声帯の緊張による、ごく僅かな語尾の震え。
左の頸動脈の拍動は、安静時のそれを大幅に上回る1分間あたり115回。
額の生え際と鼻頭に浮き出た微細な発汗。
そして何より――彼女の視線が、まな板の右脇に置かれた**木製の柄のペティナイフ**へと、磁石のように吸い寄せられていること。
「そうね、綾小路くん器用そうだし! リンゴ、うさぎの形にしてよー」
隣に立つ柊夕湖が、軽薄なギャルのノリを装って追随する。
だが、その瞳の奥には、留年を告げられた人間の切迫した復讐の光がギラギラと渦巻いていた。
爪のマニキュアを剥がした指先が、調理台のステンレスの縁を白くなるほど強く握りしめている。
(……観察眼のある人間が見れば、一発で企みを疑われるレベルの動揺だな)
俺は心の中で小さくため息をつきながらも、表情筋を一切動かさず、感情のない瞳で頷いてみせた。
「分かった。リンゴの皮むきなら問題ない」
俺は素手を伸ばし、まな板の上のペティナイフを取り上げた。
その瞬間、優空の喉仏が小さく上下し、夕湖の肩の強張りがわずかに弛緩した。
――第一関門の突破。彼女たちの脳内で、安堵の物質が分泌された証拠だ。
### 2.採取される指紋、計算されたグリップ
俺は彼女たちの期待を裏切らないよう、木製の柄をしっかりと右手の掌全体で握り込んだ。
親指の腹をブレードの付け根に押し当て、人差し指から小指までの4本で柄の側面を均等な圧力で包み込む。
掌の皮脂と指紋が、使い古されたブナ材のグリップへと、最も鮮明な形で転写されるフォーム。
左手でリンゴを固定し、刃先を入れる。
シュルシュルと、途切れることなく均一な厚みで赤い皮が剥がれ落ちていく。
手際よく8等分に切り分け、芯を取り除き、皮の表面にV字の飾り切りを施す。
所要時間はわずか2分。
一切の澱みのない、職人のような包丁捌き。
「……す、すごいね、綾小路くん。本当に手際がいいんだ……」
優空が引きつった笑みを浮かべながら、皿を差し出してくる。
その視線はリンゴではなく、俺の手の中にあるナイフの柄に注がれていた。
「これでいいか?」
「うん、完璧! ありがとう、あとはこっちで盛り付けておくね」
俺はペティナイフをまな板の端へと置いた。
刃の汚れを水で流すことも、布巾で柄を拭くこともせず、そのままの状態で。
優空たちの作戦における最大の懸念――「綾小路が自らナイフを洗って指紋を消してしまうリスク」を、俺はあえて親切に回避してやったのだ。
実習の後半、後片付けの時間。
シンクの周囲で生徒たちが洗い物に追われる混乱の最中、俺は背を向けて食器を拭くふりをしながら、調理台の鏡面反射を利用して背後の優空の動きを完全にモニタリングしていた。
優空は周囲に誰もいない隙を見計らい、エプロンのポケットから取り出した清潔な布巾で、ペティナイフの刃先だけを慎重に包み込んだ。
柄の表面には絶対に触れないよう、ピンセットのように布越しに先端を挟み、あらかじめ用意されていた緩衝材付きのプラスチックケースの中へと滑り込ませる。
パチン、と小さな留め具の音が鳴り、ケースはそのまま彼女のスカートの奥深くへと隠蔽された。
(……採取は完了、か)
俺は静かに食器を棚へと戻した。
調理実習は何の波風も立つことなく、極めて平穏のうちに終了を告げた。
### 3.迎撃準備、逆監視の包囲網
放課後。
冬の短い陽はすでに傾き始め、校舎の廊下は茜色から群青色へとグラデーションを描いていた。
生徒たちが部活動や帰路へと散っていく中、俺は一人、静まり返った旧校舎の渡り廊下へと足を運んでいた。
ポケットから取り出したのは、爪の先ほどの大きさしかない超小型の高精細4Kワイヤレスカメラ。
暗視補正機能と、動体検知自動録画プロトコルを内蔵したプロ仕様の偵察機材。
昨晩の盗聴ログによれば、七瀬悠月と望紅葉が望遠レンズを構える予定のポイントは、**旧部室棟の2階・元写真部の暗室の窓**。
そこから見下ろす形で、旧校舎裏の外階段の下――千歳が自らの太腿を刺し、階段から転落する現場をトリミング撮影する手筈になっている。
俺は外階段の踊り場の裏側、雨樋の留め具の影へと指先を伸ばし、小型カメラを強力なネオジム磁石で固定した。
レンズの仰角は、旧部室棟2階の窓と、階段下の地面の双方を同時にフレームに収めるパノラマアングル。
これにより、**「階段下で起きる千歳の自作自演の全貌」**と、**「2階の窓からカメラを構えてそれを偽装撮影している悠月と紅葉の姿」**が、寸分の狂いもなく同一画面内に時系列で記録される構造が完成する。
さらに、俺は自らの制服のブレザーの第2ボタンを、あらかじめ用意しておいたピンホールレンズ内蔵のダミーボタンへと付け替えた。
千歳との会話のすべて、そして彼がナイフを自らの太腿へと突き立てる瞬間の至近距離映像を、俺自身の視線ログとして保全するためだ。
すべての迎撃準備の完了。
所要時間は、わずか4分足らず。
### 4.処刑場への招待状
教室へ戻り、鞄を整理していた午後4時45分。
制服の内ポケットの中で、スマートフォンがブブッと短く震えた。
画面を点灯させる。
LINEの通知。
差出人は――千歳朔。
『話したいことがある。これまでのこと、全部だ。……放課後、旧校舎裏の外階段の下に来てくれ。一人で来てほしい』
無駄のない、典型的な呼び出し文面。
すべてを失った男が、最後の決着をつけるために敵を死角へとおびき寄せるための、命懸けの招待状。
このメッセージの送信履歴そのものが、事件後に警察が押収した際、「千歳朔が綾小路を呼び出した」という状況証拠の一部になることすら、水篠和希は計算に入れているのだろう。
(……役者は揃ったな)
俺は画面に指を滑らせ、感情の起伏を一切感じさせない平坦な文面を返信した。
『分かった。すぐに向かう』
送信完了のチェックマークがついたのを確認し、俺はスマートフォンをポケットへと滑り込ませた。
鞄を肩にかけ、誰もいなくなった2年5組の教室の引き戸を開ける。
廊下に吹き込んでくる冬の風は、すでに氷点下に近い冷たさを孕んでいた。
自らの肉体を切り刻んで怪物を屠ろうとする、哀れな復讐者たちの劇場。
その幕引きを特等席で見届けるため、俺は静かに、雪の積もる旧校舎裏へと歩みを進めた。